続・穂高市役所ストリートビュー年史

十二滝わたる

続・穂高市役所ストリートビュー年史

セクト主義と利己利益主義


 病院に喫茶店を創るのは誰が考えてもインフラではない。しかし、どちらも企業局組織として統括されているため話ががインフラ部局に来たのだ。


 病院に患者のためのお洒落な喫茶店を入れるのは、厚労省からもなんの通知もないながらも、当時の政府筋であり、国の医療のトップ的な立場にいる医療官僚からの指示であった。


 もっとも、以前から病院でも必要なものだとの認識がありながらも、設営を10年以上も放置してきたのだから、病院にとってもチャンスであった。


 また、当時は大手チェーン店が県内に発進出するチャンスを狙ってもいた。


 ある大手はもっと大きな処に打診したようであったが、労働組合が経営する売店と地元企業で経営する食堂の反対で、あっさりと断っていた。


 僕は早速、その大手との交渉を試みたがこれまたあっさりと断られた。


 県内発出店とするにはそれなりの立地にしたいというのが理由であった。さすが、デコレーションだらけのコーヒーを、イメージだけで高額で売り抜く大手チェーン店の戦略だ。


 次に規模の大きな大手のコーヒーチェーン店は、病院という場所にすぐに興味を示した。


 黙っていても、外来患者は一日1000人、入院患者は常に800人、病院内で働く職員の数は2000人を越える。儲からない訳がない。


 合わせて、儲からないからと、入院患者への病院食の委託と抱き合わせにされていた外来患者などのためのお荷物食堂もお願いできないかと打診してみた。

 

 これだって、儲からないはずがないのだか、病院食などという簡単な経営で味を占めている地元業者にはノウハウもやる気もないのだ。

 まずいご飯、ぬるいお茶、汚い食器、だるい注文とり、これで流行るはずがない。

 病院内職員に加えて、外来患者1000人の潜在的な需要は喫茶店のコーヒーを遥かに越えるはずなのだ。


 当然、大手チェーン店はこちらも受託する意向を示した。しかし、最低利益の補償を求めてきた。民間経営の利益を補償する事などできないから至難の技だ。

 

 労働組合費として職員の慰安旅行をしていた積み立金は、時代の流れで、ただ凍結されているものがあった。


 食堂の改善に共感する労働組合は、容易にこの金を使うことに同意してくれた。


 形式的に、喫茶店、食堂を別々に委託業務の告示をし、予想通り地元業者は入札希望もなく、大手との契約が決まった。


 これまでの食堂で働いていたおばさま二名も引き続き大手の食堂に採用されるようにお願いした。


 やる気のない地元業者の食堂ではいい働き具合ではなかった二人は、新しい環境のより、見違えるようにきびきびとした明るい対応を見せ始めた。食堂も想像以上の繁盛となった。


 反対していた古参幹部は、喫茶店と食堂の役所業務には不釣り合いな商売アシストの成功を見ると、なぜ、新装開店のセレモニーをしなかったのかといい出す始末だ。


 商売は結果だ。予算の配分とその消化と政治的な風見鶏だけで成り上がった役人は、責任は回避する。成功した結果には乗ってくる。


 僕達は、仕事を上のためにやる気はなかった。上に上がるために仕事をする気もなかった。


 僕達は市民の利便を上司としていた。そのための負の行為などは、乗り越えなくては行けない、そう考えていた。

  


希望の風景


 一体、僕は、僕たちは何と戦ってきたのだろう。


 希望という名前の革命の時代のからくりを覗き、労働組合の成り上がり志向の根性を見せつけられ、新左翼と呼ばれたハロウィンカボチャどもの子供じみた自己満足の姿に幻滅しながらも、希望という原風景を追い求めてきた。


 結局、日本という国の成り立ちまで遡ることとなり、日本人の遺伝子に組み込まれてきた、狭あいな相互監視の村社会の価値観そのものとの戦いとなる。


 自滅していった純粋思考の新左翼のブルジョワ意識の自己否定のように、本来はその価値観を否定しなければならない。しかし、それで一体その結果、何が残ると言うのだ。それが、日本そのものなのだから。


 専制政治と民主主義政治の結果が似たようになるように、ブルジョワと労働組合の価値観は同一になる。どちらも攻撃していた新左翼の価値観ですら同じように本質は同化してくる。


 それでも、前に進むためのモチベーションを探しては立ち止まりながら、日本は時を刻むのだろう。 

 

 否定は全否定に繋がり、肯定は全肯定に繋がることを避けながら。


 敵国から脱獄し世界屋根を越えて亡命したが裏切りにより再度世界屋根を越えて亡命し続けるように。


 あの事件は関わった誰の記憶からも消え去ることはない。


 しかし、このまま組織としての記録は美辞麗句で不毛に飾り立てられるだけだろう。


 あの特異な犯罪者が持ち上げられた挙げ句の果てに、あの犯罪者の思考と価値観が支配していた馬鹿げた一連の事件は誰かが告発し半永久的に記録として残さなければならない。


 現代に蔓延る私欲のために求める忠誠心と私欲のため従う忠誠心、そして更なる従いの忠誠心を求めていくという〈抑圧の委譲〉にも似た、あいも変わらない日本社会の愚劣の連鎖を。



小早川との対立


 「今度の代表は小早川さんだと。大変だぜ。」と隣の部局の同僚が近づいてきた。


 「ああ、少しは知ってるよ、好い人じゃない、面白くって。」と答えると、ニヤリと笑い、「さあ、どうだかな‥‥‥‥」と憐れんような顔をした。


 また、あるやや美人だと思われている女史は、「あんな自己利益優先の人見たことない。辛く、大変だった。私から離れて異動して行ったから助かった。」と言った。


 後に、小早川は、「女史と二人して、色々と施策を練ったんだ。」と女史とは親しい間なんだと語っていたが、まるで嫌われていたことなど感じてもいない。


 またある先輩は、「小早川の周囲では、また誰か、死んだり、辞めたりする人が沢山出てくるんだよな。」と言った。


 その意味が分からず、細菌でも撒くのか、とただすと、「その内、そうなるから、その時に分かるよ。あれは人格全てが神経さ。つまり人格や人徳という徳目は存在しない。およそ理智なるものはないんだ。そういう人間性を喪失した見かけだけの人間がどんなものなのか、深く接すれば馬鹿でもすぐに分かるさ。あいつが示す見たくないおぞましい人間の不気味な深淵をさらけ出す姿を見て人間不審にならないようにしなければいけないよ。人間は理智で時制して抑制している本性はあんなものだよ。理智のない姿をさらけ出す奴は、むしろ人間観察には打って付けだから、醜い人間の深層を学べ機会とすればいいよ。己の嫌悪に耐えて、あいつの復讐に耐えてな。あれはまるで精神病棟から抜け出してきたような、正気なりすまし人間だから気をつけてな。出来るだけ関わりは最小限にしろよ。」と言う。


 僕がその意味が分かるまで、さほど時間を必要とはしなかった。


 それまでは、小早川とは同じ部局になったことはなかったし、広い職場で同じ趣味があるはずでもなかったので、直接の付き合いはなかった。


 何故か話をすることが多かったのは、夜の繁華街でしばしば飲み歩いているところをすれ違うことが多かったからかもしれない。その放蕩無頼のスタイルに親近感があった。 


 普通の近所付き合いをしている上での好い人の関係と、家族や親族の愛憎にまみれた濃い付き合いでの関係とは明らかに違うのだが、仕事を通した関係などは、極端な変人や異常な性格でもない限りはそれなりに互いに尊重しあえていることが多いはずだ。


