穂高市役所ストリートビュー年史
十二滝わたる
穂高市役所ストリートビュー年史
過去の回帰
あれから一体どのくらいの歳月が過ぎ去っていったのだろう。昨日のことは遥か昔の出来事のように思え、昨日のことのように思い出す楽しいことや殴り倒したい感情を無理やり押さえつけるために全身の震えを我慢する出来事は、遥か昔の出来事となってしまった。
あの頃、目の前で罵倒することも、伝言板に書き残すことも出来なかった、ひたすら前を、ひたすら下を向いて耐えてきた、時の流れをもう一度つむぎ直して見ることは可能であろうか。そして、その事により、僕の心に何か新たな視野の広がりか、新たな声が聞こえるかもしれない、そんな微かな心のうずき感じながら、僕は心のひだひだを、もう一度トレースしてみようと思う。可笑しいかな、いや、そんなことはないさ、何故なら、過去のことは、きっと誰もがそう思っているに違いないから。
蛍光灯
蛍光灯の高音質のざわつく音がやけに気になるが、誰もがそんなことは気にも止めない。こんなに晴れた良い天気の春は、外の空気を吸い込み公園でボールを蹴るのが楽しいだろう。
あいつらはおそらくそんなことをしながら、まだ始まらない入学式の前の希望に高鳴る気持ちを紛らわしているに違いない。
それなのに僕は、囚人のような体に馴染まない上下のスーツを無理やり身に纏いながら、暗い窓のない殺伐とした雰囲気の職場に佇まされながら、好奇の目にさらされている。余裕のあるように微かな笑みを浮かべてみても、好感度が上がるための点数稼ぎにもならないほどの冷たい白けた視線の嵐が注ぎ込まれている。
そこには、不本意ながらも嫌々受けた面接官であった小柄な男の姿もあった。貧相な体と猜疑心の塊のようなその男は、僕の上司となるようだ。
およそ人としての寛容とか徳とかとは縁遠いながらも、餌にありつけるためには何でもするような、狡猾に生きてきた野良猫の姿を思わせる、知性の欠片も見当たらないその男の指示に従うこととなるとは、早々に見切りをつけなければならないと覚悟した。
質素なコンクリートの床は、タバコの吸い殻をそのまま捨てて、足裏でもみ消した後が、至るところにあった。オフィスとは思えない、工場の現場のようなところだ。
鼠男
僕の上司となるその男は定年までほどない年のように思えた。髪は禿げてはいないがほとんど白髪であった。
また、筋肉なるものもほとんど感じられず、撫で肩の猫背で小さい貧相な体で、強い者にはとことんへりくだり、少しでも自分よりも相対的に弱い者にはとことん虚勢を張るのである。
しかも、へりくだった薄笑いを浮かべ、媚び尽くした演技の目の奥には、決して媚びていない冷たい透明な不気味な水晶体があった。
その男は、鼠のような嗅覚で自分た正体を見破っているその人間を見破る動物的な本能をも持つことにより、淘汰されずにこれまで生き長らえてきた。
つまり、彼にとって、彼の正体を自然に見破る術を持っていた僕は、天敵であり、殺らなければいつか殺られる相手、打ち取るべき刺客であったのだ
赤紙
その鼠男は、小学校して程なく村役場の給仕として働く場所を与えられた。
それまでは、上流の川向かいにある今にも流されそうな小さな小屋に家族数人で暮らしており、川の氾濫で幾度となく小屋も流されていたのだが、それが幸いして、猫の額くらいの畑の土地は、肥沃でとなり、大きな大根等の野菜を町に売りに行っては僅かな米を得て生活をしていた。
小屋の前の川には橋もなく、さらに上流に道なき土手を歩いては浅瀬を見つけては濡れながら川を渡るのがつねであつた。完全に村とは隔離された土地に、なぜ家族が住み着いたのかは彼自身も知る由もなかった。
彼の体は栄養失調のように貧弱で、背は低く、猫背で歩く姿もなぜか引きずるような左右対称でないものであった。
当然、軍隊への検査もままならないものがあったが、村の者は彼の存在すらも気に止めることはなかった。
庄屋である村長は、そんな彼のことを不憫に思い、村役場の給仕として向かい入れた。村役場のまでは十キロ程も歩かなくてはならなかった。
分校よりもさらに倍の距離であるにも係わらず、彼は毎日、誰よりも早く村役場に出ては、給仕として、人の嫌がる便所掃除やら庭の掃き掃除やらごみ捨てを、他の職員が来る前に終わしては重宝がられていた。
いつの間にか、日本も戦争となり、小さな村にも召集される者が出てくると、給仕の仕事に赤紙を届ける役割も加えられた。
赤紙は夕方届けられる、確実に本人や家族に手渡さなければならなかったため、誰もが嫌がる仕事であった。
「おめでとうございます」と言いながら、軍隊不合格検査の彼は配り続けた。
赤紙を受け取った家族は誉れだと言い、回りの者も「万歳」と喜んだが、彼はそんなことは嘘っぱちだと思いながら、目の奥の水晶体を冷ややかに見開き、一部始終を目に焼き付けた。俺の勝ちだと彼は心のなかでほくそ笑んだ。
転機
戦争が終結すると、GHQの政策により没落する一族が生じた。彼を村役場に導いた村長も、農地解放と戦争犯罪に問われ村を追われた。村長の裏での醜い程の仕打ちの片棒を担いできた鼠男は影の存在だ。誰もが気にせず、誰もが咎めない。
根も葉もない村人の噂を奉り上げては軍や交番の報告し、有力者にはとことん媚びながら、村の事実上の召集を決めていたのは、実はこの鼠男だ。
村長にあれだけ尽くしあれだけ世話になった関係であるのに、彼はしらを通し続けた。恩など生き延びるためなら簡単に捨てた。戦後の農村の新たな権力はこの小さな村では左系化した物の考える方を語る新しいならず者だった。彼は直ぐに、このならず者に取り入った。
やがて昭和の市町村合併が進むと、小さな村は幾つかの町と村が集まり、まとまった市となった。
新しいならず者のお陰で、鼠男は新しい市の職員に採用された。敗戦による価値の変化と社会のゴタゴタが、彼をいつの間にか一人前のような扱いにした。
偶然と鼠男独特の生き延びるためならの嗅覚の産物であった。
阿修羅
傷ついて動けないシマウマを襲うハイエナのように、下衆な中年女どもが鼠男を吊し上げる。鼠男はこの下衆な中年女どもの係長だ。
「それは係長の仕事、私の仕事ではない」
悪びれた様子もなく、上司に向かって金切り声
をあげてる。
「今日は労働組合の婦人部の酒飲みがあるからら、そんなことできない、もっと早くから、昨日のうちに分からなかったの」
鼠男は「すいません、仕事なのでお願いします」と頭を下げる。
下衆女は「駄目~」と言ってさっさと帰って行く。
別の下衆女は「さっさとしないからだなあ」と席を立つ。
もう一人の下衆女も「明日なら手伝ってあげてもいいよ」と言い残して、やはり帰って行っく。
仕事より組合活動だと言いはる酒飲みが大切なのだ。
鼠男も二重権力のような労働組合と言われると、自分もそれに寄り添い、それを後ろ楯としていたため、何も言い返すことができなかった。
鼠男の今の裏の諜報活動には、筆頭の労働組合活動に反対する労働運動や政治活動の様子を逐一調べ上げ、報告することであった。右系の労働組合潰しの心配ではなく、筆頭の労働組合活動の脅威となる他の思想を支持する人々の台頭を心配し、潰すことが目的なのだ。戦争中の仲間の振りをしてさりげなく聞き出しては憲兵に密告する延長のようなもので、何のことはなかった。何の良心も痛まなかった。自分はそうして蔑まれながらも勝ってきたのだから。
下衆女どもも、鼠男と同じように、戦後の市町村合併により、電話交換助手から、庁舎の清掃員から、食堂の手伝いから、いつの間にか市役所職員となっていた者達であった。
皆、それぞれに、地区のボスの後ろ楯を背景にして勝ってなことが許されていた。仕事は誰でもできる簡単な繰り返しの作業であり、みかえりの報酬は余りあるものであった。鼠男も下衆女どもも同じ穴のむじなだ。仕事場は常に修羅のごとく感情が支配した。市民等ことなど後回しだ。自分達の、労働者としての主張がここでは正論で一番正しいのだ。
むじな男
鼠男の隣の机の島には、二人のむじな男がいる。鼠男よりははるかに社交的でいかにも包容力があるかのような振る舞いで、例えば、仕事の区切りの飲み会では、必ずその後の部下を引き連れて二次会へと引きずり廻すのが慣わしだ。
しかし、自分のひいきする店のママや女の子に、カッコいいところを見せるのが目的のようだ。連れて来てはその店でかかった飲食代はその場で全額自分が支払うのだが、翌朝の職場ではむじな男の筆頭チイママのようなむじな男が、昨晩はむじな男に大変な負担をさせているからと、一人ひとりに相応の金額を請求し、金集めを始る。
よくもまあ、お前は特にボトルを追加するほど飲んだからいくらだとか、お前は高いつまみの何々を頼んだからいくらだと、昨晩の酔った状態の様子をあれこれと覚えているものだ。
俺は記憶力が良いからと自慢気に話するのだが、そんな記憶は肝心な仕事に生かしてくれと言いたくなる。
行きたくもない二次会に無理やり付き合わされて、親分むじな男の自慢話を聞かされて、挙げ句の果てに、実費回収か。子分むじな男は金を集めて、親分に深々と頭を下げてお礼を言いながらお金を渡すと、親分むじなは当然のようにお金をわしずかみして、スーツのパケットに素早く入れた。
このむじな男の師弟関係のような嫌らしい世俗的な上下の関係は、むじな男どもの連鎖のように、無限に上へ上へと続いて行くのだ。
鼠男とその周囲が下に向かって騙し続ける無限下降と、むじな男どもの繰り広げる無限上昇と。
僕の踏み行ってしまった社会は民主主義と自由の教育であるはずの社会、公的な組織の内部関係の皮一枚剥いだ姿は、おおよそ知性や品性からは大きくかけ離れた、未開の集落のような社会の姿だ。
戦後三十年を経ても、農村社会は街のビルの建物の中に、縦社会としての村社会を、厳然と存在し続けていたのだ。
選択
1970年前後の時代は、なんと混沌とした時代なのだろう。
もちろん、戦後の焼け野原からの再生や、1960年代の安保闘争、政治的対立、世界的な社会情勢も激動の時代には変わらないが、選択肢としての価値観の違いは比較的明瞭だった。
比較して、70年前後とは価値すら多様化過ぎて何がなんだか分からなさすぎる時代だ。
社会的混乱とは裏腹に、経済は順応に伸び、高度経済成長率を達成し、大阪万国博覧会に人々は酔ったか思えば、学生運動の分派が筍の根のように無数に増え、その一つはあさま山荘事件を引き起こし、おぞましいリンチの過去が暴かれる。さらに、そう思えば三島由紀夫は自衛隊の決起を促して割腹を遂げる。月面に地球人が立つ瞬間をリアルタイムでテレビが放映する。されど、テレビは視聴率を競い、月面と同じレベルの取り扱いで、ナンセンスな大衆喜劇が席巻する。
百花繚乱する価値の中で、どの道を歩むのか、その選択さえも全くもって自由なのはこれまた価値の多様化のせいだ。
ハロインカボチャ
