ジャガイモくん
すもも
ジャガイモくんと私
中学生になって初めて教室に入った時、その人は誰もが目を引くようなグループの輪の中にいた。私も周りの子と同じように目を奪われた。その人だけじゃなくてそのグループの人たちはみんな、楽しそうだった。彼らは同じ小学校の出身だったようで、新生活初日とは思えないほど賑やかだった。彼らの周りだけ、なぜか日が差しているようで、何度も横目で彼らを見た。その何回目かで、初めてその人と目があった気がした。決してかっこよくないし、むしろジャガイモみたいな顔をしてるし、目があったのも気のせいかもしれない。でも、私は何かを感じた。初めて見るのに見たことがある人のような、懐かしい感じがして、鳥肌がたった。
「大野紬さん」
出席番号順に名前が呼ばれていって、気づいたら自分の名前が呼ばれていた。
「はい」
みんなが自分のことを見ているようで、なんだか恥ずかしかった。次の人の名前が呼ばれても、その次の人の名前になっても、私の体温は高くなったままだった。
「葉山慧くん」
彼の名前は、葉山慧だった。でも私はずっと、頭でジャガイモくんと呼んでいた。ジャガイモくんはあまりかっこよくないけど、背が高くて、コミュニケーション能力があって、頭が良くて、運動神経も良くて、人から好かれるような人だった。さすがに初めて話したのがいつかなんて覚えてないけど、はっきり覚えている一番古い思い出は体育祭だ。リレーで私がジャガイモくんにバトンパスをすることになって、それで初めて関わりを持った気がする。練習で何度もバトンを渡したその手は、ゴツゴツしていて、大きくて、なぜか目を引いた。
あぁ、そうか。ジャガイモみたいな手だからか。
私はそう自分に言い聞かせた。体育祭本番、1着にはなれそうになかったけど、必死に彼にバトンを渡そうと走った。コーナーを超えて彼が見えた時、安心したような、もっと必死になれたような、そんなことを思い出した。
あれはもう、昔のことだ。
その次に記憶があるのは何だろう。合唱かな。私は合唱コンクールの実行委員で、彼はオーディションの末に指揮者になった。指揮のオーディションには3人参加して、そのうち1人は女の子だった。その子は落選してしまったけど、その後も熱心に合唱に取り組んでいた。そしてある時、その子に話があると廊下に呼び出された。
「指揮のオーディションさ、もう一回できないかな。」
突然のことだったし、私にはそんな権力ないのでとても驚いた。訳を聞くと、ジャガイモ君の指揮は下手すぎるし、オーディションと言ってもいきなり式を振る真似をさせられただけで、お互いの実力とか熱意とかもあまり良く分からない状態で選ばれたから、納得がいかないという。普通ならその子はわがままだと突っぱねるかもしれないが、私には彼女の気持ちはよく分かった。ジャガイモくんの指揮は下手すぎるからだ。普通の4拍子の曲なのに、2のところで1が来る。そして自分で振っていてわからなくなって、合唱が崩壊する。それに動きもロボットかと思わず笑ってしまいそうになるくらい硬くて、いっそのこと指揮なんていらないのでは、と思ったこともあったからだ。そんな壊滅的なリズム感と動きを持ち合わせた指揮者に、落選者が文句を言わないわけがなかった。
「正直、私の方が上手く振れると思う。葉山は男の子だから選ばれたんじゃない?」
でもここでもう一度オーディションをするわけにもいかないし、私にはそんな権限なかったからなんとか彼女を説得しようとした。最終的に私が彼女を落ち着けるために繰り返したのはジャガイモくんをみんなで良い指揮者に育てよう、という主張だった。
「今はちょっと見るに耐えないけどさ、みんなで葉山を上手にしようよ。私もできることはするから。それでも、もしみんなが耐えられなかったらさ、先生に相談してみよう。」
なんとかそう言って彼女のことを宥めたが、ジャガイモ君はあまりにも下手すぎて正直また文句を言われる予感しかしなかった。だから本当に鬼のように指揮を練習させた覚えがある。