 ヘッドになるくらいの人物なのだから、それなりの人格であるはずだ。どうしようもない同族会社の跡取りのワンマン社長がいることはよくあることだが、曲がりにりにも市役所の人事だ、そのくらいの最低限度はいくらお手盛りでもあるはずがないと思った。


 最終的にこの男をどう形容すればいいのだろう。


 疫病をばら蒔く細菌保持の邪鬼。自分の縄張りを注意深く監視する猜疑心の塊。


 羊達の沈黙のレクター教授のような狡猾な狂人。自分の言ったことを忘れるアルツハイマー。自分の言ったことと他人の言ったことを取り違える倒錯するパラノイア。


 他人を貶める又は他人が苦しむのを愉快に思いそう仕掛ける精神構造。自己中心だけの自己満足を求める自己愛性人格障害。自分の世界を誇示する社会的欲求。


 とめどなく自分の意見のみを永遠に半日も話を続けるアルコール性障害。自分の縄張りにマーキングする野良犬。


 強い者へは徹底した服従の姿をみせる飼犬。他人の意見を全く聞かないわがままな専制独裁。頭ではない神経だけでものを考える無策の自慢話。


 蟻を怖がる象ような臆病者。オリジナル意見を思い付かずに他人のパクり依存者。


 自分を褒めちぎる低能を重宝し周囲な群が盾にするだけの卑怯者。怒号と粛清による恐怖支配。未発達な人格者。


 つまりは、自己愛性偏愛性解離性固執性強迫観念性アルツハイマーボーダーパーソナルであり、強烈なパラノイアなサイコパスだ。


 最初の頃は、〈また始まったか〉と皆は下を向いた。しかし、時が経つに連れて、それは〈また〉ではなく、毎日であり毎回でりその都度であり必ずであることに気が付いた時、ある者は立ち去り、ある者は愛想を尽かし、ある者は忍従の黙りを決めつけて下を向いた。二百人の職員はさしずめ小早川の世話をし、小早川を介護をし、小早川のカウンセリングをし、小早川の気ままなわがままを充たすために東奔西走使い走りする介護施設の職員だ。小早川は患者でありトップでありヘッドだ。


 キャリアであろうとも通常は定例のお決まりの年数消化により順調に昇任がなされても管理職登用の時期を機会にさすがにこうした人間は淘汰されるものだ。しかし、小早川の場合は、弱小な能力にも関わらず、逸脱した人間性とガン細胞のように増殖した自己中心の精神と知的犯罪者の持つ神経を背景しした狡猾さに優れ、淘汰される普通の組織精錬を潜り抜けてしまったばかりか、似たような上司のガン細胞の懐にマッチしてしまうという奇異な経過を経てしまった。


 歳月の経過とともに、表面の異常とは別に精神内部に巣くった大きな穴は見えない闇の包まれたままに大きく育ちながら薄い影絵であるべき闇はやがてこの男の人格と前頭葉を支配するに至っていた。通常それは狂人と喚ばれる。


 反対の意見と理由を言えば、「歯向かった。」と言い、聞く耳を持たず、良かれと思ってした決してなんの無駄とはならない善意の行為をも「余計なことをした」と気分でけなす小早川。


 自分よりも少しでも前に出る者などは絶対に許さない小早川。


 「いいふりしてして話すな」が口癖だった。小早川自身、いい発想もできなかった。頭いいふりしているのは小早川だった。


 頭の悪いガキ大将が大人になったのだ。使っているのは頭ではなく、無理して反りを合わせるための神経だけだ。それも次第に歪んできたことすら自覚がないままに。


 「お前の代わりなどいくらでもいる。」と誰にでも言う小早川。けれど、その言葉は小早川にこそ似合っていた。誰かがもっと早く、「お前の代わりは、お前以外なら誰でもいい。」と小早川に言わなくてはならなかったのだ。


 小早川は、国の指導か他の市町村がすでにやっているパクリしかできなかった。独自性は皆無だった。すべての施策はどこからか持ってきた。前列のない施策しか評価しない。


 「逆らったら大変なことになる。」

 「怖い人だ。」

 「何も言わない方がいい。」


 そんな考えのイエスマンだけが揃い残った。


 トップダウンの優れた独裁経営ならばそれなりの評価も致し方ないだろう。


 しかし、小早川とはそんなものとは程遠い。

 ぐだぐだな無駄な時間を悪戯に費やすだけの臆病でわがままな坊っちゃんがさらに病的な固執を持った底辺ボーダーな奴なのだ。


 早川を心底から慕い、尊敬している者など皆無だった。あの恐怖支配におののき、早川と同じ考えと言葉を唱えるだけのゾンビとなったような腰巾着どもも、最後の最後では、小早川には信頼など置いてはいなかった。


 腰巾着どもも、本音は反小早川なのだ。どこかの独裁国家の大統領の如くに表には出てこない隠れ反早川勢力だ。


 とある国の大統領の腹心だった某氏は大統領をペテン師、弱い者いじめ、パクリ者、と暴露本に書いたが、目を被いたくなるほどの情けない腰巾着どもも、結局はこの腹心の暴露と同じように感じている。


 もっとも、これら腰巾着らの情けなさは、いかなるときも暴露するような気概を得ることはない。

 せいぜい、裏で陰口を恐る恐る注意深く口説くのが関の山だ。

 

 それにしても、事件となるような犯罪集団のカリスマ教祖にすら、最後の最後となっても、心を寄せるような取り巻きがいたではないか。それは、マインドコントロールが融けても、少しは心に纏いつくような人間味のある恩義や人情を感じたからではないのか。


 小早川にはそれらが微塵もない。それを上回って余りある程の度重なる不義と反感と憎悪とがその理由だ。


 小早川は、歪んだ強迫神経に侵された性格と分裂した未熟な犯罪性の精神とでつくられている。


 人の気持ちが分からないのではない。狡猾に人の心を読み取る。だから、上には受けがいいように振る舞える。そして、読み取った下の者にはわざわざ指導との言い訳を盾に、自己満足の下手な持論を押し付け、あざとく苦痛を与え、しかも、その苦痛で喘いでいる姿を無自分の快感とし、自分の糧としている。


 歪んだ精神がさらに分裂した狂気に対する恐怖がそこら中に劣悪な空気が充満し始める。


 当然、誰からも立派な人間だとは思われていないから、目先の権力を失えば全てを失うのだ。だから、自己保身と収入確保のため、代表というポストを維持することに全力を費やす。


 さらに加えて、この男の価値基準は単純だ。


 自分を戦国武将に例える幼稚な知能は、あたかも路地の成り上がり者と同じだ。要は、戦国武将同様、自分の保身に役に立つ奴か否か、それだけだ。


 一流企業のように部下からの人事考課がなされれば、完璧に更迭となるだろう。しかし、残念ながら宴会、酒飲による昔ながらのロビー活動だけはうまかった。こうした組織の上の者や組織外の押さえ所への饗応により、組織下部の声は完全に無視された格好となった。


 よく、韓流ドラマで取り上げられる設定の、周囲には気付かれることのないボーダー。そのボーダーが見える周囲の線引きもが上下に分離されたと説明するのが正しいのかもしれない。執務事務所が離れた閉鎖組織の閉鎖的な組織環境であることが生息し増殖させた。


 この男のやってることは、1人ひとりの職員への大きな無限の数えきれない言葉と行動による侮辱の累積であり、ライフライン組織とラインラインを利用する市民への大きな冒涜でしかなかった。


 それを任命した者にも大きな責任があるのだが、ごますりの腰巾着のような取り巻きがこぞって押し寄せ、その取り巻きの担ぐ神輿に立派に乗りっぱなしだ。


 これだけ影響を与えるポジションに付いた愚者を、僕は後にも先にも小早川以外に知らない。


 普通は人格者を装おうとしたり、自分は器が大きい寛大な人間とばかりの演技も考えるものだが、そんな人間味のある体裁すら取ることすらもしない。

 