70年代も終わりに近づいているこの時代にも、戦前戦中の村社会の人間模様が、当然の常識として戦後の上着を羽織っただけの見せかけ関係が幅を効かすこの職場に、急進的なと言われていた新たな価値観の(それはやはり見せかけの村社会規範を抜け出してはいなかった。)カッコよさと頭の良さそうな話し方を武器に(結局、それも見せかけの薄っぺらな衣装の即席の着替えでしかなかった)熱烈に主張する、それは、政治的にも、文化的にもであるが、そんな者達が仲間を作って勢力を伸ばそうとしていた。
この人達の目的は宗教にも似た政治活動で、主体的のようで、裏にフィクサーがおり、そそのかされている奴らだ。
それは所詮、山に囲まれ、高速道路のひとつもない、新幹線もなく、東京まで列車で半日もかかるこの田舎に訪れた10年、否、20年遅れてやって来た分派の、暇潰し娯楽のように感じられた。
「君はマルクスをよむんだね」と親しげに近づいてきた職場の先輩である青年は、その構成員だ。若いのに細い紙質の青年は、やや額が生え上がり、直ぐにてっぺんまで禿げ、おそらく西洋ハロインカボチャのようになまでほどないはずだ。
壁と卵
「君は何を言ってるのか分からない」
いつも彼らの、いわゆるオルグと言われる勧誘のような会話の最後にハロインカボチャはそう言った。
新左系と呼ばれていた彼らの主張を聴かされている僕が言うのではない、話しをされて、その話はおかしいのではと反論している僕な対してハロインカボチャは言うのだ。
本来、何を言ってるのか分からないのはハロインカボチャだ。一通りの彼らの主張する考えは組織化され、教条するマニュアルも備わっている。熱心な新興宗教の信者が自分の言葉で勧誘するのではなく、レクチャーされた言葉を繰り返し、質問に対する答えまで、あたかも現在のコールセンターの受け答えが決まっているのだ。
マニュアルに書かれた質問以外はやはり何を言ってるのか分からないとなる。
確かに僕のような質問と持論を展開するような者はいないだろ。
そもそも、彼らのように僕は政治的活動には全く興味がなかった。興味がないと言うよりは非静的活動と思考を志向していた。
政治は政治で必要で立派なことだ。しかし、非政治も必要て立派なことなのだ。その間には埋めようのない、隔たりが歴然として存在している。
そして、このての話しにはこの隔たりを相互に理解する必要がある。
あたかも馬鹿の壁を理解しながらも交換として言葉を交わし、互いの立脚する地点をあくまでも尊重することが必要なのだ。決してこの地点は交わることはないのだから。
僕はその事を理解しながらも僕の地点からの話を展開するのだが、ハロインカボチャはそれを理解できない。
西洋世界の帝国主義的世界侵略に対するアジアの果ての日本が取らざるを得なかった日露戦争は遠い戦いだったろう。しかし、君死にたもうなかれ。との主張も同じように尊い主張なのだ。
家長の戦いが格上で、姉の嘆きが格下でとは、村の氏族社会的に未だに停滞する思考形態だ。急進的左系思想の薄皮の下には根強くこんな思考があったのだ。
己れの内なるブルジョワ根性を否定する(実際は否定する方法も意味知らない奴らだが)前に、原点から見つめ直す必要があるはずだ。
ハロインカボチャ達のやってることは、鼠男や下衆女やむじな男がやってることと、寸分変わらない価値観に根差していることにすら気が付かない。
30年後にある作家が素敵な言葉を言っていた。
「高く硬いシステムという壁があり、そして、その壁にぶつかり、割れてしまう卵があるならば、僕は常に卵の側に立つ」
村を撃て
三顧の礼ほどではないにしろ、熱心なオルグという名の勧誘がハロインカボチャから十数回あった。場所は行ったことのない繁華街の喫茶店や夜の酒場であった。潤沢ではない組織の活動資金であろうに、すべてハロインカボチャがそこの支払いを持つた。勧誘などではない、ワイロのようなものだ。
村社会の掟は、飲ませ食わせのおもてなにを受けたら、受けた者は実質的な子分になるようなことを覚悟しかればならないのだが、結局、すべてに反駁した僕は、彼らの一員となることはなかった。
僕は彼らのことを論破したが、彼等を否定はしない代わりに肯定もしない。少なくとも彼らとの議論では、彼らは理解し得ないでいたが、論理的に否定はするものの、よそでその話しはもしない。
しかし、このことは彼らからすれば、彼らと近親憎悪の内ゲバを繰り返している組織のごとく、シンパからの裏切りとしたのだろう。鉄パイプの攻撃ではないにしろ、同じ市役所内のそれぞれに散らばり、それぞれの関係を持つハロインカボチャの仲間からの、村社会そのもののとも言える嫌がらせが何年ものあいだネチネチと続くことになった。
あの時の彼らは、なぜか多少の、しかし、在るものはかなりの、病的な様相をもっているのではないかと僕には思われた。
しかし、パーソナリティーと村社会の掟との峻別はつかなかった。鼠男やむじな男も同じようなもので、根も葉もない策略的なデマ、妬みからのでっち上げ、小さな部分を掴まえての貶めさせ相対有利の立場をとる、そんな点で彼らとまったく同じようなものだったからだ。
そんなことから、僕はハロインカボチャの仲間からは攻撃を受け、喫茶店に彼らとの出入りしていると鼠男から労働組合に報告され、むじな男からは労働組合活動に熱心だと相当部署に告げ口された。すべてのセクションで、事実無根の噂話が広まる。もっとも、僕だけの話ではない。この田舎組織にいるすべての職員はそんな監視と管理の下で仕事をしている。
遠くで汽笛を聞きながら
そんな最初に配属された職場の雰囲気であつたが、臨時職員も含めると60人程にもなる大きな職場であったため、多くの普通の若者や普通の先輩達もおり、それなりに楽しく過ごせる部分も少なくなかった。
若者だけの集まりでは、徒党を組んでスキーやテニスやキャンプ等の泊まり掛けの旅行や、友達の家に押し掛けての麻雀、同時、流行った喫茶店でのテレビゲームで盛り上がった。
若者だけに、男女の惚れた晴れたの小競り合いはあるものの、玉石混淆のルーチン業務の大いなる気晴らしだ。
先輩から連れてかれたディスコでは、華やかなミラーボールの下で、日中は目立たない先輩達の華麗なダンスを隅で見ながら、これが大人の世界なのかともたじろいだ。ハロインカボチャとの論戦もそれなりな楽しんだが、そんな思想とかにはまったく関係のない、夜の華やぐ社交がこんな田舎街まで広がりをみせていたのだ。
サラリーで早速、車を買う奴、バイクを買う奴、夜の繁華街を毎晩飲み歩く奴。自分の働いた自分の金は大人に成った証のように、皆、自由に使っていた。
金で学業を断念し、やむ無く働いて得た金で、好きなことをして遊ぶことはできるが、学べる環境にはなかった。
鬱屈とした気持ちのまま、寝床で遠く列車汽笛を聞きながら、山の向こうのさらに向こうの都会の情景を思い浮かべた。
トンネルを抜けて
あれから三年後、僕は東京にいる。
県とのお付き合いで、急遽、県の東京事務に一名を穂高市からも県に職員を派遣することになりったものに希望したのだ。
東京事務所と言っても、県内の市町村のお上りさん的な、国会議員や省庁への陳情の手伝いの下働きで、県職員の人手が足らないから、応援職員が欲しいというものだ。
仕事は極めてロジスティックスなもので、今のところように、ネット予約やセット割り引きの商品が簡単に手続き出来るのとはちがい、国鉄切符やら、ホテルの手配やら、大臣や省庁部署への訪問約束どりなど、さしずめ官公庁への旅行手配と案内がほとんどの内容だった。
誰も好き好んで希望などしないから、希望者は僕一人であったらしく、あっさりと決まった。
僕にも魂胆があった。平行して東京の某大学の夜間部の入学することができ、なんとも簡単に、学問と収入の両方を確保することに成功した。
借家は解約し、東京でアパートを借りることにした。
但し、一点だけど禍根を残すこととなった。
当初から明瞭ではなかったのだが、町村の合併でようやく7万人そこそこの人口で、合併した隣町に工業団地があったせいもあり、やっと市として扱われてあたこの市には、派遣させるほどの職員の余裕など、始めからなかったのだ。
結局、後付けの決定ながら、希望した者が、その時に所属していた部署付けで派遣することとなった。つまり、僕の所属は実質一名の減員となった。
派遣を後押ししてくれていた課長も、予期せぬ事態に口をへの時に曲げた。当然、鼠男、むじな男、ハロインカボチャはじめ、こぞって愚痴が噴出した。
よくもあれだけの罵詈雑言を、平気で人に浴びせられるものだと感心した。要するに、一人減ることでルーチン業務の自分の仕事が増えるとの不平だ。東京まで引っ越して、誰も引き受けない仕事をやろうという気持ちを察するなど微塵もない。東京で遊んでくるのだとの陰口ばかりだ。
悪いが僕はあの人たちの二倍は仕事をこしなしている。ぺちゃくちゃと他愛もない話をしながらお茶している無駄な時間がどのくらいあるのかすら、あの人たちは分からないのだ。ルーチン業務だから極端な話、人手を半分にしても何ら支障などないのだが、労働組合が未だに強く、うるさいものだから、その部署からの派遣にされただけのようだ。もっと本来の仕事をしろよと言われているだけだ。僕は少しも負い目を感じず、悪いとも思わななかった。
とにかく、僕は大学生となることだけはひた隠して、平身低頭に謝り続け、なんとか、穂高市を抜け出した。
職員に採用されてからの学歴の追加など、制度的のは何の恩恵もないという公務員法のことなどは、誰よりも知っていた。ただ、僕は東京の空気に潜む日本の文化の香りと、学問が現在、どのようになっているのかを知りたかったたけだ。
あれだけの左系の焼跡と残骸はこのアジアの大都会に何かを残したのかを確かめたかったのだ。
一部の同僚だけが僕を祝福を持って僕を送り出してくれた。
東京へは鉄道の乗り継ぎ時間も合わせれば、ゆうに6時間はかかった。列車は安く乗れるいつものボックスシートの夜行列車だった。
閉塞と陰湿の村社会とは、束の間のお別れだ。
温床
東京での生活は単調なものだったが、かなりのハードなものだった。働きながら夜勉強することは、非常な困難を伴ったのだ。
単位制であるから一定の単位の蓄積は得られたが、およそ普通の学生の半分程度をこなすのが精一杯だ。
土日は仕事が無いものの、国会図書館もお役所休みで使用出来ず、肝心の東京事務所はお上りさんの夜のご案内までご丁寧に付いて回るなどの夜の残業はごまんとあり、そのため、受けたい講義は中途半端に中抜きとなった。
それでも、大学の講義の良さも無駄も十分に理解できた。講義など受けなくても、書籍があれば論理の思考など自分で出来るとも気が付いた。
優秀な教授など一握りだ。あとは、単なるやはりエスカレーターのサラリーマンで、論文一つでコネの教授会選考潜り抜け、または、ご用意学者として政治にすり寄り、現在の職を得た。縦社会に詰め込んだ村社会だ。穂高とどこが違う。