あの時はごめんよ、ジャガイモくん。何度もきついことを言って傷つけたね。でも分かっておくれ。あの時の君は本当に下手くそだったんだよ。
コンクールの結果は最高賞には一歩届かずだったものの、私は彼の指揮にとても感動した。最初のあの壊滅的なリズム感と動きが、少しだけだけど改善されていたからだ。普通に見たらまだまだ下手くそでよく分からない指揮だけど、私はとても嬉しかった。この頃から、彼には尊敬の念を持つようになった。もうダメかもしれないと思った時もあったけど、ジャガイモくんは乗り切った。本当によく頑張ったね、と口にはせずとも心でつぶやいた。
あの人は目立つタイプだったけど、私はその真逆で、目立たず空気のように生きていた。小学生の頃はむしろ目立つ方だったかもしれない。でも、ちょうど合唱コンクールがあった頃から、私の心に異変が起き始めた。
「ハックション!!!」
突然教室で誰か男の子がくしゃみをした。ただそれだけだった。なのに、私は背筋が凍るほど驚き、悪寒が全身に走って、心臓が飛び出そうだった。それだけじゃない。
「いい加減にしろよ!!!」
学年集会で学年主任のおじさん先生が怒鳴った時、自分は怒られている対象じゃないのに、殺されるんじゃないか、謝らないと、早く消えたい、死にたい、そう思った。
「は?お前死ねよ!」
男の子たちが冗談でそう言った時、私はその話に全く関係ないけど、ごめんなさいと言いたかった。自分に言われたわけじゃないのに、本当に死にたかった。
「おい、ちょっと来い。」
私の父は昔から怖かった。普段は優しくて面白いけど、怒ると本当に怖かった。その時何で怒られたのかなんて思い出せないほどに、父の存在は恐怖だった。一度怒ると最低でも1週間、長いと半年以上まともに家族と会話しない父。特に母には当たりが強かった。三回電話に出れなかったとき、夕飯が遅くなると連絡したとき、父が勝手に車を買ったのを母が怒ったとき、あの人は母が作った夕飯を食べずにコンビニのご飯を部屋で食べ、ドアを強く閉め、音を立てて歩き、突然叫んだり、私たちに母の悪口を吹き込んだり、テレビと大声で会話していた。私はいつからか、音を立てずに息をする方法を学び、ごめんなさいが口癖になっていた。
もう、学校にいたくない。学校は私にとって怖い場所だった。ドアを強く閉める大きな音、低い声、怒鳴り声、男の人の匂い、足音、コソコソ話している姿も笑っているのも、全部、全部私が悪いと思っていた。私がいるから、私が生きているから。ごめんなさい、ごめんなさい。生きていてごめんなさい。死ねなくてごめんなさい。毎日、毎日、限界だった。父とは違うと分かっているのに、男の子たちが怖かった。ごめんなさい。あなたたちは父とは違うのに、一緒にしてごめんなさい。避けてごめんなさい。怖いと思ってごめんなさい。そのうち体調にも支障が出るようになって、学校に行く日は少なくなっていた。もう死んだほうがマシだと、何回も思った。死のうとしたこともある。生きていても意味がなかった。学校に行かない私に父が怒る。殴られて、怒鳴られて、首を絞められて、それでも死ねなかった。殺してほしいのに、殺してくれなかった。挙句の果てに父は、自分はお前のせいでストレスを溜めすぎて倒れたと言ってきた。私のせいだ。ごめんなさい、ごめんなさい。でも、じゃあ殺してよ。いらないなら殺してよ。邪魔なら、殺してよ。
「大丈夫?」
後ろからジャガイモくんが話しかけて来た。気づいたら私は咽せていて、処方された吸入器を吸っていた。
「大丈夫、ほっといて。」
なんであの時、そう言って突き放してしまったんだろう。でもジャガイモくんの呼びかけにすら心臓が止まりそうになる程、私の心は限界だった。
そのときくらいから女子校に進学したいと考えるようになった。男の子がいる空間に、耐えられる自信がなかった。
「大野は高校どこにするの?」
その頃にはほとんど会話することがなかったジャガイモくんが突然後ろから話しかけて来た。でも、不思議と怖いと思わなかった。