 小早川は絶対服従を当然のこと、自分の考えと行いは正しいことだ、と思っている。


 この男の周囲に事故や事件が絶えないのはこの男の狡猾なボーダー下に対する露骨で極端な抜け目のない徹底した神経の毒害に殺られるからだ。


 大きな自己認識、社会認識の倒錯した勘違いは、まるで、大きな権限を与えられ、利己丸出しを公的利益供与だと勘違いしているどこかの大統領のようであり、小さな組織にとっての小早川は大きな権力であり、それ故にその権力を制限する術がなかった。


 この男のために何人の人間が辞めていき、何人の人間が死んで行ったと言うのだ。その罪を己も感じずにのうのうとし、罪を問われることもなく、むしろ、上げ奉らふんぞり返る。


 専制主義は専制主義を選ぶのは道理だが、民主主義は必ずしも民主主義を選ばない。民主主義の寛容と制度的な不備が、時には巨大な独裁を、そして常に小さな専制独裁をも認めてしまうからだ。


 経済的な自由に民主主義の根幹を持つ限りに於いては、経済的有利が独裁を認めることとなるブチブル的な自由の蔓延が独裁を招く。


 制度と法でがんじがらめにしようとも、古めかしい概念である人の徳については、残念ながらコントロールするのは個人そのものとなる。


 小早川がこのポジションにいた期間は、偏差値どおりの大学出身に相応しくライフライン部局の大いなる失敗を招いた期間であり、大いなる時間の浪費と施策的な過ちによる将来に残した負の遺産は計り知れない。


 取り戻すにための徒労の時間は、着任していた倍の時間を必要とすることとなるはずだ。


 そして、その損失は市役所の損失となり、市民への付けとなる。市役所は痛まない。市民が市民の財政が痛むだけだ。



人身御供


 「君の仕事ぶりとその成果は聞いてるからな、二人で組んで、この業界を変えていこう。」


 仕事の付き合いは始めてとなる早川からの最初の挨拶はこうして始まった。


 僕に対して、当初、小早川は指南を仰いだ。


 そんなのは形だけの社交辞令と初めから分かってはいた。小早川は数ヶ月待つまでもなく、直ぐに本性をさらけ出した。


 結論から言うと、仕事に関して小早川は何一つ変えることはないできなかった。それどころか時代に逆行した先祖帰りを強行した。混乱と錯乱の弊害だけが取り返しのつかない位に残された。本質を理解しない足りない老害のお飾りどもだけが布団の騙し購入のように簡単に騙された。


 組織の環境と統制に関しては、問題外の無駄な時間が永遠と消費された。そんな時間がこの時代のこの組織にあり得た愚かさ自体が犯罪に近かった。


 職員の管理することを最大の職務履行としか考えられない愚かな組織の愚かな行為の完全なる実行が仕事と考える愚かなトップは愚かな組織運営をし続けた。早川は行動観察記録を自分への感情的な営利的な貢ぎ物の記録のように記録する病んだ人間だ。


 小早川が指揮したこれらの虚空の時間とエネルギーに対しては、後世に伝えられる公的なものなどありはしない。しかし、これを許してきたことを無のまま忘れ去ること自体も犯罪となる。はっきりと無駄を無駄とし後世に伝える必要がある。もっとも受けとる奴らが物語として歴史を形成する気持ちがあるならばだが。


 その発端は、報道からの問い合わせだ。警察に村田が傷害罪で逮捕されたとのことだ。勤務も終了し、夜も9時を過ぎていた。緊急に幹部職員が召集され、対応が検討されることとなった。


 小早川は酔っていた。勤務時間ではないのだから、なんの問題もないが、問題は小早川の態度だ。


 「着任したばかりで直ぐに呼び出しか、いい酒飲んでたのに。」と言って会議室に入ってくる。


 そもそも、村田は小早川が面接し、他の職員の反対を押しきって採用した職員だ。


 村田は小早川の異動と伴にライフライン部局に一緒に異動してきた。


 小早川に対して、自分で責任取れよ、とばかりの一緒の異動だ。それが、即座に現実のものとなった。腹を立てるなら、採用し異動させた自分に腹を立てればいい。


 なぜ、我々の部局が、4月に異動してきた小早川と村田のことで、混乱させられるのか。迷惑なのはこちらの方だ、と幹部連中は思った。


 小早川は、散々、村田の所属する課長をなじり、村田をなじった。なんの意味もなさない無駄な責任転化の時間が延々と過ぎた。


 小早川は検討会議には必要なかった。あの晩は、あのままただ酒でも飲んでればよかったのだ。

 その方が、スムーズに結論を導き出せた。


 結局、村田は免職となった。


 知人の障害者を殴ったのだ。殴ったのを友達から1000万円出せば許すとゆすられ、断ったがために、役所の基準に合わせて免職となった。

 

 警察も役所も状況などは問わない。殴ったという傷害の事実で、しかも、それも頭を小突いただけで暴力だと口裏合わせた自分の仲間からはめられた結果だった。


 組織内に関係を築いてない村田などは、形式的に処理される。行政の決定過程も似たようなものだ。


 小早川は、お前を信用したのに、裏切られた、残念だと言った。


 貸した金を返さないために、頭をこずいた行為を、悪い仲間から暴力ととがめられ、借りた障害者も痛いと騒ぎ、名ばかりの友達の公務員から遊ぶ金を巻き上げようとした背景などは不問とされた。


 警察は、犯罪を取り締まって手柄を立てた。身内の飲酒運転事故の報道をかき消すのにいいタイミングでもあったのだ。


 小早川は草々に人格の無さを露呈したものの、まだ、あれほどまでの狂人であるとは誰もが気が付かなかった。


 猿左衛門は小早川を嫌ってはいた。しかし、嫌った理由は単純に、酒飲みグループ派閥が異なっていたためであり、小早川の狂気を見抜くような才覚著しい故ではない。残念過ぎるほど凡人で、持つ酒飲みグループのボスの懐に嗅覚鋭く本能的に潜り込んでいるためだけの才能の凡庸さは組織にはマイナスであった。


 誤りの命令にも服従し、下部にそのまま命令させる人形のようなボンクラ守護でなければならないポジションに猿左衛門はうってつけだった。


 予想しなかった小早川の長期在任とともに、その恐れは、現実となり、その後の期間を無駄にする悲劇となっていく。



偏執狂的執着がもたらした悲劇


 経理の青山が失踪した。 


 青山を経理の係長にするとき、ライフライン部局の人事担当部門では大分議論を重ねていた。青山は以前、心の病で少し休養をしていたことがあったためだ。


 青山にとっては、経理部門はライフライン部局以外でも経験のある部署で、むしろ生き生きとして経理を担当していた。


 青山には同期のよしみで、僕から経理での係長昇進について、内々に打診をすることになった。青山にとって、それが重荷にならないかとの意味であった。


 青山は、むしろ自分の昇進が病気のことで遅れていることに気を揉んでいた。今の仕事の延長だし、自分も自信がある分野たし、経理だけに数字相手だから苦手な人間関係にも煩わされないから、是非引き受けたいとの返事により昇進させていた経過があった。


 経理の決算時期は忙しい。係長に着任してからの数ヶ月で決算の調製を行うためだ。


 青山は忙しいと言いながらも順調に数人の係員を束ねて仕事をこなしていた。ただ、係員に任せられずに、少々、こま過ぎるほどに、自分で受け持つ神経質な点が気がかりではあった。


