羅生門の女

十二滝わたる

羅生門の女

 ある南国の農園。

 

 暖かな風の香りも新天地を与えることはしない。


 結局、そこもいわゆる日本に過ぎないのだから。


 権力の敵と権力に追従する業は同じであり、権力の敵と権力に追従する敵も同じだ。


 生活は、まったくもって意味も品性もなく、不満ばかりまくしたて、くだらない物事にはとことん固執し、見えざるものは見えず、聞こえざるものは聞こえず、物事の些細にこだわり続ける。六道輪廻の下部世界。


 嫌なことは忘れた振りをして明るく謝る。やりたくない時は他に押し付け逃げる。自分の立場も理解しえない。何年たってもそんな場所から逃れられない。繰り返しから一歩も出られず、自発的な行為は期待などできない。何年たっても追いつかない、できるものもしない。言われたままに、言われなければそのままに、ただ時を過ごすだけだ。聞いてもいない身の上を取り繕うかのように、昔の話を独り言のように話す。


 アジアの失踪村。


 こんな足元をみた押し付けによる悪列な職場環境を恥じることもなく強制するのも、この豊かな国の真実の姿だ。


 受け入れ容量は狭く、注ぎ込まれる情報は偏より歪曲され、萎んだ自我には溶け込むことなく欲望と感情との煮崩れしたどろどろの液体となり、それが彼女そのものとなる。そして煮崩れした液体はそのまま吐き出され、この世に彼女を再生させる。ここでもまたあの時に感じた生理的な動物的な嫌悪感と理解し難い目眩が甦る。


 権力を失ない異界で迷い彷徨し続けているあの男の姿を思った。結局、あの男もこの老婆も、同じ事を理解するのに普通の五倍の時間を要し、理解したことを直ぐに忘れてしまう。現象としての生態の一致のみならず、そもそも生存しているソウルステージまでもが同じなのだと感ずる。黄泉の国のイザナミのように、爛れ腐れた肉体と妄執と怨念の汚れきった精神でどこまでも付きまとう。


 戦中派ながらも土俗にまみれた鼠男の根源も、団塊世代の過激派気取りのハロウィンカボチャ、洗練からは程遠い山人ムジナ男やイガグリ男の根源も、所詮は同じだ。彼らはドラマのように懺悔したり反省したり後悔したりすることはない。彼らは自己を美しく見立てながら自画自賛し、明るく死に絶えていくだろう。


 永久革命等と言う言葉の車をかっこ良く乗りたかっただけの農奴の子供達も、個人崇拝語録を携えて五月のパリのデラシネを謳った下女達もあっさりと平凡な日常にしがみつくことが人生の謳歌とばかりに模範的な奴隷労働語録を説き廻わる。


 変えられない自分の業で生きていて、変えられない自分の業の中で悶え苦しむ。そんな姿を見せつけられながら、変えられないこと、変えないといけないと気づきもしないことこそ業だろう。


 神の光を求めるような敬虔さは微塵もない。俗の極みで生きる阿修羅の生命力だけで生き延びている救いようのない有り様は祈りさえはばかれる。神の潜む無駄な隙間は在りはしない。知性も教養もない40年前の世界へのタイムスリップだ。


 あさましさ、醜さ、それは人間が隠しておくあさましさであり醜さだ。それを女は躊躇なくあさましいとも醜いとも思っていない。何も語る価値もない無駄な時間。


 民間の搾取とは文字通り何も言わない家畜のような牛から搾れるだけ搾り取る。労働とはそういうものだという美名は奴隷労働を欺くための言葉であることをあらためて実感する。労働は単なる商品。


 奴隷の敵は奴隷。貧しい醜い足の引っ張り合いと媚びへつらいは永続的だ。奴隷労働であることに躊躇いもない忠実な世界。忠実なほど主人の評価は高くなるという従属の拘束構造に群がる世界。


