仄汚い女

そうざ

The Dirty Woman is Difficult to Handle

              1


 カーテンを開ける。

 真夏の陽射しが白い寝室を縁取って行く。入道雲を配した遠い水平線は今日も穏やかだ。

 何キロも離れた場所にある空調設備が、年柄年中ダクトを通じて快適な空気を送り込んでくれている。この邸宅には四季がない。

 海岸際のは相変わらずそこにある。目障りだけれど自分と同類と言えば同類だし、自分の成れの果てと思えば憐れみを感じなくもない。

 また暇潰し同然の一日が始まる。

 好い加減、読書にも飽きて、最近は漢字ドリルに精を出している。テレビは観られないが、鉱石ラジオならば聴ける。シンプルなラジオは子供の頃から私を受け入れてくれた唯一の友達だ。

 でも、もう退屈を塗り替える程の作用はない。

「写経でもしようかなぁ」

 ガラス張りのダイニングルームに入ると、既に一人分の昼食ちょうしょくが湯気を立てていた。私が寝ている間に係員が素早く用意してくれたものだ。

「今日は洋食……か」

 コーンスープを味わいもせず喉に流し込む。ホテルのような食事にも飽きが来ている。コンビニ弁当が懐かしい。今度、リクエストしよう。

「ご馳走様でした」

 独り言が当たり前の日常にもすっかり慣れた。

 ここはパソコンも携帯電話も使えない。外部との接点は置き手紙しかない。

 期待せずに郵便受けまで行き、思わず声が出た。

「来てる!」

 私は歌留多かるたの取り札を見付けたような気分で赤い紙片を掴み出した。何も書かれてはいないが、私と外部とを繋ぐ唯一の旅券パスポートなのだ。

 今度の使命ミッションは私をどれくらい退屈から解放してくれるだろうか。


              ◇


「また止まったのか」

 ここ一週間で作業用のベルトコンベアが原因不明の緊急停止を起こすのは四回目だった。

 仕分け現場の主任が苛立ちながら駆け付けるが、アルバイト達は暢気に笑っている。作業が一時中断しても時給には換算されるから、寧ろ有り難いのだろう。

 主任が私をぎろりと睨んだ。私は口を尖らせたまま目を泳がせた。私がシフトで入っている時に決まって機械が止まる、と誰もが疑念を募らせている。

 制御装置を幾ら弄っても機械がうんともすんとも言わないので、主任は額の汗を拭いながら言った。

乃木波ノキナミさん、今日は早退して良いよ。タイムカードは五時で押しとくから、取り敢えず帰って」

 遠からずまた馘首くびになるだろう。正確に言えば、自ら辞めざるを得ない雰囲気にされてしまうのだろう。

 ――これがほんの半年くらい前までの私だった。


              ◇


 このは子供の頃からあった。子供が玩具を壊すのはよくある話だけれど、私の場合は少し変わっていた。

 冷蔵庫、電子レンジ、洗濯機、テレビ、パソコン、ガス給湯器、温水洗浄便座等が次々に調子が悪くなる。でも、それは私が近くに居る時だけで、離れれば正常に戻る。

 両親は私が学校や外遊びに出掛けている間に家事や在宅ワークを済ませるのが日課になった。

 壊し癖は、成長するに連れて益々酷くなった。

 同級生のように携帯電話やゲーム機を気軽に使えず、私は疎外感を深めて行った。やがて、あいつの側に居ると機械だけじゃなくて頭が馬鹿になる、という悪い評判が立ってしまった。