 決算も最終段階に入り、決算書が出来上がったタイミングで、青山は突然に姿をくらました。


 最初は、理由が分からなかった。

 しかし、それはどうやら、そして、確実に小早川が原因であった。


 矢継ぎ早に新米係長の粗探しによる攻勢が連日のように続いていた。


 時には、小早川が出向いて延々と青山を責め立てた。青山が悪い訳ではない。青山は昨年までの経理のとりまとめを担当者したのだ。


 決算の結果に文句があるなら、前任のトップに文句を言えばいい。或いは百歩譲っても担当セクションの長に文句を言いうなり、事情を聞くなりすればいい。


 3年目となる担当セクションの長も、目の前で係長が攻められているにもかかわらず自分に危害が及ぶことを避けて知らぬ振りをしていた。面倒見てくれと人事に頼まれて備え付けた補佐なる者はなんの役にも立たない。最初っから逃げ腰の責任逃れの言い訳しかしないヘタレだ。こらまでも青山を助けるどころか小早川の機嫌を取るために小早川の話に合いの手を入れていた。


 青山は組織で孤立させられていた。

 後で解ることになるが、小早川の意識的か無意識

かの線引きの、おそらく本人も分からないだろう小早川の歪んだ神経と人格が、弱い青山をいたぶるターゲットとしてロックオンしたのだ。


 目的が何であるかを考えれば容易に小早川の精神状態を推察出来るようになるまでは、もう少し僕も周囲も時間を必要とした。


 小早川の部局の長のに成る程の人間は、そんなボーダーレスな者であるはずはない、とする組織の、集団の幻想は大きく裏切られることになる。そんなほころびを見せたようなまだまだ序の口の出来事だ。


 小早川の独裁に何も言えないボンクラと茶坊主のオンパレードが、襲われる仲間を見殺しにするのだ。


 結局、青山は山中の橋の下に車を止めて、車の中で七輪を燃やしたらい。青山の人の良すぎる優しさは弱さと一体であった。

 

 事態を重く見た労働組合の委員長は小早川に詰め寄り、早川の反省の言葉をオフレコ無公表を条件に認めた。


 時間外が規定より多かったとか、パワハラが過ぎていたとかの明確な事実関係の立証が出来ないための小さな礎石のためだったのだ。


 しかし、この一件で委員長の南原は、南原自身もこの出来事を忘れていた数年後に、小早川の執念深く決して忘れない異常な精神の歪みによる悪魔のような慎重な計画的反撃の機会を待ち続けられることとなる。


 小早川の側近に抜擢との形を取りながら、ねちねちといつまでもいたぶり続けられ、ぼろぼろにされ、見世物とされるような、異常な人食いヒグマ、その餌食になっていく。

 


自己保身のために部下を盾にする


 ライフライン部局職員の、私生活における真相を見ない作為的なでっち上げの詐欺事件は、その些細な事実関係の整理をすることもないままに、警察組織の裏の事実を暴く大疑獄へと発展しそうになっていた。


 発端となった詐欺事件は、外部からの告発状により明るみに出た。内容は、ライフライン部局のある職員が保険金を詐欺したというものであった。


 告発状は、警察署と本所にそれぞれ送り付けられた。


 告発者は告発してある中身から絞り込んで、すぐに誰であるかは分かることとなった。


 告発状の一切の処理を任された僕は、警察にも同様の文書が届いていることを知り、警察と連繋して事実関係を調べていた。


 告発状を送り付ける前から、問題の北海道からの出稼ぎ男の枝松(ど田舎の穂高に出稼ぎに来るなどというのは冬のこの時期しかない)が交番にたれ込んでいたことも判明した。


 交番の警部補もその少しは込み入った話を聞いたものの、取るに足らない喧嘩の腹いせとして相手にしていなかったのだ。


 この男が、詐欺だと騒ぎだした事実は単純なものだ。


 スケート場で、あるスケート教師のスケート靴が盗まれた。スケート学校の乾燥室には関係者しか入られないように施錠管理がされていた。


 犯人はスケート学校内に居ることは明らかだった。スケート学校はまさか盗まれることなどは想定していないために、盗難保険には入っていない、スケート学校内に犯人が居ることは不名誉であり、信用を失うことは学校の経営にも係わるため警察沙汰は避けたかった。


 被疑者はスケート学校ではスケート靴を盗まれた教師と仲の良かったので、個人が加入していた盗難保険を利用して賠償してくれと頼んだ。


 保険会社には事情を正直に説明した。保険会社の担当は、そんなことはいくらでもあるからどうぞと返事した。合意の補償だった。所有権の移転など口頭でいくらでもできるのだから、盗まれる前に自分のスケート靴になっていたとされるなら問題はなかった。


 北海道から冬の間に出てきては、交番のある穂高の小さなスケート場で様々なトラブルを起こしていた。スケート学校は人手不足とはいえ、もう、この男をスキー教師として雇うことは止めようと考えていた矢先の出来事だった。


 警察署も交番から事情を聞いて、構成要件満たさないと判断していた。


 当該職員から事情を聞き、問題なしとの報告を上げた。警察も部局も問題なしと判断したのだ。


 これが面白くなかった枝松は、今度は同じ告発文をマスコミにばらまいた。マスコミは騒ぎだした。


 警察は静観していた。部局も動じなかった。


 そんなときに、マスコミは独自に取材を始めるところが出てきた。そこで問題となったのは保険金詐欺ではなかった。


 警察は静観を装いながら、裏で動いていたのだ。詐欺としての事件をきっかけにして、その職員に近づき別の内定捜査を始めていた。内部の汚職、談合の情報だ。


 マスコミはそれを問題視してはいたが、全面に出して報道するまでの確証を掴んではいなかった。


 マスコミが探りを入れていると知った警察は、辻褄合わせとして詐欺事件を立件する方向に舵を取った。職員と接触していた担当警察官は直ぐに不自然に別の部署に異動となった。


 警察は隠れ蓑としてライフラインの職員の取り調べに入り書類送検するとマスコミに発表した。


 部局内のでも警察に連動して詐欺としての聞き取りとして同調しようとしていた。僕はこの事件は詐欺事件ではないと主張した。マスコミと警察からはそれぞれ別ルートで裏も含めた状況は掴んでいた。


 「自分の自己保身のために、職員を生け贄とするんですか。」と僕は小早川に言った。


 事実、この職員と警察とは仲良く酒飲みするまでになっていた。マスコミもその捜査方法を問題にしようとしていた。


 「そもそもマスコミにリークしたのはお前だろう。」と小早川は言った。


 「何で事を大きくするためにマスコミにリークする必要が僕のどこにあるんですか。」


 「これを知っているのはそう多くはないからな。俺とお前だけた。」


 「なら、小早川、お前だろう。」と僕は怒鳴った。


 「おれに喧嘩売ってんのか。」と小早川も怒鳴り返す。


 「猜疑心の塊の臆病者が、誰に信用されたたいんだよ、誰を守ろうとしてるんだよ。あんたは。あんたが守ろうとしているのは自分じゃないか。自分のことしか考えていない最低の奴じゃないか。」


 かつて、僕は修学旅行の旅館での事件で、そこの神経が破れた或女将から、ある接触をきっかけに、彼女の高ぶった神経から勝手にロックオンされ、あらぬ濡れ衣を掛けられたことがあった。


 食堂の瓶が一つ無くなったが、その犯人は僕じゃないかと、その女将が騒ぎだしたのだ。


 修学旅行で醤油瓶を盗むとか隠すとか、あり得ない。恐らく、その女将は病んでいたための被害妄想癖があり、目がたまたまあった僕をロックオンしたようだ。この類いの人間のプロファイルは、ある程度そこで掴むことはできた。