 醜い強権と醜い従属、醜い誇示と醜い媚び。


 〈若い人達は、なぜ逆らって、デモまでして、騒いでるのか。騒いで、何か変えられるとでも思っているのか。騒いでも変わらないし、大人しくしてれば、拷問されたり、殺されたりしないのに。学生とか余裕ある人達が、暇だからああやって騒いでいるんだよね。黙って働いていればいいのに。馬鹿なんじゃないかと思う〉と女は鼻で笑いながら話しかけてくる。


 生まれながらにして奴隷となることを教えられ、義務づけられ、奴隷であることに疑問も持たず、奴隷として死ぬまで働き続ける。僅かな報酬と小さな褒賞に喜びながら、子牛のように子供を育て、奴隷としての躾を守り、奴隷の仕事の上で野垂れ死にする。きつい労働は社会奉仕であると騙されながら繁殖する。


 生き抜いていく為には、何かに従属してしか生きてはいけないのか、無能と知らない無知と無能と悟らない無能さを知恵と呼んで、自ら進んで誰かの奴隷であることを誇りとする。


 支配に守られ意志を持たず、指示を心地よく働き者と煽てられては強要の連鎖を教え伝える。支配する者と支配される者もそのまま支配に組み込まれ支配される権力にすがっては棄ててを無限に繰り返す。


 その時々の自分に最も役に立ち、自分に取って利益となる側に寝返り、おもねり、媚を売り、仲間を平気で裏切り、平気で拘束し、平気で攻撃し、それらのことには微塵の躊躇もない、土俗に塗れた土民根性の連鎖。友愛、友情、絆の絵空事。


 因習への盲信の限度は限りなくなきに等しく、主人への盲従の限度は地平線の果てを臨む。憐れなるは奴隷同士の潰し合い、つまらない争い。


 当然のような裏切り、寝返りによる徒党の再編の繰り返しを常とし、


 奴隷として生まれ奴隷として生き、このような不条理をそのまま伝え、奴隷としての身分を奴隷の子供に教えて奴隷のままに死んでいく。


 平安の昔は荘園として栄えた由緒ある集落だと自慢しながらカラスの死体を集落内の電柱にぶら下げるカラス忌避をいまだに疎まない。時間が止まった精神農奴の遺伝子。


 世の中にはこんな世界で過ごし、不平不満をぶつけて、どこかで愚痴を言ってはうさを晴らしでも表面は仲良しを装うという阿修羅のような世界があり、そこで仕事して搾取され一生を終えていく人達がかなりの数に上ることに気が付き驚ろく。


 低い理解と押し付け、程度の低い会話、下世話な関心に対する固執、くだらない自慢話と嫌味な言葉を浴びせるのが最大の娯楽。懲りないから、何度も繰り返し失敗し、それはすべて自分以外のせいだと言う。


 彼女にはおよそ自我というものが存在しないようだ。彼女の心は彼女が嫌っているという世間や隣人と寸分違わない価値観であるため、心に思いを留めておくとか思慮するとかということはなかった。


 知り得たことは真偽も確かめず、本心を想像することもなく直ぐに隣人達に伝わった。互いの悪口が村の有線放送のようにそれぞれに知れ渡り、冗談さえも本気の考えのように伝わっていた。それらが原因で影では常にいがみ合っていた。


 原始的な社会ですらもっと賢い関係を結ぶであろう。居ること自体、大きな喪失だ。


 拘束されたような場所で、過ぎ行く時をひたすら見つめるだけの世界。凝縮された修羅界での実りのない日々。


 必死で糧を得るために、処世術を知恵と誇りながら、阿修羅のごとく醜さをさらけ出し生きている姿は見るに耐えれるものではない。


 人として値踏みされることに生来慣れきれいに納まり安心し、人を値踏みする事を恥じずに当然のように値踏みし、己の前後に位置付ける。人情という名の同情、秀でる者への嫉妬と罠とが混成された泥世界。


 〈この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ〉これが彼女の業が自ら誘き寄せた彼女を取り巻く世界だ。誰からも愛されたことはなく、誰をも愛したことも信じたこともないだろう。