60年代70年代の政治的思想と行動はなんだったのだろう。あの頃と何が違う。
風の香り
東京の街並みはすべてが新鮮だった。露天のような高田馬場、池袋の連立するデパート、複雑な新宿駅構内、コマ劇場の華やかさと猥雑な歌舞伎町、安売りの電気店と寿司屋、薄暗いネオンの小さなカウンターだけのほっとするゴールデン街、罪悪感募る禁断の赤テント、粋な神楽坂の小路、自由にビデオを何回も見た岩波書店、古本屋街のカビの匂い、バリケードの面影もない水道橋の学生街、お茶の水のニコライ堂、盛の控えめな藪蕎麦、急な坂道続く湯島聖堂、戦後焼け跡香る御徒町アメ横、浮浪者の上野駅、高い上野の丼ぶりもの、泥臭い不忍池、広いだけの上野の森と博物館、狭い路地にある惣菜の谷中、荒川電鉄の心地よい揺れ。僕の周回コースだ。浅草には行かない。渋谷や青山にも行かない。東京の田舎街、三鷹、立川にも行かない。
仕事は霞ヶ関、赤坂プリンス、国会議員会館、砂防会館、半蔵門や麹町。お上りさんの市町村議員、県の部課長達を地元国会議員事務所や省庁の部長(局長には会えない)、担当部署に陳情するための案内、宿泊案内、隠れた昼食処の案内だ。当然、地元名産の高価なお土産の事前送付預かりも仕事だ。
ほぼ、接待に近いから、国会議員や省庁の部長の食のお好みや趣味や性格の調査も重要となってくる。省庁の予算編成時期には省庁の担当部署への夜食として、お上りさん達は、施設の厨房を借りて地元ならではの弁当を作りお届けする、それの手伝いまですることとなる。性格調査は鼠男の得意なネガティブな意味での調査とは、真逆の胡麻すりのための調査であるが、趣旨はさほど変わらない。
省庁の役人が、「あなたの町のあれは美味しいね」と誉めれば、一週間後にその役人はそれを手に入れることとなる。そんな仕組の競いあいのお手伝いだ。バカらしさも、過ぎれば相応に楽しめる。昼の仕事は生活のための仮の自分、そう割り切ることが必要だ。すべての仕事はそんなものだ。社会のために役に立っている生き甲斐を求めてとは綺麗ごとの理屈だ、まるで、発情を恋愛という言葉で置き換えるような。
置き換えは誰でもやっている無意識の行為だが、本当は置き換えの意味の理解において、個々に大きな違いがある。違いこそが人格の違いだ。
抑圧の委譲
この東京での僕の生活は大変貴重なものであった。上司である県の職員も極めて優秀なインテリジェンス溢れる方で、お世話ななるとともに様々なことも教わった。ロジスティックスだけの仕事であったならば、とっくに飽きてくるところだが、その裏側に潜む関係を、紐解きある時は紐付きし、ある時は絡める、そんな物の見方と操作により、地味な単純化さを分析することはよろこびでもあった。
地元の国会議員も国のお役人も親切な方々ばかりだ。もっとも、これは立場の余裕と私のぺいぺいの立場への無警戒と、地元と繋がるための体裁もあってのことだが、非常に紳士的な言動だ。
立場の余裕に比較して、その末端にある事務の態度はお世辞にも立派ななものではなかった。
当時の郵便局や国鉄の窓口の応対の悪さと同様だ。議員会館の受付から議員事務所へと内線で繋いでもらうにも、数回の喧嘩ごしのやり取りが普通だ。建設省の警備員とのいつもの小競り合いも慣れて来ればそれが当たり前となった。忠実に守る規則と厳しい管理と自己保身、公務員の姿は末端に行くほど融通が効かなくなる。戦争中の軍隊組織、穂高にいる鼠男、むじな男、ハロインカボチャ、皆同じように思えた。抑圧の委譲だ。
夢の中
東京での思い出は楽しい思い出だけだ。
「実存は本質に先立つ」自己投機の矛先は自己の内部世界、心の弁証法のみに使用した。
活動し生きる生身の自分は、普通に生活し、仕事をする普通の労働者とした。普通に居られることが寧ろ目標だ。
当時のフォークソングも聞かなかった。僕の生活はギターを持って歌い、その慎ましい生活を美化するほどにも豊かではなかった。
逆にたくましく活動し、成長していくこの東京の雑多で多様性が広すぎる街の姿を、良家のお嬢様が爽やかに綺麗に澄んだ感性で洗い流してくれるユーミンの音楽を好んだ。
誘われて行った、当時の流行の最先端となる苗場へのスキー行は圧巻だった。そこで行われるユーミンのコンサート。憧れたスキーワールドカップが行われた起伏の斜面。ユーミンを通せば、世界はどんな風景も美しい広がりを持った夢の中の音楽。
あの頃、まだ、夢の国、ディズニーランドは開園してなかった。
高速道路もユーミンの唄った中央フリーウェイの他は数本あるだけ。何のことはない雨の中央高速も、ユーミンを聞きながら走れば、競馬場もビール工場も、夢の夜空の世界となった。
ただ、あの頃、見向きもそなかった音楽が、この頃、やけに気になる。周囲の友達が夢中に成っていた曲だ。あの派手な音楽を聞いていた、友のことを思い出すからかもしれない。めざせモスクワ、タンシングクイーン、カントリーロード、ホテルカリフォルニア。
やがて、日本列島改造は進み、上越や東北へも新幹線は繋がり、人と物の流通と交流は地方を無限に変えていくのではと思わせた懐かしい時代だ。バブル経済前段の静かな、共通の希望のように思えた。
銀座
僕は薄暗い小さなステージで唄う金子由加利に聞き入っている。少しだけ、イラついていた。前の人の後頭部が邪魔になり安定した視界を得るのが難しいのだ。ワンドリンク付きの入れ替え制のライブハウスだ。
聞屋の友達の誘いに乗って、僕は銀座の銀巴里に来ていた。銀座などは到底縁がないものと思っていた。夜の金曜日のプロレス中継のコマーシャルとして、銀座の丸いビルの鮮やかなネオンしか知らなかった。来て見ると、驚くような通りでもなく、普段着のおば様方も沢山いた。ただ、やはり、着飾った振り向い欲しい後ろ姿の銀座の女ののように洗礼されたファッションも沢山見かける。
銀座のデパートも地方にあるフロアーバージョンであり、売り子も地方と変わらないと思った。銀座のデパートの包み紙が、銀座で買ったあんパンが、銀座で食べたカレーライスが、銀座ということだけのステータスを持ち、虚栄心をくすぐるのだろう。
銀巴里に入るまでには随分と時間がかかった。並んででから1時間たっても、銀巴里の開場を待つ人の列が、狭い歩道からはみ出し、延々と曲がりくねって続いていた。
金子由加利の唄は心に滲みた。狭い空間の薄暗い部屋で、そう強くないスポットライトを浴びて唄うってこそ金子由加利だと感じた。大きなステージでは活きてこない。巧さや下手の問題出ない。ジャズのように、会場と一体となり表現される芸術の分野と言うことだ。
銀巴里の帰りに、さらに聞屋の友はルパンに誘った。さすがに高級クラブはないが、ルパンは銀座では僕の好きなカウンターバーだ。どこかゴールデン街にも通じる戦後の雰囲気だ。
カウンターの奥には見たことのある写真が掲げてある。知られた太宰の気取ったポーズだ。女にだらしない太宰は嫌いだか、気取った粋な太宰と酔って喧嘩するような太宰は好きだ。
どこに行くにも仕事以外も、僕は上下の背広を着ていた。ファッションなど着るものも、まったく興味がなかった。興味を持つほどの経済的な余力もなかったのだ。
銀座も銀巴里もルパンも背広で通した。上着を肩にかけて椅子に堅を挙げて太宰のポーズを取るとイイナと聞屋は褒めてくれた。
「クライウチハホロビナイ アカルサハホロビノショウチョウデアロウカ」
「そうだな」と聞屋は言った。
路地
高速道路から蓋をかけられたような重苦しい日本橋の姿は無残だった。かつてのお江戸日本橋の面影はなかった。オリンピックがらみの急こしらえの都市計画とはいえ、大空襲により焼け野原となった日本の大規模な都市改造が成されれば、東京の姿は大分違ったものになっていただろう。占領政策というよりは、敗戦国への制裁として許されなかった。
しかし、四角四面に整った華やかな味気ない街のニューヨーク、バルコニーの位置も外壁の色も強制的に指定された人工構築のパリとは違った、自由に生きて伸びる木の根っこのような逞しいアジアン都市の魅力を産んだ。小さな路地の組み合わせや交錯する線路、蟻の巣のように地下に張りめぐらされた地下鉄。
さらに、ヨーロッパの中世都市ような屋根瓦の色の統一景観もなければ、道路にはネパールのように無造作に伸びる電信柱が窓からの景観を奪う。
日本文化の実質的、精神的な伝承となった寺院は無造作に都市機能の中に埋もれている。
これが、日本だと思う。これを誇っていいのだと思った。
富士山や悪き江戸文化の芸者や舞子などよりは、そこで生活し、復興し続ける日本そのものが文化といっていい。
東京にある小さな路地の坂道や階段の何と数多いことか。僕は東京で仕事をした6年間、歌舞伎座やコンサートなどにはほとんど行かなかった。僕の東京の最大の魅力は路地にあった。休み日は背広で路地を隅々まで歩くことが、僕の趣味であり楽しみだった。
武器よさらば
県の出先での仕事と大学生という二足のわらじで過ごし、東京について、結局は日本についての僕なりの理解が進んだ。
およそ明治から100年、大陸に陸軍が進攻し、226事件から50年、戦後40年。そんな月日が経過していた。たいそうな月日のようでも考えてみれば僅かな月日だ。人の人生の1.5倍、下手すれば人生生まれてから死ぬまでの時間に、物凄い世界のそして日本の歴史の大転換を経たのだから。
左右の帝国主義価値観と人種差別的な価値観とがこれほどに短期間に成された歴史はこれまであっただろうか。
この歴史的な世界の転換の空気の中で、発狂することもなく、淡々と黙って順応し、生活してきた人々こそ根なし草の魂であり、畏れるべき存在であり、畏れる必要もない普通の庶民の生命力なのだ。
無条件とはいえ鬼畜と言っていた占領軍を迎入れ、中には国内の抑圧からの解放と解釈した。
もっとも226の目指した純粋な憂国の革命をいとも簡単に実施した。
310の非人道的的大空襲も原爆投下も不問に付し、軍隊内部の非業も抑圧の委譲そのものを利用されての責任となり、戦ってきた相手から解放されて、明るい街々に人々は溢れた。
与えらた武器により民主主義と自由を謳歌した。戦って負けなかったなら得られなかった武器てあり、戦って勝っていても得られなかった武器だ。
勝手に与えられた武器は明確な取り扱い説明書付きだ。国家を分断しない変わりの、そして、対立をひとつに絞らせないための安全な武器。
知識人も含めて、それぞれの陣営で論争を対立するも、手の込んだ策略の檻の中での揉め事の過ぎない。
国会を取り囲み、このエネルギーがなんともならない、と叫ぼうとも、はじめからなんともならないようになっていただけだ。
学生の運動も、待遇改善は待遇改善要求に留めておけばいい話しだった。バブルの踊る時代と変わらない。
1Q84
東京への出向は、1Q84を挟んだ6年間であっさり終わった。内緒の夜していた大学の卒業と同じくして、穂高に帰る辞令が出された。