 その時は、僕はなんとか先生達から守ってもらえた。ストーカーという言葉もなかった時代から、固執する病理は社会に普通にあったのだ。


 小早川は、その最強バージョンであり、経験したことのない異常猜疑心の権化だ。


 結局、小早川は職員を見放し、懲戒免職した。


 小早川は来て早々に痛みを感じるまでもなく3人の職員の前途を切り捨てた。


 小早川も警察の酒飲みによる口封じを受けていたのだ。


 小早川は自己の無傷を嬉しがった。


 この男は信用も信頼もできない、と小早川の近くで仕事をする者達は、その異常さに気がついた。


 小早川が精神の安定のために描いている仲間からは上手いと言われている腕前の絵には、ほとばしる潜血の赤が常に使われた。少しでも絵画と芸術の批評精神がある者ならば、そこに底無しの狂気を感じとることができるだろう。


 

茶坊主と猿左衛門


 所詮、選挙の露骨な応援や妻や親戚総出による選挙の手伝いで優遇が決まってきた組織の体質は、多少の変容をしながらも、あの時代には確実に引き継がれてきた。


 それから枝分かれしたグループ、つまりは酒飲み仲間が、その仲間内だけで閉鎖的に政策の骨子を決めてきた。


 皆、この仲間に加わることに必死だ。


 さらに、仲間に加わっている奴等も、そらから外されないように、その仲間の中心にいられるように必死となる。組織の権力争いとはその程度だ。


 叩き上げを目指す者は、周囲の嘲笑を気にせずにプライドを捨てた露骨な腰巾着やパシリを演じることをするが、それなりの恩恵は普通は被ることができた。


 もっとも、小早川はすべてが言いなりの忠実な茶坊主やすすんで手足となり媚びを売る猿左衛門からも本心では怨まれ貶されるような最悪の男だ。


 極道の世界ですら忠があれば義も果すが小早川にとっては、すべての部下は自分を守るための将棋の駒に過ぎない。


 見せかけの権力と固執狂丸出しのコード体制下では、機嫌を損ねないよう気を配ってきた無能な茶坊主、猿左衛門、下僕どもは小早川の気分次第で下の者を自由に斬りつける邪心に、ただただ恐怖し、ただただひれ伏した。


 小早川だけがこの組織で完全に自由であり、意のままに完全に支配する独裁者として振る舞い続けた。



自己顕示のためのボランティア強要


 大きな揺れは何分続いたんだろう。

 ライフライン部局の二階建て庁舎も左右に揺れ、オフィスの机も大きくずれ始めた。書棚からは書類が崩れ落ちる。


 エントランス近くにいた僕は、耐震強度が不明なこの建物が壊れるかも知れないとして外に出るように促そうとしたが、マニュアルでは揺れが収まるまでは安全を確保とされていることを思いだし、自分だけ数歩の距離を歩き外にでた。


 エントランスの前の池は大きく水面が揺れ、その揺れにより、徐々に左右に溢れ出した。最終的に池の水は半分以上になくなっていた。


 「大きな揺れだったね、東海地震だろうか、東京は大丈夫だろうか。」と周囲では話をしだした。


 地震により停電となったが、自家発電により見ることができたテレビの情報では、東北が震源地だと言うことまでは分かった。


 ほとんどの職員は庁舎に夜通し残り、情報を取ろうとしたが、電話もなかなか繋がらなかった。


 夜にテレビ映像から空港の飛行機が津波で流される映像が衝撃的に流れた。


 その後の原発の状況は周知の通りの大惨事となった。地震よりも、津波か、そして、津波を原因とする原発による被害は未曾有のものとなった。


 穂高市のライフラインは、一部の橋梁を除き、ほとんど災害というほどの被害はなかったが、姉妹都市はじめ、関東、東北への救援体制が必要となるだろう。


 小早川は体調を壊しての長期入院のため、代わりに副の指示に従うこととなった。何の問題もなかった。


 むしろライフライントップがいない方が迅速な指揮命令が行えた。小早川は居なくてもいいことがいみじくも露呈した。いや、居ない方がすべてが上手くいくことに皆は気づいた。


 つまり、何のことはない、猿左衛門のみを配下に置くボーダーの小早川自身が猿左衛門、そのものなのだ。


 数ヶ月、数年経ても、被災地の市町村からは職員の派遣要請が呼びかけられた。


 「いつまでも、派遣というの宙ぶらりんの状態で仕事をやるのは、派遣の職員がもたないよ。」


 「自分がいいかっこしたいだけで実態も考えないで、派遣要請を引き受けて。それも、意見交換という宴席でのことでだよ。いいご身分だ。」


 「被災地は実際大変だよ、仕事が。しかし、通常の業務は被災地の職員が残業もしないで普通にやってるのに、何で派遣された各県からの職員でやっている大変な復興の仕事だけは、死に物狂いでやらなければならないんだよ。逆だろうが。楽な仕事は残して、大変な仕事は委託を出すという公務員のやることが、この一大事でも平気でやられているんだよな。あいつら、自分の町のことだろうが、早く帰らずに手伝えよって言いたいな。」


 一方で、民間は復興投資予算の工事でバブル景気並み繁盛だ。被災地の夜の繁華街は作業服からネクタイをしめた背広な着替えた労働者で溢れかえった。


 綺麗ごとの、がんばれ日本の背景のは、誰もが知ってる、誰もがおかしいとおもってる、そして、誰もが糺そうとはもしない、こんな裏の実体があった。


 長年、ボランティアといった概念は日本には希薄だった。精々、一日一善程度の軽い絆で十分だった。終身雇用を中心とした満足な雇用条件の整った日本でのチップの習慣が存在しなかったように。

 

 いくら綺麗事のを言っても、ボランティアとは生活に困らない基盤のある人間が、自分と同じか、自分より生活等に困っているか、自分より裕福でも一時的に緊急避難を必要性とする者に対して行なう相互扶助か、その延長のようなものだ。


 緊急避難以外に、己の生活がままならぬ者が他の者を助けにいくこと自体できないからだ。緊急避難ですら、己の命を投げ打っても助けるべき相手は誰なのかにより、人は躊躇し、判断する。


 公務員のボランティアは、ボランティア休暇という有給休暇により支えられている。


 ボランティアがもてはやされた時に、割り当てられた任務に、こんなことのために我々はボランティアにきたのではないと怒った人がおろ、大分、マスコミからバッシングされたが、どっちもどっちのことだ。


 小早川も、ボランティアの美名欲しさに、穂高のライフライン部局の職員をほぼ強制的に募り、被災地へのボランティア活動を被災地の日程も場所も考えずに無理やり行った。


 被災地は感謝の気持ちを伝えた。

 しかし、実態は、そのボランティアのために無理やりやらなくてもいい仕事を作り、無駄な弁当の手配や作業用具を準備しなくてはならなかった。


 小早川は職員のボランティア活動を広報しては実績だと誇った。穂高の市民にも同じようなボランティアを必要としている困っている市民はごまんといる。

 

 

神輿に乗せてやると手放しで喜ぶ勘違い男


 ドラマでの財政界を含む巨大組織ではあり得ない物語が受けている、反面、リアリティーのない時代劇のような大立回りに閉口するファンもいるかもしれない。


 明瞭な犯罪行為やパワハラならば、立ち向かうことも叶うものだか、陰湿ないじめのような実態は、教育現場の型通りの体質でなくても、個別の判定に当たっては、残念ながらどんなに社会でも組織でも明確にすることは難しい。


 仕事には論理的だけではない。仕事にも感情と言葉のやり取りでの機微があるためだ。


 その日は前日より大雨が降り続いていた。雨は街の中ではさほど酷い雨だとは感じられなかった。洪水の被害もなかった。


 しかし、雨雲は盆地を取り囲む南の比較的なだらかな山間地帯と北に位置し長く連なる山脈に大量の雨水をもたらした。


 山に吸収されなくなった雨水は濁流となり盆地の川へと流れ出る。堤防を越えるような増水ではない。極端に濁った水で河原は満たされた。


 この程度の増水では何事も問題はないと思われた。問題は思いがけなく飲み水、水道水から生じた。

 