 世俗的な形式ばった義理人情を頑なに大事にし、これに基づく優しさを見せようとするも、一つひとつのデリカシーに欠けた無意識な言葉の刺によって自ら演出した優しささえも自ら壊していくサガに気がつくこともなく、ただ相手への自分の行為に対する相手の反応が不十分だとばかりの文句をいい始め、己の辛うじて保とうとした世俗の形式美徳さえもさらに壊しにかかってしまうこととなり、結果、辺りには情けないほどの不快感だけを残すのが常だ。


 地を這いつくばって自分の墓掘りを笑顔で不満を繰り返しながら、奴隷の規範を抜け出る考えも能力もないままに奴隷である女は同じようにその息子を自分の奴隷のように金により自分に従属させ縛り付け息子の人生に寄生する獣道を生きるも骨肉を分けた者からも捨てられ孤独に苛まれながら憐れに死地までさ迷う浮かばれない魂。


 羅生門の女ですら善にも悪にも見えるが女はそれにも劣る。全責任が自分にあることにも解らない餓鬼界に住まう。


 受けた恩は直ぐに忘れ、与えたと思っている勘違の恩の見返りと受けたと勘違いしている恨みは生涯忘れない。


 教祖に取り入り教祖から得たポジションを足掛かりとし、下じもを意のままに蹂躙する小早川のような存在を曲がりなりにも許してきたのは、服従し居場所の目こぼれを確保するために彷徨するこのような者達が持っている、脈々と遺伝子に引き継がれ染み込んだ忍従の価値観。


 無知無学無能を原因とする無私は聖なるものとなるものだろうか。ほとんどの場合、無知無学無能は己の強欲を悪戯に肥育させるだけで、その思考も行動も自由の自己実現からは絶望に近い隔絶をもたらすこととなる。そして、このことは、人類として、人間として、与えられた生きるべき営みに対しての裏切りにも近い罪であろう。


 葬式泥棒当たり前で、彼らに相続権力なんて関係ない。生きていた時、葬儀時の、恩着せては悲しむ親族の空き見て追い剥ぎ同然毟り取る。下賤に恥などはありはしない。


 そう言えば、親しかったあの女もやはり愚かな世界に滅私奉公を余儀なくされ、働き続け体を蝕まれて一生を終えた。友には騙されそそのかされ、男にはあいそつきられ、死ぬ間際まで底抜けに愚かであった。


 必死で子育てする姿も、仕事をこなす姿も愚かさ丸出しで痛ましいほどだ。愚かさに魅せられた沢山の同僚が葬儀で涙を流した。その時だけは皆が悲しんだ。


 ただひとつの救いは、彼女の場合、愚かさが無償の愛に繋がるような聖なるものを宿していたことだ。女の母性は子供だけのものではなかった。女の愚かさが全ての病める貧しい者へいとおしさを現さずにはいられなかった。


 それは捨てられる宿命を負った母性だ。女は最愛の実の子供からも捨てられる。そこのみにおいて、女の身近な者へ、最愛の者への母性は愚かにも束縛となって表現することしかない。高邁からは程遠い愚かな聖なる母性は、いつも誰からも愛され、いつも簡単に誰からも棄てられる。そこのみにて光輝くような輝きを誰もが永く心には留めない。愚かな母性は聖者の如く、万代の妖魔の如く。

 

 その女の介護のために雇った女は、周囲から「優しくて親切だからあの人に頼めばいい」と教えられて頼んだものだが、蓋を開ければ猫かぶりの女で、病人の食事を口に運ぶにも自分の好きなおかずは与えず、自分で後で食べるために残しておき、食事代をくすねるような女だった。介護する女が死期を迎えようとする前に、禿鷹のような嗅覚で死の臭いを嗅ぎつけた女は、突然、介護を放棄し、豹変し、法外な金を要求しては受け取り逃げ去った。羅生門に巣食う女達。溜め池ダムの崖下に住むその女とこの農園の鵜の女は瓜二つだ。