片田舎者にとっては華の都だった。見るものすべてか新鮮だった。
東京は田舎者の集まりだとはよく言われていたことだが、僕はそうは思わなかった。
東京という田舎だと思った。グローバルなのは一部の人たちで、ほとんどは下町という田舎であり、江戸に近い集落が、人口増加に飲み込まれ、自然に集落が繋がり、大きくなって行っただけの街だ。
しかし、歴然に江戸と地方には制度的にも文化的にも大きく違う。何より莫大な軍事力を持つ中央集権国家の拠点のその周辺であるというだけで、文化も生活も情報も意志も発信される点で、江戸は江戸であり、江戸のままに政権は代わり、江戸は東京に姿を変えた。
変わらぬ田舎としても、表面の憧れは今も昔も文化に向けられる。江戸の文化は歌舞伎を筆頭に、地方には憧れであった。山間の村に伝承される歌舞伎の数々は、江戸の文化を村に持ち帰り、必死で娯楽を伝えたのだ。
戦後、組織や会社に村を閉じ込め、村は村でそのまま残る姿は東京でも同じように感じる。
縦関係を色濃く残す閉鎖社会に加え、水平的にも無意識に縦社会が交差しながら自然に形成されている。伝統というサロン、富める者のサロン、プチブルジョアのサロン、知的サロン、貧しい者の集まり。それぞれの見えない水平社会があり、そこにも縦社会を築き、やっと人並みの暮らしができるようになった者達は、中流階級などという幻想に酔ってさ迷い、消費に走る。
僕はどうしようもない憧れた東京に残ることはせず、どうしようもない愛すべき穂高に戻ることにした。
なめくじ男
その男はナメクジのように体をヌメヌメとさせながら、分厚い書類を直しては戻し直しては戻すを繰り返している。鉛筆を動かすのと、コーヒーを口に運び、如何にも不味そうに口に含んでは、口の中で転がして飲み込む。
また、徐に机の上の灰皿に一杯になった煙草の吸殻の空きスペースに灰を丁寧に払っては口に運ぶ。
この一連の動作で、この男のひもすがらの一日が過ぎていった。
これだけではなく、さらに、毎日のように夜の10時、それは市役所の守衛さんの夜勤当番との入れ替えの時間で、一斉に一度は消灯されるじかんであるのだか、決まってその時間までヌメヌメとした同じ動作で過ごすのたった。
このナメクジ男とは僕の職場の一応の先輩となる。
僕は、東京への出向が解けて、穂高市役所に戻っていたのだか、その配属先はこのプラント建設準備室であった。
事務屋である僕には専門分野のプラントではあったが、起債や補助金の申請や適正な業者の選定等、事務的な分野もあったのだ。
専門分野であるプラントの性能については、ナメクジ男が全てを掌握していた。もっと詳しく言えば、この男以外、分からないように仕組まれていた。この男は専門家とはいえ、さほど優秀な類いではないのだが、業務を独占するような秘密主義と、この男の採用経過から、この男に任されているかのような空気が支配していた。
男は特別な採用枠、言わばトップダウンのコネ採用で、年度途中の募集期間も方法もわからないように公募し、形だけの試験により入ってきたのだった。募集人員は一人だけ、採用も一人。この男でなくても、自分は特別な扱いだと勘違いし、周知にもそう思わせるには十番な背景があった。
バッタ男
いくつかのグループに別れてあるプラント建設のセクションのひとつに、庶務担当があった。隣の机の島の係長は、課長も凌ぐと誤解されているこのナメクジ男の見かけの権力に、いつも、モソモソと寄り添い、媚びを見せている。
頭はてっぺんまで禿げ、僅かに残る落武者ような裾の髪の毛は短く白かった。頬はこけ、毎晩、穂高市役所の周囲にある歓楽街を飲み歩いていた。親父はかって隆盛を誇った町の電気屋で、今では郊外の量販店が幅を利かせているが、当時の三種の神器を、メーカーからの中卸売りとして小売りを束ねて濡れ手に粟であったらしい。
今では、財を夜の店に貢ながらも、ぼそぼそと贅沢を繰り返している。
禿げた細く長い顔の男が媚びる姿はバッタのように人間味が感じられなかった。
このバッタ男の方がナメクジ男よりも年上であったが、しつこく付きまとう夜の遊びのお誘いの効果はてきめんで、高飛車なプライド高いナメクジ男もバッタ男にはさん付けの猫なで声で答えている。
なんとも気持ち悪い関係で、それ系の奴らかといぶかしげに見られていた。それでも、バッタ男はナメクジ男を盾にして、少し肩を揺らして歩くのだった。
こうした男色の関係のようなマンツーマンの関係は、至るところで見受けられた。狭い範囲で、そう、このセクション内にすら複数あったのだ。
それでも、以前、最初に配属された5人組監視コミュニティよりは少しはましなようだ。
ただ、それなりに不快感は増していくものだ。
猪豚
役所のコミュニティとは制度と同類のお友達間の力学が自然に作り出す関係と政治にすり寄る茶坊主とで形成されている。
なんと血族の多いことか、なんと職員どうしの結婚の多いことか、なんと親子の多いことか。なんと託された繋ぎの多いことか。
猪豚のような課長は、既に退職したが、若い頃に世話になった先輩であるコネ採用の息子に対しては、ただならぬえこひきの仕事采配を他の目を憚ることなく平気でやり、遠慮するそぶりは微塵もない。
それで予算が付き、慰安のような出張旅行が決まり、能力としての評価も決まる。
役所に優秀な人材を求めることや育てることなど期待できるはずがない。はなっから問題外だ。
収賄
1980年代、あの時代の公共工事の入札は、さすがに特定の部署で一括担当し、入札執行していたものの、指名競争入札が中心であり、何十億もの工事費の事案であっても、実質的な指名業者の選定は担当課で行っており、縦の決裁を秘密裏に行うものだった。秘密裏と言えども、ほとんどは筒抜けであり、筒抜けなのは庁舎内の組織だけではなく、当然、業者にもバレバレだった。
どこにそんなからくりがあるのかは分からなかったが、一体となった業界が決めた業者に行政が落札させる暗黙の又はあからさまなルールがあり、如何におかしい決まりでも、それに反することこそが掟破りの悪行であった。
僕は、当然、プラント建設の業者選定に当たっては、実績や会社経営状況を調査して、適切に選定をしていたのだか、決裁の途中で戻され、何故か起案者は担当である僕から、突然、業者と接点が多く、出張のホテル、交通費、はたまた夫婦で旅費を出してもらいながら、プラント技術を検証していたナメクジ男に代わることになった。
業者の選定に代わりはなかったようだが、ただ、鶴の一声で、実績も技術もない小さな東京の無名業者一社の追加がなされていた。
薄々は不穏な動きが気になってはいたが、僕の目の前でそのような事が本当に起こっていることに愕然とした。
さらに、あろうことに、追加された見知らぬ業者が入札の結果、プラント建設事業を落札していた。
僕は翌年、その部署から異動する。そのことは忘れた。誰もがおかしいと思いながらも深入りしたくなかった。まったく僕も同じだったから、異動は幸運だった。
それから数ヶ月たって、事件は起きた。市長と側近の部長、猪豚課長にナメクジ男が逮捕された。収賄だった。
僕も警察に呼び出され、事情を聴かれたが、僕には何の後ろめたいところはなく、何も知らず、何も咎めを受けることはなかった。
逮捕された四人は有罪となり市長は辞職、職員は懲戒免職となった。
あのまま、あの世界に居続ければ、僕も感覚が麻痺するかも知れなかった。誰もが流れに流される。流れに竿を差すような者は排除されるが、流される者の行き先もまた、排除の道だ。
バブル
1990年代初頭、僕は市制施行30年の記念事業の担当部署にいる。穂高市役所は戦後の合併により、小さな町同士が利害を調整して、無理矢理に何とか合併して出来た市で、生まれたから間もない。
全国津々浦々では、バブルの追い風を受けて、派手なイベントが当たり前のように開催されていた。
横浜博覧会の糸井重里の「2年待て」は横浜博覧会の開催2年前のコピーだ。松江市のお菓子博覧会等もこの頃だ。
バブルの追い風は国をも惑わす。そもそものバブルの発端も国際的な合意とはいえ、それに伴う金融政策の過ちだ。
郵便や年金の大量の資金は、じゃぶじゃぶと市井に溢れだし、カンポの宿やグリーンピア等、一市民にも手の届く夢のようなステイリゾートが出現した。
土地の高騰を招き、ゴルフ会員権は投資の対象として、うなぎ登りに上がり出す。
この実態とはかけ離れた経済のまやかしを上手く売り逃げ又は利用し、後に笑う者、踊らされて泣く者、様々なドラマが展開された。
穂高市も地方創世1億円に舞い上がり、宝くじを買い続けるような愚かさはなかったにしろ、大きな市の100周年事業に張り合うように、30周年事業に、無駄金と無駄な人件費を費やした。勿論、無駄な人件費の一部は僕の懐に入った。
当時は、こんな記念事業を持ち上げて、「市民は娯楽に飢えている。毎年やるべきだ」と言い出す市議会議員まで現れた。政策ではない、市役所はお祭り屋となった。
猪八戒
いくらバブルの恩恵があるとはいえ、もっと堅実な予算執行が出来なかったのであろうかと思った。日本国中にはこの浮かれを真剣に心配する者はいなかった。少なくとも、穂高市役所にはいない。
一つの記念イベントをやればいいものを、市民から公募し集めた玉石混淆のアイデアを総て実施すると決定していた。愚かな判断だった。
市民の思い出となるタイムカプセルの埋設などは小学校の卒業生がよくやっているが、一人前の大人が公費で楽しそうに埋める姿は滑稽の映った。30周年記念だから30年後に掘り起こすとされていたが、担当課長が退職するときに勝手に掘り起こしていたのだから興ざめも甚だしい。
他の行事についても、町内会や農業青年部のイベント程度のもので思い出すものもない。
大きな目玉的な記念事業は、屋台博覧会だ。リヤカーで引く屋台からお祭りの夜店のテントからのラーメンからもんじゃ焼きから団子から海鮮どんぶりからの食べ物など、さしずめ上野のアメ横の戦後バージョンの何でもありだ。地元の野菜や果物、一銭店のアタリくじ、数日の夜祭りなら楽しいものだ。
しかし、当時、お化け会社として東京のマスコミから旅行、広告を牛耳る大手イベント会社は、一月実施すると言う。持たないよ、興味も人も出展する店の側も、誰もがそう思ったが強行された。
大手とは言え、一人のディレクターのみがその会社の者であり、細々の企画の機動部隊は総て複数の小さな下請け会社だ。それが、どうしようもないような連中の集まりで、委託費を払うのも躊躇うような仕事振りばかりだ。結局、大事なとこは市役所職員が手掛け、あとはこの連中の尻拭いばかりだ。
さすがに議会は東京の業者に穂高市の税金を持っていかれることに異議が唱えるものがいたが、東京だから間違いないとの田舎者の引け目が仇になったのだ。
何とか、このイベントの収支はトントンで、赤字にはならなかったのが救いだった。