 山間とその周辺の開発のせいかなのか川の水の濁り度合が尋常ではなかった。そのために水道局の浄水場での水のろ過が追い付かなくなり、水道水の供給不可能となった。


 山脈側の水源は豊富な湧水のため、川が濁っても何の影響もなかった。


 ただし、穂高を真っ二つに分けるように中央を流れ、はるばる太平洋の河口へと流れる大きな川の向こう側の地域は、低い山地から流れ出す山からの表流水に頼っていため、大雨の影響をもろに受け、極度の濁り水は水道水を造るようなろ過ができないため、次第に配水池の水もなくなっていき断水するのは時間の問題だった。


 だったら目の前の大きな川から水を調達すればいい、それだけのことだった。


 市町村合併以前の河内村の水源はこの川の水であり、この川を使った浄水場はボロながらまだ利用されており、いつでも旧河内村の水道管にバルブ操作で水の供給ができた。


 問題があるとすれば、一部放棄してしまっている水利権だった。


 水利権の水量が不足しているからどうしようもないとライフライン部局のブレインははなっから議論さえもしなかった。

 理系の人間しか信じないという愚かな小早川の無惨な無知と理系ブレインの融通の無さを露呈した結果だ。


 ブレイン会議の結果を聞いた僕達は唖然とした。

 基本的な水利権とはの視点が欠落していることは明らかだった。そして、それは、法律をかじらなくても、長年生きていれば経験がとして知識として身につけているようなものだった。


 僕達は会議の結果に納得がいかずに直接、トップの早川に詰め寄った。このままでは、旧河内村エリアは断水となってしまうからだ。


 しかし、早川、この男の阿保さ加減は限度を越えていた。阿保に加えてこの男特有の、例え間違っていても自分の意見が汚されることを嫌う異常な潔癖と、自分が一番でなければ気がすまない幼児性自己顕示欲とが、組織としての議論も意見を取り上げることすらも許さなかった。


 「俺は理系しか信じない。」と意味不明な事をしていたとおり、この俺は自由な言語による自由な人間の感性も感情も理解などできる人間形成など成されないままにここまできた。小早川は組織の慣例の不備の産物であり、社会システムの失敗が産み出した愚者であった。


 水利権が重要になるのは渇水の時だ。増水した川で水がじゃぶじゃぶ流れる川の水利権などなんとでもなる。


 なんとしても動かうとしない小早川を出し抜いて、僕達は直接暫定の水利権の了解を得て、勝手に水量を増やして浄水を始めて水道水を供給した。


 断水は回避された。断水していたら一週間は断水していただろう。穂高市は断水を全くすることなく、いとも簡単にすり抜けた。


 小早川は、当然、面白くなかった。

 僕達にすれば、あなたの失敗をリカバリーしてやったのだから、感謝されど叱責されるような覚えはなかった。部下の真実に耳を貸さない、あなたが悪いと僕達はいつでも言い返せた。


 「俺の言う通りにやってたら断水になってるってか、それでどの程度の被害がでるんだ。断水くらいで。」と小早川は言った。そんなこともわからないのかよ、誰もが諦めのやるせない気持ちでいっぱいとなっていた。


 険悪な職場の雰囲気の中、地元の新聞社が訪ねてきた。


 こんな馬鹿なトップの真実を伝え、濁り川に精霊を流すように、跡形もなく下流へ流してやれることもできた。


 組織の体裁もあり、小早川が自ら英断により水利権の困難な調整に乗りだし、なんとか了解を得て断水を回避できたとのストーリーを捏造して地元の新聞社の若い記者に話した。リップサービスだった。


 若い記者は鵜呑みにして翌朝の地元記事のトップに掲載した。


 記事を読んで、他の新聞社も弾みが付き取材に訪れた。今度は直接、小早川が取材を受けた。小早川もこのストーリーにちゃっかりと乗りだし、小早川は作り出された英雄のようになった。知ってる職員は、映画鉄の男のコメディ盤だなと冷笑した。


 精霊流しを瓢箪から駒の御輿に代えてやったら、勘違いし、御輿を自分で自走させ始めた。奥ゆかしさなどない。


 後に我々は大きな失敗をしたことに気付き、小早川を押さえられなかったことを後悔をすることになる。



膨大な浪費とするべきでない節約


 国語のできない国語教師の国語のお勉強が今日も無駄に始まった。


 出来の悪い国語の教師は、出来の悪い猿左衛門が真似し始め、にわか国語教師が日を追うごとに増えていく。


 馬鹿丸出しのオウム返しの国語教師だ。


 正確に文書で相手に伝えることは大切なことに間違いない。広報文書ならなおさらだ。しかし、ここで取り上げられている文書とは内部資料に使用ふるものだ。


 粗原稿で方向を組織決定し、詳細を詰めていくのは、そうそう時間がかかるものではない。


 時間がない場合はその時間が制約となり決定稿となるが、時間が有り余る程にある場合は早川はあるだけ全部使う。しかも、指摘は自分のこだわりの語尾、語彙だ。方向性が重要なのだが、そこはスルーなのだ。


 そして、無限ループの議論を拒否した自己の持論の展開となる。


 結果、満足してその会議は一応終了するが、二回目の会議のときには、早川の気まぐれで、語尾、語彙から同じ様に繰り返され、自分の修正指示で直した文言がまた修正指示される。


 三回目の会議では、他の意見を許さない自己持論を根本からひっくり返す。これまでの語尾、語彙の修正などは一変で消し飛び、元の木阿弥となる。


 一回の会議は、短くて3時間、約半日だ。長いとまる一日、無駄な時間が割かれ無駄な作業が強いられる。仕事の書類を作っては捨てる、意味のない穴堀

だ。


 これが、朝から夕方まで延々と続く。

 小早川のバイタリティーは大したものだと誰もが言う。無駄な体力がある。


 かつて、痴呆気味の少しアル中気味の上司に使えたときもこんなに感じだった。ただ、人は良かったから周囲のやんわりとした軟着陸に数人で誘導できた。人間関係もなんとか維持できた。


 その時も、同じ繰り返しの無限ループに入り、しかし長くても3時間は無駄にした。しかし、頻度は小早川のように毎日という狂気ではなかった。小早川は短くて3時間だから、バイタリティーといえば聞こえがいいからそんな誉め言葉を使用していたが、痴呆と固執と猜疑とが行き交う狂気のなす無限ループ地獄だ。

 

 生き生きしているのは小早川、ただ、一人だ。罵詈雑言をちりばめて、時にはケタケタ笑って、時間は過ぎていった。小早川が笑ったときだけ議論参加者は笑えた。笑いを殺された刑務所の受刑者がここで笑わないと気持ちが晴れないとばかりに大声てお追従の笑いをする。


 政策も実体を知るスペシャリストには陳腐な無駄な計画の連発だ。すべてが無駄だった。


 災害時に備えるためと称しては、高低差300メートル、距離10キロメートルを送水するポンプ施設と配水管工事を100億円かけて実施するという。


 そんな災害は、これまで80年間、一度も起きたことはないのにだ。


 さらに、ボンプ稼働の電力代は1時間500万円かかることが完成してから分かる始末で試験運転も経費がかさみ実施もできない。


 「戦艦大和だな。」と誰もが冷笑するなかで小早川だけが日本でどこもやってない災害大作戦の快挙だと小躍りして自画自賛の宣伝をあちこちにふれまわった。


 政治的レガシー狙いのつもりなんだろうが、見当違いもいいところだ。自分の足跡を残すことに必死なんだろうが、恥さらしの自己満足のリメンズ(廃墟)になるたけだ。


 一方で、80円の手数料を貰えと市民サービス後退の施策を指示し、意味ない水道水PRの上り旗を作らせ、災害で有効なペットボトルを無理やり廃止して、廃止に対する議会からの批判は部下に押し付ける。バス代の500円をケチって削り、自分は3万円のタクシー代を使用する。