「え、知らないと思うけど…、三ツ葉女子っていうところ。」「あぁ、聞いたことはある。」
3年間クラスが一緒だったから気になっただけだろう。でも、ちょっとだけ、恐怖とは違う胸の苦しみを感じた。
「調理実習の班を発表します。A班は鮎川、河野、佐藤…」
もう卒業するだけなのに、なぜ調理実習なんて面倒なことをするのだろう。そもそも学校に来る必要すらないんだから、わざわざ白玉団子なんて作らなくてもいいのに。
「C班、榎本、大野、鈴木、中野、葉山、渡辺。」
あ、ジャガイモ一緒だ。最悪。なんとなく今は一緒にいたくないのに。
「おっ、やった。大野一緒だ。あいつ料理めっちゃ上手いんだ。」
ん?今ジャガイモの声だったような。そういえば君、一年生の時の調理実習でフライパン返したのをやたら褒めてくれたな。でも別にやれば誰でもできることじゃん。わざわざ、喜ばなくていいのに。
「あ、ごめん、グループ間違えてた。榎本、大野、鈴木、田辺、穂積、山口がC班ね。で、D班が柿本、小泉、清野、中野、葉山、渡辺。いい?みんなは間違えないでよ?黒板にも貼っておくからね。」
いや、グループ結局違うんかい。
脳内でツッコミを入れて、なんとなく見た方向にジャガイモくんがいて、目が合った。すぐに逸らしてしまったけど、なんとなく嬉しかった。お世辞だと分かっているけど、嬉しかった。白玉を捏ねていると、隣の班の話し声が聞こえてきた。
「ねぇ、葉山の好きな人って誰ぇ?」
クラスでも浮くほどのぶりっ子の女の子がジャガイモくんと親しげに話している。その女の子は私的にしょぼーんに似ているので、頭ではしょぼーんと呼んでいる。
「言わないよ。」
嫌がってるジャガイモくんなんて気にせず、しょぼーんをはじめとする女の子たちは面白がって問い詰める。
「あ、分かった!愛梨でしょ!」
愛梨は私と家が近くて一緒に登下校をしている。彼女は本当に純粋で、努力家で、可愛くて、愛らしくて、一言で言うならモテる女の子だ。
「絶対そうだよねぇ!」
しょぼーんが私に話を振って来て、戸惑ってジャガイモくんの方を見ると、目が合い、気まずそうに逸らされた。
「うん。」
私がそう答えると、女の子たちはわぁっと盛り上がり、ジャガイモくんの顔が赤くなった。
ジャガイモのくせに何照れてるんだよ。結局あんたもみんなと同じか。分かるよ、愛梨は可愛いし、私と真逆でいい子だもん。学校にもちゃんと行くし、男子を避けたりしない。ジャガイモくんくらい素朴でいい人には愛梨みたいないい子お似合いなのかもしれない。ジャガイモくんのためにもこれで良かったんだ。でも、心配してくれたのは、本当だよね。私が愛梨と仲がいいから良くしておこうって思ったんじゃないよね。君だけは、私の味方でいてくれるんじゃないかと思ってたよ。たとえ愛梨に好かれるためだったとしても、嬉しかったよ。
「本当に違うから!」
否定すればするほど分かりやすいんだよあんたは。もうやめなよ。
だんだんイライラして来て、私はジャガイモくんを無理やり肯定させた。
「でも可愛いとは思うでしょ、愛梨のこと。」
私が急に口を開いたからか、みんな少し驚いたようにこちらを向いた。ジャガイモくんと目が合って、少し後悔した。
「うん。」
女の子たちはさらに盛り上がり、ジャガイモくんは顔をさらに赤く染めた。
100歩譲って肯定したのは許すよ。でもそんなに赤くなるなよ。それじゃあジャガイモじゃなくてサツマイモじゃないか。お前、湯がいて裏ごししてスイートポテトにしてやろうか。
「バカ。」
私は誰にも聞こえないように、本当に小声で呟いた。空を見上げて、早くこんな学校やめたいと思った。
あともう少し、あともう少しの我慢だから。そしたらジャガイモも、あんなサツマイモも見ないで済む。でもどうしてこんなにイライラするんだろう。ジャガイモくんは何も悪くないし、怒る筋合いなんてないのに。
あるとき、なんの話の中でそうなったのか分からないけど、その時隣の席だった男の子が言った。