課長の猪八戒はこの30周年のプロジェクトをまともに指揮することはなかったが、明らかな失敗でもなかったため、目先の論功行賞の優遇を受けたようだ。仕事もせずに、座ったまま軍艦雑誌を見てれば自然にこうなるか、なにもしないことがいいとはと周囲は自嘲するとともにこの体質を嘲笑った。
高慢とうつせみ
1990年代、元号も平成となる。例の小淵官房長官の色紙を掲げるテレビと会見が物凄い印象で記憶に残る。
僕は、穂高市役所の観光振興の担当に付いていた。穂高市にはさほど全国に誇れる立派な観光地らしきものはない。
今でこそ寂れた温泉や何のことはないちんけなビューエリアやパワースポットとして狭くなった日本の隅々の隠れた観光地の掘り起こしで賑わっているが、あの頃は、煙たなびく火山の近くまで続くスキー場が人気で、スキー客は雨後の筍の如くどこからともなく涌き出て来るため、旅館やスキー場の整備と拡張におわれていた。
スキー場は全山を滑走出来るパウダースノーで玄人好みであった。外国からのインバウンドはまだやってこないが、外国人を当てにしなくても観光地としては何一つ困ることなく、乗じて増えていった新しい旅館も含めて、高飛車な客扱いで、そらに、どこの旅館でも同じ、通り一編の手抜きの豚肉料理サービスは不味く、ご飯も素人焚きでかたく、サービスは最低だった。
それでも雪だけは良かったから、騙された一見さんやこれを分かっている泊まらないただ滑りに来るだけのスキー狂で、観光客は黙っても増えていった。
料理の親父も仲居も従業員もリフト乗り場の案内人まで、おもてなしの気持ちなど、微塵もないところだ。
後にスキーブームが過ぎ去ると、散々儲けて豪遊していた奴等が、行政に泣きつきはじめ、さらにエスカレートして行政は何をやってると凄み、ごね始める。
同じような体質は、大分後の話になるが、大店法により街中の商業施設が寂れた始めた時も、肩で風切り足元を見ながらの殿様商売人立ち上げも、皆、おなじたった。
お前らの経営能力、お前らの時代の潮流の読みが低いだけたろう、そう、言いたかったが、そうは言えないのが公務員で、腹とは違った丁寧な善処の姿勢と応対を砂を噛むように繰り返すのだった。
当然、職員の中にはこれらに乗っかり、よいしょして取り入り、政治的な懐に入っていく奴等も沢山いて、宦官のように市長と業界の風見鶏となり、大したものだと思う者も、あそこまでして偉くは成りたくないと自己を保つも者、様々な様子があった。
僕は当然、自己を保つ側にいた。
腹立たしいのは、以前、話したハロインカボチャの左翼だった仲間も、灰色の季節は終わったとばかりに、手のひら返しの極端な権力追随になったことだ。
左翼が善だとは最初から思ってはいないが、これ程までに俗だとは思わなかった。そう、はっきり言えば、左翼を名乗った奴等は俗のなかの俗にすぎなかった。
山から這い出てきたような、人を見定める猿男、川から少しずつ知られないように街側にずれこむハイエナ男、人を蹴落として裏切るマントヒヒ男、声の潰れたがま男、一見外面のいい腹黒の禿鷹男。団塊の世代の左翼ノスタルジアに浸っている男達の実態は、美しい過去ではなく、希望でもなく、姿のように醜くかったことを忘れてはいけない。
群がる群れ
1980年代から1990年代にかけては、東北などの片田舎にも高速道路がはり巡らされ、東京への往き来も便利になっていたにも関わらず、穂高市への高速道路の整備は未だ途中のままで、物流的にも文化的にも大変な遅れを取っていた。
高速道路による都市圏との便利さにより、穂高市がひなびたレトロの街として、マニアックな観光地に斜陽の錆びた光が差し込み出すのは2000年のミレニアムを大きく過ぎるまで待たなくてはらならなかった。
一方、新幹線は比較的早期に運行されたものの、これまでの人と物の動線を大きく変えることとになった。
新幹線の駅からやや遠い穂高のスキー場は、JRとなった鉄道の集客策として設けられた隣の大きなスキー場のための駅のため、最初は相乗効果と呑気に構えていたが、遅れてきたバブルの崩壊の影響をもろに受け、落陽の如く見る間に没落する。
環境問題の解決をはるかに通り越し、土木業界の安定した興産事業と化した下水道事業は、建設省の肝いりによる予算確保のため、国会議員、地元の首長、地元の民が一体となって、毎年、定期的に請願するという最後の地元の還元ドル箱事業だ。
以前に東京事務所に居てお上り役人のガイドをしていた時とは桁違いの補助金と工事発注が、湯水の如く流れ込んだ。
バブルの冷え込みをまともに受けていた穂高市役所は、唯一、貧乏人にも進んで分け与えられるこの事業に目の色を変えて飛び込んだ。
衰退から逃れるための、やむ無き選択だ。
高い補助金と高い割合の起債許可により、手元金は僅かに5パーセントしかなくても、大きな工事をどんどん進めることができた。
街の建設業は潤った。市長も誇らしげに成功をアピールした。
錬金術と見間違ったのだろう。起債とは返さなくてはならない借金だ。後世のことを省みない無責任な行政はこんな風にして始まる。付けは市民が払うのだ。
擬態
1995年の神戸の大震災とオウムによる地下鉄サリンは衝撃的な事件だった。
何度か出張で神戸には出向く機会があった。普通に商店街で蜂鳥がプランターの花に群がる姿は、日本にいての異国情緒を味わうの十分で、高台の異人館からの海を見下ろす眺望は、当時の外国人の望郷の念に想いを馳せた。
地下鉄サリン事件については、東京事務所にいた頃によく利用する路線であった。
どちらも、美しい思い出の場所であるだけに、胸が傷んだ。
そんな時期に、僕は土木部の財務セクションにいた。
国の政下水道策による下水道の起債による借金は、地方自治区の一般会計予算の借金と同額に、なる程に膨らんでいた。
何らかの手立てが必要なのは明らかなでありながら、誰もが止めることのできない流れにあった。
バブル経済、護送船団、大政翼賛、何もかも、おなじたった。
財務セクションのトップは本来、事務職が成るべきであったろうに、いとめを着けない予算措置を狙った動きは、計画セクション同様に、土木職のトップであったことが、大きな過ちをさらに深くすることになった。
しかも、課長は、やはり、お友達お手盛り采配そのもので、僕ら異議を唱える事務職を煙たがった。
僕は事務職ではあり、土木部門の方々は一味違った。
この人たちは何でこんなに女に弱いのだろうと思った。猫にマタタビと同じだ。規律を越えてだらしなく、規律を越えて甘い。その延長のように、経営にもどうしようもない甘さが発生した。
猿女
そのいつも眉間に縦軸のシワを付けた40歳をやや越えた女は、僕より年が少しだけ上だった。
そんなこともあり、異常な位に高いプライドを持つ彼女は僕からの指示を嫌った。
若い頃は恐らくかなりの美人だったのだろう。別に素晴らしい体を持っている訳でもないが、若いということだけで、周囲の男どもからチヤホヤされてきたことは、その配慮のなさから十分に想像できた。
地方の中心都市にある進学校から、東京の少し有名名門三流短大を卒業してきたという、お嬢様だという演出を未だに続け、自分一人で満足している。
大して頭もよくなかったのだが、神経からくるつ不要なまらない自分基準によるチェックの細やかさ頭が良いと思い込んでいる。
このままならば、ただの、昔でいう腐ればばあとなるところだが、幸いにして結婚して子供もいた。周囲への敵意むき出しの攻撃的な態度とは裏腹に、息子には異常な愛情を注いでいるらしい。娘には真逆に異常に厳しい。
職場でも同じだ。
女性には、特に年下には必要以上に固執した嫌がらせのような厳しさであたり、自分にマウントを取らせて気を使う同僚にだけは優しく、力を持っている年上の女には極端な猫なで声で猿のように媚びを売った。
まるで、彼女だけ猿山の猿だった。周囲は彼女は猿と思って当たり障りのないように接した。
毎朝、出勤時間に遅れて来ながらも、悪びれたところはなく、注意しても、ハイハイと毎日、受け流す。技術の課長も知らない振りだ。
同じ年の臨時職員の子女に対して、無断の休みだと勘違いするほど遅れてきた彼女は、つかつかと重役出勤して、自席付くなり、臨時職員の子女に「私のお茶ない」とラーメンの注文のように要求する。
朝のお茶だしは女性の役割などと言う暗黙の了解があり、しかも、お茶だしのための臨時職員がいた。同じ女性同士は、その事を気の毒に想い、手伝いをするのが一般的だったが、真逆な要求だ。
そのくせに、女性の地位向上などの労働組合のアジテーションに乗っかり、もっと平等をと叫んでいる。
なんのことはない。この女は、あの、どうしようもないハロインカボチャどもの残党であり仲間だ。
「あの女はかわいくないから、あの女の消耗品の購入は一番最後、1ヶ月かかるなあ」そんなことを平気で言い、実行する。
サイコパスだ。簡単に誰もが分かった。
しかし、こんなに性格は極端悪く、毎晩の酒でやはや腹の出っ張りを気にしているような、ナイスバデイでもない女にも、生物的な僅かなヘロモンをかぎ分けて、機嫌を取って近づいてくるような男どももいるのだ。
ハロインカボチャどもだ。
時代背景
労働組合が主催する会合の後のゲームに「力関係ゲーム」等とふざけた名前のゲームがあった。
なんのことはない、綱引きや腕相撲のことだ。労使交渉も色々な形の力で決まることの愚かな教条主義のだ。
マルクス主義に端を発し、戦後に与えられ拡大した労働運動は、政治活動と一体となって、国政の半分近くの国会議員をおくりだし、隆盛を極めていた。
総評から連合へと代わり、その後の政治変遷をも踏まえた惨憺たる政治状況と労働組合活動の衰退からは想像すらできない。
1980年代の労働組合事務所に掲げられた、3枚の写真は、脇腹が痛むような思想崇拝の偏見を示していた。
マルクス、エンゲルス、レーニン。現在の他国の個人崇拝を笑うことはできない。僅かに40年前の日本とは、そんなものだったのだから。
誰の考えと指示でそうなるのかは分からないが、少なくとも、市井に出回る総合雑誌の論調などに合わせて、レーニンがしらぬ間に取り外され2人の写真額だけとなった。マルクス主義を歪めたのはレーニンの解釈が謝ったから、そんな論調が日本でも行き渡った。
また、しらぬ間にエンゲルスが取り外され、最後のマルクスもしらぬ間に消え去った。
思想の愚かな個人崇拝が少なくとも労働組合活動から、あからさまで無くなるまでには、1990年代までの歳月を必要としていた。
戦後40以上も経過していたが、他国を笑えないような、ブランドのバッタもん、思想のバッタもんは日本に溢れていた。
2000年のミレニアムが目前でありながらも、それまでの時代の弊害は、社会の、組織の
人々の、すべての分野にヒタヒタと浸透し、抜けきらない。
