カフカの迷宮実験

小津万実

第1夜 本日は曇天なり

「こんにちは、お名前をお伺いしてもよろしいですか?」

「…………」

「ま、まあ、お気になさらず。最初は堅苦しく感じるかもしれませんが、じきに慣れてきますよ」




ーー15年後。




「それでは本日の説教……ヨハネ黙示録第2章17節。ーー勝利を得るものには隠されているマナを与えよう。また白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほか誰も知らない新しい名が書いてある」



 ひそひそ……「ねえ、あの人の名前って知ってる?」

「誰も聞いたことがないんですって」

「もうかれこれ長いことうちに来てるじゃない?」

「一体何者かしら……」



「おや? いつもありがとうございます。奉仕にご熱心ですね」

「…………」

「……よければ、あなたのお名前をお訊かせ願えないでしょうか? いえ、分かっております。本当はあなたに名前はない。ここへは様子を見るために来ていますね」

「わたしは……怪しいものではありません」

「それではせめてお名前を……」



 彼はそこまで聞くとため息をついた。「今はまだないのです。やがて主から与えられる名が、わたしの本当の名前となります。それまでは、全てかりそめに過ぎません……この世は虚構」



 牧師は話すうちに男の影がちらちらと光るのが気がかりだった。


 影ばかりではない、まるでTVの砂嵐のように、全身の姿がブレていく。



「あなたは……いえ、ここは?」

「だから言ったでしょう。全ては虚構に過ぎないと」



 もう周りの景色すべてが崩れだしていた。光という光、音という音が混ざり合い、溶けてゆくように散り散りになっていく。




 ブォン…………

ーーバグはどうしても生じるようだな。

ーーええ、これだけは何度実験しても被検体の意識に残ってしまいます。

ーーこんな結果では上司になんと報告すればいいのか。我らが干渉しだしてから、いまだに失敗続きだ。

ーー天使の登場はまだ時期尚早だったのかもしれません。

ーー仕方ない。今回も被検体の意識をリセットして最初からやり直しだ。

ーーでは上司にもそうお伝えするのですね。

ーーうむ……せっかちで人使いの荒い造物主(クリエイター)だ。



 そこで痩せた白服はクスリと笑って、そんな事を言っては聞かれてしまいますよ、と返した。

恰幅のよいほうの白服は、眼前にあるコントロールパネルの赤いスイッチを押すと、レバーを引いて次の被検体の様子を伺いに行く。そこでは眠れる羊たちが薬物によって生かされていた。スピーカーから流れるチャイコフスキーの弦楽セレナーデが、悲壮感を否応なく盛り上げる。



 彼らがいる廃工場のような外観の建物には「THE FICTIONAL COMPANY(虚構会社)」の錆びれた看板がズレて掲げられている。


 荒廃した惑星では、明かりも滅多に入らない、分厚い曇り空に覆われていた。本日も曇天なり。

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