「葉山ね。なんかお前とちょっと会話しづらいみたいなことは言ってたけどね。でも別に悪口とかじゃなくて、コミュニケーション取りづらいみたいなさ、あるでしょ?そういうこと。」
本当に余計なことを言ってくれたな君は。もう顔も名前も覚えてないけどさ。お陰でもっとジャガイモのことが嫌いになれたよ。そうだ。私はもうジャガイモくんを嫌いになっていた。もっと決定的な瞬間だって覚えている。
卒業遠足でテーマパークに行ったとき、向かい側から男の子たちが歩いて来て、私はいつものように無意識に視線を逸らし、避けようとした。
「ねぇあれ行きたーい!」
という高く、甘い声が聞こえるまでは。聞き覚えのある耳障りな声に驚いて思わず男の子たちの方を見ると、中にはしょぼーんと、ジャガイモくんがいた。しょぼーんはジャガイモくんにべったりと張り付き、ジャガイモくんも嫌がるそぶりは見せなかった。意味がわからなかった。
お前が好きなのは愛梨じゃないのか?好きだけど他の女の子といちゃいちゃしてるのか?あぁ、そういえばしょぼーんはジャガイモのことを狙っていた。今度一緒に遊びに行くとか、カラオケに行ったとか自慢していた。たしかに容姿はジャガイモでも陽キャだし、背も高いし、頭もいいし、運動神経もいいし、モテないからチョロそうだよね。愛梨のこと好きでもちょっと甘えればイチコロだよね。あんな好物件、めざといしょぼーんが見逃すわけない。対してジャガイモ、お前には呆れたよ。ぶりっ子で性格悪くて(´・ω・`)みたいな顔の女のどこがいいんだよ。お前なんて規格外に選別されて種芋にもなれずに畑の隅に放されてしまえばいいんだ。
私は後ろを振り返ってまた呟いた。
「バーカ。」
どんどん奴には幻滅していった。期待した私が悪いんだ。もともと規格外なのに気づかず、売り物にしようとしてたんだ。愛梨に勧める前で良かった。もう期待するのはやめよう。みんなはお父さんとは違うかもしれないけど、やっぱり期待するべきではないんだ。
卒業式が近づいてきて、心底ホッとした。もうあと少しでこんな環境とは縁を切れる。雪が降る中、卒業式の練習で体育館に入るために5分以上待たされた。ほぼ外の連絡通路に寒い寒いと凍える声が響いていた。でも私は寒いとも言えなかった。雪の日は、昔父が雪かきをしていたのを思い出すから。一足早く家の前の雪かきをしていた父の元へ向かおうと、妹と一緒に外へ出た。
「おせーんだよ。1人でやらす気かよ。」「すみません。」「やらねぇなら出てけ。二度と帰ってくるな。」
またか、としか思わなかった。でもこの程度なら必死に謝るふりをして、無言で手伝えばそのうち機嫌は良くなるだろう。そう思っていた。バカな妹が遊び始めて雪かきしたのを台無しにするまでは。いつもこうだ。私が気を遣って父の機嫌を取ろうとしても、バカで空気が読めない母や妹がそれをぶち壊す。もう怒らせたくないのに。
「ざけんなよ!!どんだけやったと思ってるんだ!!」
父の怒鳴り声に近所の人が心配して出てきた。
「あっすみません!こいつが危ないことしたもんで。」「あぁ、気をつけるんだよ〜。」
父は外面だけはいい。家の中では暴れまくっても、こうして近所の人にはいい顔をする。
「テメェらがやれよ。」
そう吐き捨てて家へ戻る父。その頃からだろうか。死ねばいいのにと思い始めたのは。父だけじゃない、全部ぶち壊す母も妹も、そんなこと考えてしまう自分も、みんな消えればいいんだ。はらはらと舞う雪を見て、また死にたくなった。
「大野は全然動じないな。」
またジャガイモだ。
「え?」「みんな寒い寒いって喋ってるのに、大野は全然大丈夫そうだよね。」「そうかな。」
そりゃ昔のトラウマを思い出していましたので。死にたいから、寒さなんて気にならなかったんだよ。
「寒いって言っても暖かくはならないでしょう。」
死にたいって言っても生きるのをやめられないのと同じように。もう口に出す気力もないんだよ。幸せな君らには分からないかもしれないけど。雪のように冷たく話した私を、君はどう思っただろう。君はどんな顔をしていたんだろう。お願いだから、私のことなんて全部忘れてよ。この雪のように、私の記憶を全部溶かして無くしてしまえよ。