猿女に対する土木のすり寄りは、腐れかけが旨いフェロモンの好きだけではなく、以上の事情も大きかった。
無能ひいき
さらに加えて、この猿女には、「私のほうが力がある」と、いつも誰に対しても、はっきりと、あるときは暗黙に、自分を誇示する要因があった。
猿女の旦那の兄貴は穂高市議会議員てあり、労働系からの選出であり、なおかつ、市長も労働系であるため、市では与党であり所謂重鎮であった。
この猿女の女帝気取りは、限度を知らない程に爆走す、誰もが止めることができない。
マネージャーも課長もが、定期的に猿女の機嫌を取りに席までやってくる。
あばた花
「私は人より昇任は早い」と猿女は鼻にかけていた。明らかな実態を伴わない優遇がなされており、その事に竿を差すことは出来なかった。
トップマネージャーが
「今日はきれいだね」
「いやだぁ、役所の女子高の同窓会で、先輩である奥さんから教えてもらったせいですよ、先輩のように頑張ってます」
と、歯の浮いた会話が終わったあとに、気に入らない若い職員をつかまえては、
「やり直し」と説明もなく書類を投げる。
逆に、イケメンの若い男には、
「どのペンが書きやすい」と近づく。
直上の上司以外は皆して、消えてくれと願っていた。仕事の足しにならなかった、いないほうが、仕事がはかどるのだ。
しかし、コネクションと腐れフェロモンという二つの要素は現場労働にとっては最高の取り合わせであるということは、不可思議であり、驚きであった。
直接、利害や仕事の関係が伴わないところの近くのセクションにいる鴨鍋の料理は、作る食べる、両方からの好都合というわけだ。
仕事の最中に、セクションマネージャーに了解なく、猿女を数人して現場に連れ出し、案内と称して現場ではしゃぎ、隣の街まで食事に行って、夕方帰って、楽しかったとは、係長も一緒になっており、情けない話で、さすがに、現場を請け負う業者からの問合せで発覚し、注意を受けたが、それも形ばかりのものであった。
猿女は、今度そのことすらを、義理の兄貴の議長を使って、クレームを入れ、マネージャーをたじたじとさせ困らせる。
マネージャーはまた、猿女に出向いて機嫌をとる。この繰り返しだ。
手玉に取られる無能なマネージャー、手玉に取らていることも、その結果、自分を落としていることにも気づかない。
労働組合の目的なき見当はずれの介入。遅れてきたバブルの、あばた花が金と権力とでそちこちに咲き乱れた。
諦念
猿女から手玉に取られるような奴らのやる仕事など、知れたものだ。
セクションマネージャーに至っては、理屈すら支離滅裂だ。仕事もそれを潤滑するための親睦も能力不足の連中だ。
セクションマネージャーが、猿女が異動してきた歓迎会で、セクションマネージャーにあの時代はまだ税率も高く、値段も質も最高級のウイスキーをねだった。何人分もの宴会代になるウイスキーを、幹事は経費的に無理だと断ったそうだ。セクションマネージャーはそれなりに威張っていても、自分では支払えない所詮は安月給だ。なにを指示でしたかと言えば、不足する親睦会費からの付け払いを単独で了承させ、それを手柄にしているとか。そんな話を同僚から聞かされた。
年功序列以上に、政治的な駆け引きと政治な媚びが支配するとは言え、情けなさにも程がある。
ミレニアム
小さい頃に見たテレビドラマの中での看護婦に対するセリフが頭に残っていた。なんたる差別意識だと憤りも感じながら。
中学の頃に総合病院の歯医に行った時、看護婦から診察を受ける前に「歯は磨いてきた」とぶっきらぼうに聞かれたため、しっかりと磨いて臨んだ僕は「ハイ」と返事をした。
その瞬間、その看護婦は「臭い、もっと磨いてこい」と言い捨てた。
学生とは言え患者だ、こちらは。なんだ、こいつらは、そう思った。
また、同じ病院に風邪でかかった時の内科の看護婦は。待合室にいる知的障害施設からの患者に対して、それを知っていながら、その患者に向かって、薄笑いを浮かべながらいかにも見下すような姿勢で「はい、つぎ、その馬鹿、入って」と言った。
職業は愚か、人間としても、こいつらはやはり最低の奴らなのかと、テレビドラマのシーンを思い出した。
当時の公的病院のサラリーマンは医師も含めてやる気のない型通りの診察と態度が普通だった。
医師は大人に対しても学校先生のように絶対で高圧的な態度が許され、大人も「先生、先生‥」と持ち上げた。サービス業務の意識はない。
医療はサービス業だと厚生省が白書で宣言するまでには、国鉄民営化等も含めた大きな時代の流れを必要とした。
ミレニアム問題として、システムから表示される年代のエラーが及ぼす影響がわからないと、大分騒がれていた頃、僕は、赤字のための経営再建が絶対的な課題となった公立病院に配属された。
毬栗
毬栗は今日もウトウトと居眠りをしている。公立病院の事務セクションのヘッドの一人ながらも、日頃からなにもすることがない。せいぜい、早朝に出勤しては、施設の回りの草取りをしては、一日が終わる。経営の建て直しの大事があるのだか、部下に丸投げで財務の見方すら覚えようともしない。
病院内では経営の他にも様々な事件が毎日のように起こるが、決まって「俺、知~らない」とあからさまに言う。
その癖に、もうひとつの口癖の「俺の権限だ」といいながら、気に入らない奴を悪し様に罵倒する。しかし、その時ですら、考え方の間違ってるのは毬栗なのだ。
皆、仕事は毬栗を体よく無視して進める。やはり、いないほうが組織的に効率がいい。
経営は、病院のトップは医師であるとしても、医師は経営の訓練をしては来てない。ついでに、指揮命令の組織運営についても。医師は病院においては絶対の存在だ。医師が居なければ、薬剤師も看護婦も検査技師もなにもすることができない。しかし、君臨する横暴な医師の多さに、不満が溜まる。不満は往々にして事務処理側に向けられる。
僕は、その向けられた不満を爆破するように対応する。それまでの事務員では考えられなかったように。しかし、爆破は医師に対しても、毬栗に対しても、共産的な労働組合の対しても同じように仕掛けた。
労働組合主催の職場旅行や職場での宴会などは、いきあいあいと医師、看護婦は羽目を外して心配するほどに騒いでいるが、見掛けだけの仲間で、実のところは、それぞれの不満は常に立ち向かう必要のない、当たり障りないところにこそ向けられた。
医師は医師であることに、並々ならぬステータスを持つ。愚かな医師だけがそれを常に外に誇示するように表現する。多くの世間体を感じることができる医師は丁寧だ。しかし、根底のプライドは、やぶ医師でも強く持っているものだ。
経営の改善などと叫ばれ、議会も赤字が続くならば民営化だと脅しをかける。愚かな事務方もそれになびく。
そもそも、病院の歴史や変遷を知らない議員や人々が、流行りとなった民営化を唱える。
田舎町になんとか病院をとの思いで個人医師が造った病院は、経営が困難となり廃業するとなったものを、病院を無くす訳には行かないと町が買い上げ、存続させたのが始まりだ。赤字になるのは当たり前だ。
黒字にするのは、必要としている長期入院を追い出し、ポイントの高い急性の短期患者を期間限度に伸ばして入院させ、不要な丁寧な大事を取った検査と、不要な丁寧な大事を取った高価医療器具を稼働させること、医療に携わる者としての一部の良識を捨てることだ。それで、すべてが暗黙の了解で上手くまわるのならば、それはそれでこの世のなすことだ。
明るいグロテスク
「ざまあみろ」と醜い顔をして、執務時間中の事務所でそのコウモリのような若い看護婦は罵った。相談についてなんとかしなくてはと担当がせっせと調整に勤しんで、苦労の末に決着する寸前に、上から言われなければやらないんだろうとばかりな、労働組合の上部組織に二又の訴えをして、結果について報告した折のことばだった。お礼を言われるとばかりに思っていた担当は嘆いていた。「こんな奴らと仕事をしてるのかね」
「勝ったな」と顔なしのような青白い放射線技師は立ち去った。患者があることからすぐには改善できない同じような類いの同じような経過の結論を伝えた担当者に対して、やはり二又により労働基準監督署に駆け込んでいた奴が、労働基準監督署からの指示でやらざる得なくなったと思い込んで言った言葉だった。労働基準監督署からの問いかけはその後にあって、そこでその言葉の意味を事務員は理解した。
本当の意味の信頼関係等はなかった。どこの部門内でも部門間でも同じだ、仮面組織。しかし、仮面でもってなくなったら、組織は崩壊する。
がんじがらめの絶対軍隊的な組織の知恵なのだろう。
事務方を主とした市役所の村組織よりも、殺伐として賑やかで、明るいグロさがあり、それらが平気で横行する。
亀男
介護職の給料表は最初は触手を動かすほどに設定俸給額は悪くはない。ちなみに3号給・3号俸などのようの、縦と横の一覧表の合わさり目による俸給が、縦の昇給と横の昇任スライドにより決定的される。ちなみに、人事セクションの責任者は棒給(ぼうきゅう)と最後までいい続け、周囲も言えず、最後までお約束の失笑を買い続けた。
介護職の場合はその俸給額の右肩ラインが他の職種に比較して緩い勾配となる。意味することは、現場の作業が中心となるため、経験による業務への貢献や知識蓄積が評価的に低いということであり、年数が経過しても、給料は上がらないと言うことだ。
同じようなことが、看護婦給料表にもあった。
病院の労働組合の要求はこのカーブを上げろと言うことだった。
国会公務員はじめ、すべての公務員は人事院が定めた給料表をベースにして定めている。一自治体が根幹となる給料表を独自に変えることは対外的にはおろか、社会的にも政策的にも無理な話だった。影響が大きすぎた。
そんな中で、県庁所在地の公立病院が面白い方法を導入し看護婦の指揮を高めていた。
方法は明瞭だった。看護婦の時間外は膨大なものがあった。数百にいる看護婦のトップは総看護婦長一人だけだった。実質的な現場の監督は労働組合に属し、時間外労働をするのは看護婦長だった。
却下
労使交渉の全面に立つのはいつも総看護婦が直接指示を出す看護婦長達であり、その要求と主張は激しいものがあった。
こんな状態では職場に信頼関係も生まれなければ、看護婦組織の統制もとれるはずがなかった。
時間外手当額と毎月の管理職手当額はほぼ同額であることから、県庁所在地の例の病院は、看護婦長を管理職にすることにより一気にすべての矛盾と制度の整合性を図った。
全国でもそのような方法を試みた病院はなかった、唯一、銀座にある高名な総合病院を除いては。
担当者は穂高の公立病院でも同じ試みたを提案したが、あっさりと却下された。僕達は、セクション課長も説得して、なんとか市長までの積み上げ説明までこぎ着けたが、実現には至らなかった。
県庁所在地の例を、穂高同様に、同じ県の病院は羨望を持って見たようであるが、人事当局はそうではなかった。理由ははっきりしないが、他ではやってないからだ。