 家電量販店は勿論、何かしらの機器が存在する場所は避けざるを得ない。バスも電車も飛行機も利用出来ない。病院なんて以ての外だった。

 いつまでも親の脛を齧っている訳には行かない、と言うか、私が居たら迷惑だろうと高校を卒業すると同時に実家を出た。

 他人に煙たがれる日々は、私を極度の人見知りにさせた。出来そうな仕事は限られ、一人で黙々と作業をこなす工場アルバイトだけが頼みの綱だった。

 けれど、機材トラブルが起きると直ぐに私との関連性が怪しまれ、解雇に追いやられるのが落ちだった。


              2


 運転席からの声で起こされた。

「ラヴさん、目的地に到着しました」

 私はコンテナ内のベッドに寝転んだまま欠伸で応えた。

 コードネームという奴にもようやく慣れた。RAVラヴなんて名前は気恥しくて仕方がないけれど、単なるだと思えば割り切れる。

「いつものようにこの後は直接指示が出来ないので、自己判断で上手くやって下さい」

 通信機器は使えない。まさか手旗信号で伝える訳にも行かない。自分の裁量で粛々と成し遂げるしかない。でも、人見知りの私にとってはそれが何とも有り難かった。

 重い扉が開くと、強い陽射しと匂い立つような南国の風に包まれた。私は大きく伸びをし、縮こまった身体をほぐした。

 いつもの事とは言え、今回は特に移動距離が長かった。昨夕に自宅を出発し、十時間以上も窓のない特別仕様車のコンテナで小包のように揺らされた。

 飛行機ならば何分の一かの時間で済むところだけれど、勿論、私の体質がそれを許さない。

 別仕様車が逃げるように走り去った。首尾良く任務が完了すれば、ここへ迎えに来てくれる。もし失敗しくじったら――何百キロも歩いてゆっくり帰ろうか。


              ◇


 目的の駅前広場は既に人でごった返していた。普段は閑散としているだろう事は、『ようこそ○○市へ』と喧伝する看板の色褪せ具合から容易に想像出来た。

 バスターミナルの真ん中に島のような区画があり、『日戸寄ひとよせまきえ』という候補者名が掲げられた選挙カーが横付けされている。

 演説者側からも聴衆側からも見通しが良い立地としてここが選ばれたのだろう。いつになってもこの国の政治家はアナログな選挙活動を続けたいらしい。

 なるべく一ヶ所に立ち止まらないように心掛ける。気休めだとしても、関係のない人達になるべく迷惑を掛けたくないと、私の中の倫理観がそうさせる。

 やがて、頭に鉢巻、肩に襷の日戸寄が車から現れると、ぱらぱらと拍手が起きた。薄いピンク色のスーツは、若さと女性らしさと無邪気さを演出しているのかも知れない。

 地元のテレビ局で何年かアナウンサーをやっていたそれなりの経歴と知名度、そして何よりも端正な顔立ちが醸すクリーンなイメージ――それが立候補者として白羽の矢が立った理由らしい。

「皆さん、今日はーっ」

 口跡の良さは折り紙付きだ。生活情報番組の顔として親しみ易さを売りにして来た成果だろう。

 人波を避けながら、私は事前に受けたブリーフィングの内容を反芻した。


              ◇


「この人は、ご存知ですね?」

 連絡役に提示されたのは新聞だった。中年男性が太い活字と共に一面を飾っている。

「元総理大臣の古部こべさん……」

「はい、この方が某所で演説をするんです」

「選挙ですか?」

「ええ、若手候補者の応援で」

 そう言えば最近、解散総選挙がどうとかこうとか、政治に疎い私にも鉱石ラジオが伝えてくれていた。

「明朝、現地に向かって貰います」

「急ですね」

「警備の関係上、前日の発表になったようです」

「怖い警備員が沢山居るんですか?」

「そりゃあ、元総理ですから。しかし、貴女が警戒される心配はありません」

 私に出来る事は妨害いやがらせでしかない。これまでもそうだった。そもそも、幼少時からずっとそんな人生を歩んで来たのだ。

 でも、分厚いフェイスシールド越しでは細かな表情までは判らないが、いつもとは違う緊張感が伝わって来る。先方はいつも髪の先から爪先までで私に対峙する。

「やって頂けますか? 他に何かご都合でも?」

 そう言って連絡役が意地悪く破顔したように見えたのは、私の被害妄想だろう。

「お陰様で毎日が日曜日ですから、何も問題ありません」

「では、宜しく」

「……あ」

「何か?」

「今度、コンビニ弁当の差し入れをお願いします」


              ◇


 日傘の数が増える頃、一際大きな拍手が起きた。

 若手候補者の呼び込みで、後方に停められたワゴン車から古部氏が登場すると、同時にSPの動きが顕著になった。

「不肖古部が地元の皆様の許へ帰って参りました!」

 嵐のような拍手に歓声が入り混じる。地元出身の総理大臣経験者となるとここまで崇められるのか、と私は唖然とした。

 一方で、数々の疑獄事件への関与を疑われたまま体調不良を理由に突如総理の職を辞した人物でもある。

 証人喚問を行うべきとの国民的な声が高まる中で緊急入院をしたのは、本当に体調が原因だったのか。

 結局、彼はそのまま議員辞職し、私人に戻った以上はもう説明責任はないと突っ撥ねた。真実には今も黒い霧が掛かったままだ。

 でも、偉そうな事を言えた義理ではない。私にしても、けっして晴れない黒い霧の中で生きる小さな真実なのかも知れない。


              ◇


何方様どちらさま?」

「貴女の才能を活かせるお仕事をご紹介したいと思いまして」


「どうして私の事を?」

「私共の配下はあらゆる業界に潜り込んでおりますから」


「私にどうしろと?」

「私共が請け負った依頼を代行して頂きたいのです」


「私にどんなメリットが?」

「今後の生活一切を保証致します。もう世間体を憚る肩身の狭い日々を送る必要はありません」


「…………」

「ご協力頂けますか?」


 私はずっと居場所を探していた。

 他人と上手くやって行く自信を持てる日は生涯やって来ないだろう。

 誰にも干渉せず、干渉されず、人知れず生きて人知れず死ねればそれで良い。それなのに、それだから――生きる術を、生きる価値を、生きる意味を与えてくれるの支配下に身を置く道を選んでしまった。