多分3年間で、私たちが交わしたまともな会話はそんなになかったと思う。でも、君の行動や言動の一つ一つが私の頭にこびりついて無くならない。今、君のことを思い出して気づいたんだ。私は君のことが好きだったんだ、と。時が経って、思い出を美化しているのだとしても、私は君に会えて良かった。君は私を嫌いだったかもしれないけど、私は君が好きだよ。ごめんね。もう、君のことは忘れるよ。ありがとう。
友達に囲まれた笑顔のジャガイモくんを背にして、私は卒業した。
高校生になって、電車通学が始まった。朝の満員電車は、それはそれは恐ろしいものだった。どんなに違う車両に乗っても私の前にはいつも同じおじさんが乗ってくる。鞄を抱える手が私の胸に当たる。
痴漢ですって言っても誤解ですって言われるレベルなんだよなぁ。声を上げることもできないなぁ。そもそも声上げるなんてできないもんなぁ。これまでそんなことしてこなかったから。
毎日、誰か助けてくれないかな、気づいてくれないかな、そう思っていた。でも誰も助けてくれないと、分かっていた。また同じように電車が来る。電車に乗り込むと、どこからともなくおじさんが現れる。
いい加減、誰か助けてよ。気づいてよ。誰も私の方なんて見ていない。見ているのはスマホか本だけ。この満員電車で参考書なんて読んじゃって、真面目かよ。
そう思ってその人の顔をみると、その人はジャガイモくんだった。
最悪。このタイミングでまた会ってしまうなんて。助けてくれるんじゃないかと期待してしまう。そんなわけないのに。私に気付いてもないのに。気付いていたって話しかけてくれるはずないのに。おじさんも、ジャガイモも私の前に現れないでよ。
私はだんだんイライラしてきて、電車を降りる前に思いっきりおじさんの足を踏んで、鞄越しに股間を蹴った。気づいたら、おじさんは現れなくなっていた。こんな風に私は少しづつ強くなっていったのだと思う。男子高校生に強くぶつかられても、満員電車で自分の肩を携帯置きのようにされても、変な人に話しかけられても、大抵のことでは動じないし、跳ね返すことができるようになった。学校にいてもビクビクする必要はない。むしろ理解してくれる友達ができた。ここでは咽せてもみんなが心配してくれる。ジャガイモくんだけが声をかけてくれる、あんな環境じゃないんだ。ただ一人心配してくれたあの人を物凄く良い人だと思っていたけど、ここにはその物凄くいい人しかいない。今度こそ本当に忘れられる。さようなら、ジャガイモくん。
高校生の私は人が変わったように前向きになって、口数も驚くほど多くなった。部活も中学の頃はマイナーな部活だったけど、高校では合唱部に入った。合唱が好きだったから。
別にジャガイモくんのことを思って選んだんじゃないよ。単純に強豪校だったし、新入生歓迎会で納得したんだ。私はこの部活に入るために女子校に進学したんだって。あんなヘッタクソな指揮者なんていない、本物の合唱を初めて見て、私はこの部活に入ることを決めた。でも唯一、ちょっとだけ心が痛かったのは、君と合唱コンクールで歌ったあの曲を部活で歌うことになったとき。ここでは大きく広がるように、とかここはもっと落ち着いてとか、たくさん話し合って歌詞カードに一緒に書き込んだよね。今はもう、ただのいい思い出だけど。でも今の方がもっといい思い出にできる気がするよ。
大学生になって、私は社会学を専攻した。ジェンダーについて学ぶためだ。私はそれまで生きてきて、ジェンダーに関することに疑問を抱くことが多かった。どうしてうちの父はふんぞり返っているのか、どうして中学校が怖かったのか、どうしてあんな下手くそな指揮者が選ばれたのか、どうして痴漢だと声を上げられなかったのか。その答えを見つけるため、そしてずっと苦しんだ父のモラハラが間違っていると証明するために、私は大学に進んだ。もうその時には、私のモラハラの呪いは解けていた。学ぶことで昔を思い出して、辛くなることもある。でもそれ以上に、それまで経験した辛かったこと、苦しかったことが私のせいじゃないって思いたかった。もう悪くないことで謝らない。泣かないし、機嫌だって取らない。私はやっと、男の子が怖くなくなった。時間が経ち、久しぶりに愛梨から連絡が来た。