時限装置
病室も含め事務室まで、夏は冷房、冬は暖房により、薄い専用のパジャマ姿で過ごせるように温度調整がなされている。食堂も売店も図書館もある。
外出が許されれば中心街のデパートまでは、10秒もあれば繋がった専用通路で行き来できる。病気でなければ街のホテルより快適な場所だ。
しかし、病院の夜は早い。夜9時には消灯となる。夜な夜な整形外科の元気な患者は、車椅子を自分で操作してエレベーターを降ら、外の喫煙所に集まりだす。
医師のほとんどは喫煙者だ。こんな朝から夜まで、深夜は救急割り当てまである勤務体制での連続は、煙草でも吸わなければやってられない。
深夜に一人で事務室で残業をしていると、壁ひとつの隔てた隣の事務室から笑い声の電話の会話が聞こえてくる。残業してるのは、僕一人ではなかったらしい。
どうやら、飲み屋のお姉さんとダラダラと話をしているようだ。それは1時間近くも続いた。戸々にもいるのか、見かけ残業の生活給稼ぎが。
病院の時間外のチェックは甘い。上司の毬栗は残業などしないし、そもそも、誰が何をしてるかも、残業の中身も把握などしていない。
一人一人の残業も、莫大なほど多かった。そのこともあり、残業時間は自己申告だ。
病院の収入のほとんどは診療報酬であるが、支出は人件費だ。この病院での隠れた人件費も含めた実質の人件費は70パーセントに上る異常さだ。
赤字解消と騒いでも、この現状では普通は簡単には解決しない。
財務部門では節減に努めているというが、病院ではエレベーターは止められず、空調も変えれず、節減は印刷コピーは両面をなどだけで、焼け石に水だ。
無意味なそれを一生懸命やっていると毬栗が誉める職員が、隣の飲み屋のお姉さんと無駄な残業代を支払っている奴なのだ。
しかし、コピーも重箱のすみならば、あいつの残業も重箱のすみだ。
僕は今、この残業で、このペンと机ひとつので、僕の頭の思考だけで、2年後には一気に赤字を自動解消できる、そんか時限装置を仕掛けている。
理屈は簡単だ。赤字解決のための縮小予算を作るのだから、収入は厳格に少な目に固くみる
支出の大半を占める枝分かれした人件費額を巧妙に分からないようにうわずみする。人件費は聖域だ、医師や医療職の人件費がなければ病院はただの箱になる。
他の支出はおのずと見込まれる収入から人件費を差し引いた範囲で圧縮調整される。
収入が何かの拍子に増えれば黒字。または支出がコピーは両面でで抑えられれば黒字だ。どちらも捕らぬ狸の皮算用。
2年後、病院の赤字は一気に解消した。黒字だと院長も毬栗も喜んだ、意味も解らずに。
僕の仕掛けた人件費が、執行残で残っただけの話だ。醜い予算の奪い合いの前に、大きくかっさらった、それだけのことで、大騒ぎの病院赤字解消騒動は終結した。
立ち枯れする幻想の花
2004年、新潟中越地震。2011年東日本大震災。この大きな未曾有の大きな地震の間隔は、7年にも満たない。
しかし、僕にとっては、この地震の衝撃と同様、この7年間の出来事、そして、それから8年の出来事は、様々な意味で、社会学的に、民族学的に、文化論的に、社会病理学的に、心理学的に、歴史学的に、思想的に、愚劣であり最もエキセントリックな、稀有な臨床サンプルの時代となった。
歴史は継続性を意識することなく、偶発的な出来事の淡々とした蓄積と時の経過に過ぎない。
歴史としてのストーリーは、時代を貫き、旨く透過する何かを発見することにより生まれる。
ストーリーは時代を遥か過ぎた後の遠方からしか紡ぐことはできないのかも知れない。覚者を除いては。
外伝
「あいつらは金と女に汚い」とは、ある憲法学者の講義での言葉で、およそ学問的ではない感覚と個人的な経験に基づくその話の挿入に対して、その時は呆れかえったものだが、振り返ると、やはり学問的でも論理的でとないこの同じ言葉が、最もあいつらを表現するのに適していたのだと思う。
学問的とか論理的ではない部分、つまり、生身の人間とか人格とかの部分で、既に逸脱しているのだ。犯罪を犯したならば明確だ。但し、政治的な罪ならヤクザのようにハクがつくとでも思っているから質が悪いが、それ以外の犯罪は他に押し付けたり、卑怯にも陥れたりするのは得意でも、姑息にもばれないように繊細に免れる。
あいつらとは誰のことかってだね、決まっているじゃなうか、学生運動を正当化し、履き違えた主張をしていた卑劣な活動家達を未だに英雄化し続け、何もしない癖に、今も高度経済成長の恩恵を貪り食っているを団塊の世代のことさ。
破滅的な活動の小集団こそは、純粋さと人間性との分離による歴史的な悲劇や騒動を起こしてしまうが、それこそ時代のもたらす歴史的な悲劇だったのだろうが、その過ちを犯さない奴等は理性的であった訳ではないし、純粋だった訳でもない。ただの俗物が時代の流行歌を大声で目立つように歌いたがった奴等ということだけだ。
金と女とに汚い、それがすべてを物語る。俗物とはそういう者達だ。そして、己の利己を正義として語る者達だ。
予算の消化の仕方も厚顔無恥なら我田引水も厚顔無恥だ。
補助金の消化で年末は、名目ならなんでも寄せ集めての管費出張の時期となる。
頭数で割って勝手にグループをつくり、一人当たりの額に応じた出張メニューに余念がない。
そのくせの、千円でもメニューをオーバーすると、いつまでもオーバーしたが認めてやったと恩をきせる。
最後に残った予算額をかき集めて、セクションリーダーは、お気に入りの若い女の子との一番遠く、およそ業務とは縁遠い遠方のリゾートとに宿泊数も頭数当たりの予算も遥かにオーバーした豪勢な出張を仕方がないからとの赤面ものの口実を付けて出かけていく。
こんなことだから、ノーパンしゃぶしゃぶの管管接待なんか、なんのことはなかったのだ。
お立ち台で扇子を振って踊っていた若者同様に、役所だって浮かれていた。
土地転がしの濡れ手で粟も公表前の情報流出のようなもので、一枚も二枚も役所がかんでいたものだ。
最近こそ大分厳しく律せられてきたものの、まだまだ、氷山の下の見えない氷は冷たく厚い。
本人にしてみればちょっとしたさじ加減や自分は安全な地点にいながらの僅かな分配のような施しに近い行為を恩を売ったと言い、それを人質のようにして論功行賞もなしの奴隷のように扱いことや、「あいつには酒を飲ませているから大丈夫」という呆れ返る程の絶望的な言葉のように、酒飲みの囲い込みでの仲間集団の形成により主導権を持った気になるという感覚は、封建主義に毒された自由主義などという世界では不足し、さらに日本独特の貴族従属荘園土属主義とが合わさり、議論などはもってのほかの、完全談合的、完全仲間船団的な世界は形成されていく。
恩や主従の形成が崩れるのは、地殻変動のようにおこる水面下の力の変化だけであり、力が変化しなければ変化しないと思っている。
しかし、恩は少しずつの恩を売ったという驕りの繰り返しにより磨耗し、仲間意識に基づく上下関係は、関係を保ち方に尊厳尊敬がないことにより消耗しなければならない。
本来、磨耗は磨耗し消耗は消耗することにより、それらが正当に現れてくることで正当な議論の土台ができなくてはならない。
程遠いことではあるが、そのことは、新たな地平をもたらすはずだ。
大学での教授群にしても市役所の上司達にしても、遡れば小中高校の校長を含めた先生達にしても、気の利いた言葉や心に留める信念のフレーズをいただくことは少しはあっても、誰一人として昔風の師匠のような全人格的のとてもかなわないとか、いわゆる尊敬するという人物に一人として合わなかったことは、不幸なことなのか、普通のことなのか、特別なことなのか分からないが、そのような人物は居なかったことは事実上だ。
書物の上では共感したり、感銘を受ける作家や批評家はあるとしても、それらの人々が隣人として存在したときには、いわゆる女房リアリズムとしての生活での近親感により、または、ナザレでのイエスのような先入観とにより尊敬の念などは生じてはこないだろう。
しかし、辛うじて、これらの生活感までを含めた上で、表した弱さや嫌味までを含めても尊敬ではなく立派だと思える人間を、なんとか一人は得ることができたことは唯一の財産であるかもしれない。
それにしても、採用における標準給料体系を示しているからと、既得権として能力や実績を視野に入れないお仲間年功序列がまかり通り、僅かな隙間に僅かな特認登用があるものの、それ以外は、市民不在の利害優先の個人奉公邁進者や、近年の女性登用と騒がれての勝ち気なだけの無能な女子の無理やりの登用者が、辛うじての例外となる組織など、魅力どころか商店組合の寄合のような組織と同じで、まともな政策の形成には程遠くなるのは当たり前のはなしだ。
市役所で働く仲間達には、さまざまな人種がおり、大抵は類型化できる。
これまで登場した人を相対的に貶めることを快楽とするハロウィーンカボチャやその仲間、ヒステリックに自己主張するだけの自己中の内証しない生涯独身の老女、品格など微塵もないバタバタ騒ぐだけの中年男、すべて殺しても死なないようなおめでたい連中は、いつまでも元気で職場に口害をもたらす有害な連中だ。勝手に無意味なこの世の春を謳歌するがいい。
一方で、心の優し過ぎるが故に、他人に矛先を向けることができず、争いを避け、己を責め、潰れていく人達のなんと多かったことか。
仕事のさばき方や人へのいなしが決して上手くはないものの、それが故に、責められ、反撃もできず、対応もできず、病み、去っていった人達を忘れることはできない。
仕事をバリバリするとか、そんな評価は効率効果測定だけのテクニックの問題だ。そんなものに、どの位の価値があると言うのだ。
すくなくとも、愚劣な評価制度の無能な上司からの評価とは別次元の人間評価なるものは、役所内には存在しないだろうが、どこか別の世界には存在していなければならない。
僕は潰れて行ったあの方々を決して忘れはしないだろう。
のうのうと生きているいまいましい茶坊主どもは、あっさりと切り捨て忘れ去って行くとしても。
酒に溺れたこうさん、柔道の強かったたかさん、スキーが上手かったぬのさん、極限まで優しかったしばさん、正直なほりさん、がんばり屋のまつさん、責任感の強いまつさん。
あの方々が元気で過ごせるような組織であることこそが、社会に対して、弱者に対して、胸を張って社会政策を展開できる真の組織の姿ではなかろうか。
そんな受け皿もそんな価値観もない、無味乾燥な弱肉強食の考え方は、パブルのイケイケとその後の停滞により、何一つ改善されないまま、むしろ、強化されて現在に至っている。
自己愛性偏狭の時代、喪失の社会病理の時代、そんな明るい絶望の社会、絶対権力が支配する時代だ。
穂高市役所にある尾根のスキークラブは、大所帯の職員有志クラブとして有名だった。
毎年の年末は穂高スキー場のホテルを御用納めから大晦日までの間は、ほとんど貸切でクラブ合宿となった。