 また、経営悪化にある銀行に対してその縁故債を競争入札にして自己アピールの高い低利率を得ての手柄をやろうとすれば、当然にそれまで無料設置のATMを撤去されるのは目に見えていたのに、その市民の利便性より自分の手柄のアピールを採るとはな。利率よ差額なんかよりはATM設置の設置経費の方が断然経費的にはメリット高いにも関わらず、自分の後に引けない面子をとるという俗物根性丸出しの厚顔無恥も凄いものだが、自分のアピールのために誇大に創られた記事をでかでかとホールに掲示させてご満悦という厚顔無恥さも驚きを超える。


 「妖怪だな。まるで」取り巻く腰巾着ですら影で呆れた。


 ぐだぐだと老醜を晒し、死臭を振り撒き、己のマーキングを施すのに躍起だ。

 


子供もやらないわがまま放題


 「この建物で俺に会っても挨拶もしない。どうにかしろ。」と小早川に言われたと板坂が話し出した。


 今年から業務を委託したのだか、業者の従業員達は遅れて朝9時頃に出勤してくるため小早川のことはほとんど知らなかった。


 小早川から「おはよう」とでも声掛けすれば、自然と人間の繋がりなど出てくるものだ。


 小早川は偉そうにしている他の局長達の一部の勘違いども同様に、自分から挨拶などしない。


 下の者から挨拶されても、小さく「お」、とか「ん」とか頭も下げずに通りすぎるだけだ。それなのに、相手がしないと一人で大騒ぎする。


 もっとひどいときは、挨拶する相手に挨拶も頭も下げなければ却って胸を張って肩で風を切る。


 「徳ってのはもはや死語だな。」と板坂は言う。


 続けて板坂は、「だから、〈業者従業員全員との顔合わせ会を開け〉と命令されたんだ。でも、発端は業務遂行ではないんだよ。小早川の顔を知らしめて挨拶させるための宴会なんだ。それでも準備していたら、以前は小早川と反りを会わせてきたはずで退職し、その業者に天下った竹原という常務が、俺は行かない、と言い出したんだよ。それを聞いた小早川は、〈常務が出てこないなら俺も行かない、それに、何で開始時間がそんなに遅いんだよ〉ってね、それで、ただの事務員同士の親睦飲み会になった。みんな業者は5時ではなく7時まで仕事させてるんだよ。忙しいから時間も無理やり8時に合わせたのに。小早川は〈そんな時間には俺は普通に飲んでいて、もうできあがってる時間だ〉だと。」と呆れた顔をした。


 「でも、小早川なんて邪魔以外の何でもないじゃん。ある程度来れば十分だよ。」と僕が言うと、「小早川が〈他の者にお前も行っては駄目だ〉と俺の目の前で言うのよ。やはり、欠陥パーソナルだ。梯子登らせられて、外されて、責任取らされてになるな。」


   

ラッセラ


 どこかの国の大統領が当然のように選挙でノーを突きつけられ失脚する頃、選挙にも依らずにいつまでも君臨しようとする小早川は建設中の施設を視察しているとき、上から落ちてきた鉄筋の下敷きになり、あっけなく即死した。小早川の死は事故として処理された。


 しかし、何故小早川にこの建設現場の視察に呼びれたの、何故小早川はあの場所に一人でいたのか、なぜ早川が通りかかったタイミングで鉄筋が崩れたのかは依然として不明であった。


 建設請け負いの土木会社の次男坊は、以前穂高市役所に勤めていたのだが、小早川の部下であった時分に辞めていた。会社を継ぐための自己都合との噂もあれば小早川からからのパワハラとの噂もあった。次男坊は会社を継いではおらず、そもそも穂高にも居住者している様子はなかった。


 小早川の死に接しても、誰一人として悲しみ寂寥も感じなかった。乾いた事実だけが伝わった。不謹慎ではあるが安堵に似た空気だけが全体を包んだ。部下を蹂躪し続けた小早川の死を悲しませるものなど誰一人の心にも存在さらことはなかった。


 権力を失った小早川など、店員に訳の分からない意味不明の事で激怒する迷惑千万な老害のクレーマーにすぎない。


 小早川は醜さを挽回することもなく、最期の最後まで醜いままに逝った。鮮やかな青天の夏空が目に染みた。


 この時、世界的に流行した某細菌策の失敗により失脚した某国の大統領のようなお別れはなかった。この世界的に流行していた某細菌の感染対策により小早川の葬儀は近親者のみで執り行なうこととなった。


 小早川とは止むを得ない組織の指揮命令下の下での止む無き腐れ縁だ。葬儀は出ない。義理も人情も欠いた人格も人間性も欠いた奴に義理を欠くと言われる筋合いはないと言うことでまとまった。


 この男のせいで、何人が死に、何人が辞めていったことだろう。小早川は新種の細菌のようなものだった。


 いくら写真で残そうとも、この世から居なくなれば、その熱量はなくなり薄い記録となるだけだ。小早川の死を見届け、写真となった小早川を思った。


 あのまま小早川が居座り続けていたら、誰かが小早川を殺していたかも知れない。そして、それはもしかしたら、青山の優しさを知り青山の仇をとりたかったという優しさ溢れる真琴であったかもしれないし、武器を持ってきた長渕だったかも知れないし、病んだ関谷だったかも知れない。


 「もう少し早く死んでくれてたら良かったな。そしたらあいつも死ぬこともなかったし、病む奴も辞めていく奴も免職となる奴もいなかったし、ゆかの正体も知らずに済んだし、労働組合幹部の化けの皮が剥がれた姿も拝まずに済んだ。」と誰かが呟いた。


 犯罪を犯す人間を作らずに、勝手に死んでくれたことが皮肉にも小早川の残した唯一の成果となり美徳となった。最低最悪の暗黒男が消えたのだ。しかもマーキングのように数々の自己のガラクタのような懸案と厄介な遺構を残して。


 「小早川の後任はどうだ?」と聞かれた。


 「いやいや、普通の人で良かったよ。今までとは比べようがない。朝から小早川の部屋の前で報告や決裁もらうの順番待ちをする必要もないし、小早川の机の前で半日も立たされたまま執拗に尋問されるようなこともないし、会議もスムーズに進むよ。小早川の時のように、会議は半日単位で、しかも、意見は言えず、ただただ、小早川の異常な持論の展開を延々と聞いてるだけの狂気丸出しの会議など一つもありはしない。みんな、イキイキしている、本当の笑い声があるんだぜ。考えられるか。どれだけの人間が苦しめられてきたって言うんだよ。やっと長い悪夢から覚めたとか、氷河期が開けたってとでも言うなれば感じだ。ただ、早川が強いた無茶苦茶な計画も事業もそのまま継続さ、途中で変えられないのが村社会だから。でも、俺は今までも、行政に携わる人間としてはあり得ないのかも知れないけど、忖度や私腹が常に付きまとう政治の側には立たずに、常に簡単に割れてしまう卵のように弱い存在である価値観の側で、つまりは文学の側でやろうとしてきたんだよ。それが俺の入庁からの革命ポリシーだからね。これからもそれでいくさ。」と僕は答えた。