              ◇


「日戸寄さんは世の為、人の為、身を粉にして頑張ってくれる若者です! 他でもないこの私が保証致します!」

 拍手と歓声の大波が起きる。

 古部家は代々政治に携わって来た家系らしい。その血筋から何人もの人材を政界へ送り出し、大臣経験者も一人や二人ではない。議員を辞めてからもその影響力は大きい。地元民の誰もが利益誘導やら何やらで恩恵に預かっている事を、特に年配者は強く自覚しているそうだ。

 無数の携帯電話が宙に掲げられ、撮影会の様相を呈し始める。同時に、私の周りだけ特別な声が上がる。

「あれ……動かない」

「何で何で? 急に固まったっ」

「画面表示がおかしい。再起動した方が良いのかな?」

 万雷の拍手の中、演者二人は車の『お立ち台』から降り、選挙民のもとへと歩み寄った。

 忽ち群がる一人一人と笑顔で握手、笑顔で握手、笑顔で握手――新人候補者の初々しい仕草とベテラン大臣経験者のこなれた所作とが場の空気を支配する。

 握手は必要ない。私は或る程度の距離を詰めればそれだけで使命は遂行出来る。

 人波のはざまからSPが見え隠れしている。その挙動は何処か滑稽だった。頻りに耳のイヤホンを気にしている。調子がおかしいのだ。

 地元民越しに古部氏が間近に迫った。

 この国の元リーダー。連日メディアに顔を出し、世間に注目され、称えられながら貶され、貶されながら称えられ、国の行く末について熱く語り、自身の潔白を機械的に主張していた人物は――間近で見ると、汗と脂にまみれた唯の小柄な小父さんだった。

 こういう時は妨害する相手を睨んだ方が良いのか、ちょっとだけ悩む。伏し目勝ちな妨害だなんて、格好の良いものではない。

 一瞬、古部氏と目が合った。

 私は直ぐに目を逸らした。


              3


 また一つ仕事を終えた。何の感慨もない。久し振りに遠出をし、土産も買わずに帰宅した。ほんの一時、退屈凌ぎをしただけだ。

 あの日以降、連絡役は何も言って来ない。報告しらせがないのは良い報告――これもいつもの事だ。

 鉱石ラジオに依れば、連日あの日の事が報道されているようで、当日に居合わせた一般人の証言が流れた。

『突然、左胸の辺りをぐっと押さえて、その場にひざまずいたんです。それで直ぐに四つん這いになって倒れ込んで――』

 古部氏が怪訝な顔をしたのは、視界の端で確認していた。けれど、私はいつものように長居は無用と人の群れを外れた。その途端、背後がざわめき出した。

 報道は、古部氏が数年前にペースメーカーの植込み手術を受けていた事を明らかにしていた。かつてはかなりのヘビースモーカーで、それが心臓疾患に繋がったとも言われているようだ。

 直接の死因はペースメーカーの故障に依る心肺停止と見られていて、担当医師や医療メーカーは氏の熱狂的支持者から責任を追及されているという。

 一方で、周囲に携帯電話が沢山あったから電磁干渉を起こしたとか、実は全く別の方法で殺害されたとか、根拠に乏しい陰謀論も囁かれているらしい。相変わらず世の中は既視感に満ちた展開を見せている。

 今回は少しヘビーな妨害になったけれど、常態、常態、私には関係ない。


              4


 カーテンを開ける。

 残暑の日溜りが白い寝室に憩う。

 あの目障りだった遺物あれは、遂に影も形もなくなった。長い年月、入れ代わり立ち代わり作業に携わった人員は総勢でどれくらいになったのだろう。お疲れ様。

 遺物の代わりに出現したのは、何人なんびとも気軽に参る事が出来ない広大な慰霊碑。刻まれた碑文はやっぱり『原子力発電所跡地』だろうか。

 それにしても、さぞかし清々するかと思ったのに不思議な心持ちだ。よく考えたら、遺物は私を在るがまま受け入れてくれる唯一の存在だったのだ。やっと悪友との腐れ縁が途切れたのに心にぽっかりと穴が開いたような感慨が私を襲う。

 両親も早くに逝ってしまった。私の影響せいなのかどうかは考えない事にしている。どの道、それを証明する手立てはないのだ。

 私も自分が長生きが出来るとは思っていない。何れ慰霊碑の隣にでも葬って貰えるだろうか。墓碑銘はコードネーム・RAVラヴで構わない。本名は寧ろ勘弁だ。


放射能力者Radio Activist ここに眠る』


 また暇潰しの一日が始まる。

 写経も飽きた。

 私は念願のコンビニ弁当を頬張りながら考えた。

「今日は何をして過ごそうかなぁ」

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