何よりも冬の遊びがない田舎街だったから、寒い冬場はより寒くても山のスキー場で遊ぶことしか楽しみがなかった。
僕も小さい頃からスキーには親しんでいたのでスキークラブの一員となり、年末から3月まで3回ほどあるクラブ合宿に参加していた。
夜は大部屋で日本酒やワインを飲み、夜遅くまで飲み語り、翌日は朝早くから二日酔いのまま冷たいスキー場の風を浴びた。
娯楽と親睦のためのスキーは楽しかった。
リフトは一人乗りで列をなして並び、リフトの乗るまでは30分も待つことが多かったか、寒いゲレンデにも関わらず、ねずみの夢の国のようにそんなに長くあの当時並んでいられたことが不思議に思う。
僕達は市役所職員であることから、スキーのできる職員は、ことさら県の中高校から国大予選までのスキー大会の手伝いのかっこうのターゲットになった。
年も若い最初の頃は、ボランティア、その頃はそんな言葉もまだ普及してはいなかったか、そのつもりで奉仕していた。
特に冬季国体が穂高スキー場での開催に回ってきた時には、クラブの職員は口車に乗せられて率先して手伝いに終始した。
しかし、僕らの日当は500円だかスキー組織の役員や連盟の日当は桁が違った。統一した国体のスキーウェアーもそのときしか着れない品物だな、僕達は実費で買わなくてはならないのに、彼らは無料貸与だ。僕達は暖房もない窓一つ先は吹雪の夜となる地下の簡易ベッドで、風呂上がりのドライヤーもない待遇で、朝には髪の毛が凍ってきまうのに、彼らは大きな一人一部屋でゆったりとくつろげた。
さらに、一日ゲレンデに立って競技を見守る役が寒さの余りに造った雪避けの雪壁は見苦しいからと、暖かなロッジから見上げる彼らはそれを許さず、昼の弁当は立ったままにスキー手袋では食べれない凍った弁当と冷たい缶コーヒーを躊躇いもなく配った。
挙げ句にの果てには、大会終了後に山からスキーで機材を下ろし終え、ゴールのテントに来ると、選手にをもてなすために配った暖かいけんちん汁があり、地元のおばさん達は、「寒いところ、ご苦労様」と残り物を手伝いの僕達にも振る舞おうとした。
その時、「市役所の連中にはやるなと言ってた」と年配の訛りのきつい男が制した。
「だって、余ったもので、捨てるんだもの」とおばさんは言った。
捨てるものを嬉しがる僕達を情けなく思いながらも、話のやり取りを聞いていると、
「市役所にやるくらいなら、捨てたほうがいいと」とその男は言った。
僕達、市役所のスキークラブ員は、それをつぶさにきいていた。
冬の流行歌が華やか鳴り響くゲレンデで、イベントを招致し人を寄せ、スキー場を、景気を盛り上げ、市政を活気づけるための職員の下支え。そんな思いは僕らは消し飛んだ。
以後、僕ら職員スキークラブは、仕事とプライベートを明確に線引きした。
穂高スキー場には二度と足を向けることはなかった。あのときから、僕らは夏も冬もあそこには泊まりすら行かないことになった。
田舎のなかの田舎、高飛車な時代に乗ったスキーブームに乗って、冬だけで一年分を稼ぎ出し、遊んで暮らせた旦那どもだ。
ブームが去り、ホテルや土産屋が困窮すると、変わるどころか相変わらずの高飛車のままに、市の政策が悪いと騒ぎ出す。そして、それに応じようと右往左往する観光行政。
構造はどこでも同じかもしれない。街の商店街のように。かたちが違うだけだろう。ただ、品位で飾る術すら知らない途絶された意識と感覚が一層、見苦しいだけだ。
かつての奴隷商人には幾人もの商人が介在していた。アフリカから奴隷を調達するのは奴隷と同じ民族の商人だ。同じ仲間を売りさばき、己の利益を売ることに痛みも感じない。
それと同じからくりが、ここにも存在する。同じ仲間が親分肌のように自分の評価を上げるために媚びを売り、仲間を騙して担ぎ出す。自分は産業育成の政治と利権村との仲介役として極めて政治的に名を上げる。仲間の誠実さを裏切りながらも。そんな人達は少なからず居たのだ。
市役所組織は絶対権限を持ちたがる奴等と順番待ちと我慢しながら上には絶対服従し下には絶対服従を要求する平安精神を引きずったままの、封建主義に毒された僅かな民主主義だ。
民主主義のような奴隷に甘んじる奴等は自己を捨てそんな奴等に追随しながらおこぼれに預かろうとしている。世渡り上手、知恵で生きろとばかりに。
一方で、プチブルたる中小企業はどうかと言えば、行政が国の縮小版から脱け出せないのと同様な国と大手のそれの縮小版だ。
誰からも支配されることを嫌い、市民という幻想のためと息巻いても、市民の上意を気高く掴むことは困難なものだ。
周囲の追随精神が邪魔をする。気高くない市民が勘違いのドキュンとなる。プチブルたる業者が利権を求めて刺さる。
業者は気持ちがいいほどに功利拝信だ。当然であるが会社の生き残りと富を誇るために邁進する。
細かなどこまで自己利益優先で小さく枝分かれしおこぼれが社会奉仕へと繋がり。最も広告投資の効果ありきどあるが、資本主義とはそのような仕組みであり、当然なことで誰も責めることはできない。
役にたつ奴等は重宝し、関係なくなればけんもほろろ。Uターン人事もあるのでそつなくケアは十分にしながらだ。
行政、経済、加えて学問の三つの世界は、似たり寄ったり、世俗の知恵と変わりない。
市役所に限らず、公務員の人員はマックス・ウェバーを紐解くまでもなく、大学教授の講義を聞くまでもなく、肌でほぼ全ての人が感じるのと同じように、余剰と決まっている。
時期と要因により対応できない状況が生まれる時があるが、組織の臨機応変のバランスが取れない体制にこそ問題があるだけの話だ。
ある幹部は、あれやこれやと理由を述べて、あそこの職員は減らせないと言っていたのだが、退職金するやいなや、何をいい初めたかと言えば、
「民間なら半分で仕事するな」とほざいた。
決して大袈裟な話ではない。ただ、不必要な書類と切実しない会議の議論、そもそも現状維持で議論すらなく、あっても事務局案のごり押しが慣例だが、無駄な仕事が多すぎる。そして、役場はそれを心底無駄だとは思っていないことが問題なのだ。
計画、プラン、ビション。国程の図体が大きくなれば、末端の解釈で異なる見解がなされるような、法案に結び付くものならば、それも必要なものだろう。
どこかの如何わしい組織のように国を真似て時間だけを費やし、まともな議論もなく、枝葉の図式をまとめようが、誰がそれを見るのか、誰がそれで仕事をしているかだ。必ず、計画は作って終わりだ、活用等はしない。
せいぜい、担当が、政宗のセイレイの眼の穴のような言い訳として、相手の主張を断るために使うのが関の山だ。
それですら、トップの判断で簡単にひっくり返し換えれるなら、定める時間と労力は無駄そのものだと言うことになる。
また、計画は必要に応じて簡単に追加される。市民に示すためのビションなら、骨子で方向を示せば済むのだ。
田舎の保守的な生活様式と古めかしいうんざりする価値観は、都市部と比較すればいつの時代でも同じなのだ。
そして、田舎イコール役所と言っても過言ではない。
農業分野には、平成になってもおかいこ様、つまり、養蚕を担当するセクションがまじで存在していた。養蚕農家など市内には二軒しか存在しないのに、所属長がいて、係があって、係員があって。
それだけでも驚きであったが、仕事具合も驚きだ。季節になると、養蚕農家よりも多いセクション職員と関係組織が集まり、神社に豊穣を祈願し、昼から酒盛りが始まる。
しかも、家長や農業組合の長やセクション長等のお偉方は三のお膳までつく豪華さだが、担当役場職員等は、半分位に質素なお膳一つで、しかも、畳の部屋のスペースは十分にあるのに、わざわざ差をつけるために、準備されている離れた板張りの部屋での食事、さらに、お酒などもってのほかとなるらしい。
同期の友は、この仕打ちにあい、庁用車を運転すべき役目でもあったのだが、アホらしさにいたたまれずに、食事にも手を着けずに途中で田んぼ道を一人で先に帰って来たらしい。
仕事の放棄だと、あれこれと問題にされ、軽い懲戒ものであったが、僕も彼の行動は支持したいと思った。
あたまボケてるか、腐れてでもいない限りは、こんな価値を受け入れられるはずがない。もしくは、ひたすら自己放棄して忍耐を重ねるか、腰巾着の世俗的野心に燃えて受け入れるしか選択はない。
どれを選ぶかは、各々が人格と信念をかけて決めることだ。
財政部門では相変わらずのふだふだとした旅費を自ら確保し、食料費はそれぞれのセクションからの接待を受けるために自らには付けず配分にせいを出している一方で、経費を極端に押さえらられた市民直結セクション部門には、ボールペン一本無くしても念書を書かせて経費削減に命をかける庶務のおば様を見かけだけ持ち上げる。それを喜ぶおば様軍団。
職場による隣町温泉での泊まりの忘年会で、一部屋に寝るためだけの五人を無理やり押し込められる年頃の男女が、抜け駆けして部屋での行為を見つかり、見つけて騒ぐ奴、咎める奴、囃す奴、責任取れと男女二人を結婚させる奴。結婚させられた仮面夫婦のままに夫婦で市役所に居続け、互いにさらに市役所内での不倫により別れくっ付く日中の夜這いの習慣もどきの惚れたはれた。
マイクロストリートビュー外伝
1年で相手にされなくなるため、毎年入ってくる新人をいびること、些細なことを騒ぎたて、焦られ落ち込ませ、酒に誘って励まし、始終を聞き出し、翌日には職場で得意に秘密まで俺は知ってるとばかりのすべて話しをぶちまける奴。
オートロックも知らず、勝手に旅館の部屋に一人で立て籠ったと騒ぎ、事情を説明し理解したのにも関わらず、記憶は立て籠ったのままで、悪意をもって市役所中にふれまわる奴。
カンパと称して金を集め、酒を飲む奴。祝儀をもらって渡してあるのにそれで酒を飲み振る舞い、忘れ、祝儀はもらってないと騒ぎ、ふれまわる奴。
割り勘分を、今、金ないから後でと後輩に支払わせ、請求すると支払わせたこと自体を忘れていて激怒する奴。借りた金を返すのに投げ返す奴。
上司に合わせた新年会設定を強要し、肉食わない奴、魚食わない奴が共に居て、毎回、つまらない料理となる宴会。肉食わない理由はいい肉しか食わない、魚食わない理由は嫌いだから、に付き合う下僕達。
情の濃い奴、薄い奴。理知的な奴、馬鹿な奴。義理固い奴、軽薄な奴。応用きく奴、聞かない奴。マイナスの奴がプラスとなるのはマイナスの奴が考えるからだ。
自分で考えられない奴、原案ないと微塵も動けない奴、人のプランの修正でしか自己発露できない奴。
人に任せられない奴、人の話でしか自分の考えを定められない奴、ラスプーチン、弾左衛門がいないと何もできない奴。
穂高市役所ストリートビュー年史 十二滝わたる @crosser_12falls
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