 個々の農園で、老婆が分け与え采配するのはまさにその姿であり、醜い忌まわしい光景のよみがえりだ。


 死に逝く女の食い物をあざとい女が優しく奪いに来る、阿修羅のような醜い見えない地獄絵の救いようのないおぞましい姿。愚かで憐れな阿修羅の世界であり、時にはお人良しとして現れるものの、彼らに内在する宿命の阿修羅でもあった。抜けきれない阿修羅に生きる羅生門。何かと口先だけの理由を付けては要求をする。半端な煮え切らない修羅世界。


 最後の最後まで病人の衣服を剥ぎ取るような羅生門の女は最期まで変わらない。おそらく彼女が一番恐れている孤独のままでこの世を彷徨し続け、少しでも関わったことがある者に纏わり蔑まれながら死に、死してもなお疎まれ続けられる。


 明るい囚人労働、渇いた笑いのある強いられた己の墓掘り、仲間内の些細な分け前に対する喧嘩、優しい狼に卑下した作り笑い、去った後の舌打ち。奴隷は得意気に心得としきたりを得得と誇らしげに説き始める。


 一川向う崖下の鼠男、狢の森の狢男、猿山パシリ縄抜け追い回す固執狂の悍ましい禿頭、自滅した妙義の自己批判の過ちの方が人間的であったろう無知な俗悪家、人の気持ちが判らない奴だが口癖の人の気持ちがまったく判らない奥寺に住み着いたパラノイアハロインカボチャ、仏師崩れの肉商人ゲーマー、肉を食わない羊頭狗肉養蜂商、病院通いの白髪病院草取り職人イガグリ、鼻の下伸ばして蓼まで食らう穴掘り訛お化け山猿、寝言だけの甚沢パラサイト豚、怯える忖度の原稿沼川垂流し地蔵、仲間の情報垂れ込みで生活するあざといお茶屋女将に成り済ました女郎。そんな無数のあさましい数々の外道とそのさらなる裏の姿。


 政争の末の栄枯盛衰を敏感に察知し、次々と変わる新たな権力を探しては、媚を売り、手のひらを返し、臆面もなく擦り寄り、義理人情もなく裏切る体質は、奥ゆかしさと言葉を替えて、累積する空気のように村の津々浦々まで、隅々まで、分離破壊の隙間なく浸透し続け常識となり掟と呼ばれる。


 無意識に根付いてしまった村の歪んだ掟と仲良しフレネミーの群れ。終わりなき無数の輪廻の繰り返し。密告者は同胞であり信頼した友であり少しは慕った年嵩であり別け隔てなく面倒を見た下衆であり。

 

「村」を支え続けている根底は、「村」にいることも知る術のないこうした底辺の無数の阿鼻叫喚マジョリティだ。「村」の阿修羅の掟を守り、己の心の阿修羅に従い、這いつくばっり生き続ける。渋民の裏切り、渋民の手のひら返し。


 狡猾に生き延びた長老を祀り上げる。老いた狡猾な奴隷の長老に何か新しいものができるはずはない。物にならなかった形骸化の実績にしがみつくだけの老いた奴隷の長老は、ひたすら奴隷の心得を戒律として説き己の利権を守り続ける。


 幼稚で狡猾な神経畜生がのさばり徘徊し支配しようとする事を看過するこの村は、本当は己の愚かさに気が付き、愚かさへのけじめをつけなければならないが、そのような覚醒は起こるべくもない。


 世界を構成し歴史を構成し続ける「村」の本質、「村」の原像は、頭蓋骨の中にある遺伝の中に、そして、我々の生活感覚の中に、我々の価値観の中に、まるで寄生虫が宿り主を犯すように平常な我々と我々の社会にある。


 泥沼に生まれ泥沼に育ち泥沼住む者たちの清流に目覚め清流を目指す日は、猿が道具に目覚め火を用いる事を始める程の遥かなる時の流れの末であろうとも、清流の流れこそが歴史の希望であることに変わりはないのだろう。

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