 「僕は小早川の正体や小早川の狂気を記録として残そうかと思っている。一体、この組織の村とはなんだったのか、この村で何が起こっていたのかをね。」と友は言った。


 「昔と比較するとずいぶんと良くなったと思うよ。もっとも部局をメチャクチャにしていった小早川が来る前までだけど。」


 「とりあえずは小早川以外なら天国のように普通には仕事も進むだろうからね。まあ、その後も普通は普通にいくからね。ただ、今度はその普通がどう普通なのかが問題となってくるだろうけど。」と友は笑った。


 友は軽くトントンと足をステップして「ラッセラ。」と口走った。小早川が黄泉から涌き出て来ないよう、こうして地面を固めておくステップだ。


 取り巻きの猿左衛門のみならず、すべての職員も皆、早川のような人間の出現を許してきたのも事実だ。

 

 この社会の体質が狂人を生み出しては疎み、また同じようにラッセラと地面に埋め、また、誰かを崇め祭り上げる。


 我々の歴史は、踏み固めと祭り上げとを繰り返しの歴史だ。そしてまた、あらたに祭り上げを繰り返す終わりのない舞台装置。


 「僕は今の時代というものがよくわからなくなった。昔は時代の先端というものを掴んでいたつもりでいた。周りはそれに気がつかずに、いつまでも古いものにしがみついているのが分かったけど、世界情勢のようにイデオロギーも変化してきた。歴史の終焉ということもなんとなく理解できる。世界的な歴史という概念が崩れ、価値観も個々が生き生きと自己主張し始め、許されているけど、歴史を背負った負のDNAは、僕たちの日常に生活に社会に歴然と染み込んでいるじゃないか。自由な烏合の衆が無自覚に歴史に支配されているカオスが今の時代の中心なんだな。」と友は言って笑いながら軽やかにきびすを返し歩き出した。


 過去は少しづつ変わってきた。それは時代が少しづつ変わってきたのだ。人為的に少しづつ変えれるものは、わずかに過ぎない。僅かなミクロの変革はマクロの変化にかき消されてしまうのだろう。


 個々に無自覚に日本の歴史という美名に潜み続け、思考を停止させ、ずーっと蔓延し冒している疫病がある。その名は「村」だ。


 小早川は歪んだ「村」を栄養にしてたまたま長く咲き乱れたアバタ花だったのだろう。


 アバタ花を根絶させるためには、温床となる美しき、そして、愛すべき、この「村」を解体しなければならない。

 

 アバタ花は村に巧妙に捻れ貫いたどす黒い根を張り巡らして育つ。簡単に変わるはずはない。


 日本の社会は官制度を最良の物として民も少なからず真似た制度だ。


 日本の古き伝統に脚色された制度を色濃く残しており、明治の新制度も与えられた戦後の民主主義制度も、それを払拭するどころか益々巧妙に刷り込ませてきている。


 最近の行財政改革などに現れている民間の活力や民間の柔軟な対応を取り入れてとの最近の考えは、一部の民間資金の活力と民間の効率性や競争を取り入れた内部精査や外部サービルで部門でのことであり、民間のすべてが優れていると勘違いしてはいけない。官が今でも組織や制度は民の模範であり見本であり中心だ。


 そして、社会でも生活でも、人びとも1300年のいにしえの掟を、美徳とし掟として、義理人情に自らを縛り付け、自らを諦め、仲間意識で囲み、時には排除し、仲間を引きずり下ろしては、遠くからの支配者を有り難がり、服従し、祭り上げる。


 日本の1300年続いて築いてきた制度、村意識はおそらく今後1300年は変わるまい。


 小早川が去っても、また、小早川のような奴が現れ、祭り上げられて鎮座する。それが村の習わし、村の掟だ。


 歩き出した友の目の前には3000m級の穂高を取り囲む白い山並みが高い壁のようにせまり聳えていた。それは、悲しいくらいに透き通り、悲しいくらいに美しくそして眩しく輝やいていた。それは僕には黄昏に輝く美しい壁のように思えた。



幻影を透視する


 労働はことごとく大義名分の美名の名の下に都合よく搾取され、優しく優雅で裕福な名士だけが笑う。優しく搾取することが当然であり、搾取のランク付けもここでは常識として当然の掟だった。見えないヒエラルキー隙間はカミソリの刃一枚分もないように無言の鉄則だ。


 普段から当然するべきことであるようにヒエラルキーは当然と受け止められていた。領主は初めから疑うことももなく領主として振るまい領主として扱われ、小作は疑うこともなく小作であり続ける。田畑の村からビルのオフィスと変わっても領主と小作は変わらず存在する。平地の村はビルの村となった。平地の貴族、武士、庄屋は、そのままビルの大きさに応じた村の陰位を授かり、領主の世襲を温存した。名ばかりの自由は財産と権力の多少の形を整えたに過ぎない。


 領主は今年は大変だからとヒエラルキーの段階ごとに搾取を重ねる。奴隷のような無能な作男達も領主様のことだからと身を粉にして命を削る。領主はカルロスのように私腹を肥やすが、領主だから、責任ある立場だからとの封建的価値の正義が常識に受け入れられる。


 昭和のマルクスはイデオロギーとして排除され、誰でも解る理屈をピケティはもてはやされても解決策は示さない。村と同じく己の位置を確認しながら経済の問題は政治の問題とは違うのだ。100年の逆行は恥じることなく常識となる。


 戦後70年でも足りない、明治150年でも足りない、1300年でも足りない大きな背景が眼前にリアルに存在していた。1300年のエスタブリッシュメント。〈新しき村〉など希望とともに漏れなくそこへと吸収され死滅していく定めだ。死滅した眼だけが、現在をする抜け過去からの1300年を透視する。


  

蒼ざめた馬を見よ


 雲一つない青空に夕陽を浴びて青き山々の頂が連なる。絶望の季節に祈りを注げた山々が、長い時を経て同じように目の前に聳え立つ。時は流れは夢だったのか、あの時と何も変わらない山々は答えるはずもない。


 変わらぬ風景のなかで、僕に残されのは過ぎた日々の穏やかな大切な家族との思い出の時間だけだ。それで分過ぎる程の幸福掴んだに違いない。


 けれど、長い時の中で戦い続けた爪痕は諦念とは実らず、どこかに悔恨として小さく残り続ける。最後まで意志に忠実に生きた道程での僅かな悔恨の情を紐解かなければならない。


〈信じるところに現実があるのであり、現実は決して信じさせることはできない。〉そんな言葉を思い出しながら〈拒絶された思想のその意味〉の問いかけに代わる《聞き取れない1300年の時を越えて囁き続ける囁き》を確かめなければならない。


 世界の根幹として立ちはだかる村社会には辟易とする。それは権力と富に固執する者と、それを受け入れ群がる者とで構成される。


 泥濘を遠目に見下ろし、歴史を俯瞰し、美しくもない幻想の山辺の道をゆっくり歩きながら、風に舞い聞き取れない心象の囁きを、我々は見つけなけなければならない。


 果たして、この理念なき時代において、囁きは詩となるまでに増幅するだろうか。黄昏にある本当の美しさは密かに耳元で語ってくれるのであろうか。


 故郷の家は廃墟となり、見慣れた駅裏は再開発で思い出は欠片もなくなり、休日に車の渋滞と人混みで賑わった街の商店街も跡形もなく朽ちている。

 

 過ぎていった高度経済成長とバブル経済とリーマンショックと、経済も景気も長く低迷鬱屈とする時代を経て、村社会の根幹も朽ち果てながら変化しなければならない。


 昭和と平成に別れを告げよう。令和の新しい季節の未来を、我々は過去よりも一層美しく創っていかなければないのだから。

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続・穂高市役所ストリートビュー年史 十二滝わたる @crosser_12falls

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