「つむ!中学の同窓会あるから来ない?いつも来ないからみんな会いたがってるよ〜!」
嘘つけ。陰キャの私に誰が会いたいんだよ。たとえそれが本当だとしてもあんたはいい子だから分からないかもしれないけど、それはお世辞なんだよ。
「一旦グループに入れておくね!」
勝手に入れないでよ。まぁあとで都合がつかないって断ればいいや、と思いそのまま通知を切って放置していた。するとしばらくして、今度は乙香という中学の同級生から連絡が来た。
「ねぇ、なんかうちら行くことになってるけど。正直話せる子が紬しかいないけどさ、もう断りづらくない?」
驚きすぎて慌ててグループを確認した。本当に行くことになっている。しかも気兼ねなく話せる人は愛梨と乙香くらいしかいない。友達が沢山いる愛梨はともかく、乙香が仲良くしていた子はみんなグループにいなかった。すると乙香はこう続けた。
「もう腹括ってさ、2人で参加しよ。一緒にいればなんとかなるよ。」
私は渋々行くことにした。昔一度クラスの打ち上げに参加したことがあったけど、騒がしいしご飯も食べれないし、お金が足りないと大騒ぎになるし、散々な目に合った。だから本当は行きたくなかった。でも乙香を一人にするわけにもいかない。私は腹を括って参加することにした。当日、お店の駐車場に群がる人だかりを見て、一度呼吸を整えた。大丈夫、呼吸してれば終わる。そして目線を上げると、建物の隙間から早速ジャガイモくんが見えて、うわっ最悪、と心で呟いた。
「わぁ!つむちゃん!久しぶり〜!」
出たな、しょぼーん。相変わらず高くて鬱陶しい声だ。お前の声を聞いているとなんだか不思議とイライラしてくる。
「紬!」
すぐに乙香に救出されて、心底ホッとした。結局その会は思ったよりは楽しかった。男女で席が分かれていたし、みんな思ったよりも大人になっていた。昔のようにくだらないイザコザでいじめあったり遠回しに貶しあったりすることも無く、普通に終わった。ただ予想外だったのは乙香が思ったよりも酔っ払っていた事だった。会話はできるけど、いつもの10倍は陽気になっている。私は乙香の酔いを覚まさせるために一旦トイレに連れて行った。手を洗いながら、鏡に映る自分を見つめてみる。
「バカ。」
戻った時にはもうみんな帰る雰囲気だったのでそのまま外へ出ることにした。すると、後ろから突然誰かが話しかけてきた。
「もしかして、大野さん?」
正直ジャガイモかと思って期待したが、脳内で自分をぶん殴ってよく見ると、全然違う人だった。違う人ということは分かるし、その人がどんな人だったかも思い出したけど、名前までは思い出せなかった。でも脳内のあだ名が生牡蠣くんだったことは覚えている。
「うん…。」「本当に?めっちゃ変わったね。なんか、可愛くなったね。」
いや、生牡蠣に言われても嬉しくなーい。
私は生牡蠣くんが大嫌いだったからだ。なぜかというと、自分は生牡蠣のような顔のくせに人の容姿には文句をつける奴だったからだ。忘れもしない、あれは中学二年生のときのことだ。クラスの女の子でみんなに嫌われている子がいた。その子は少し、いや、だいぶ変わっていて本当に不思議な子だった。容姿も決して整っているとは言えず、なぜだか分からないがいつもおがくずのような匂いがしていた。そんなおがくずさんを生牡蠣が標的にしないわけがなかった。おがくずさんは目立ちたがりで、イベントごとがあると必ず出しゃばる。そんなおがくずさんに向かって生牡蠣はいつも聞こえるように言った。
「おい、家畜。ブヒブヒうるせーぞ。」
言ってすぐそっぽを向いて自分は言っていないと言わんばかりに目を逸らすが、みんなは気づいて笑っていた。普通だったら怒るか泣くところを、おがくずさんは何故かいつも笑顔で言い返した。
「家畜じゃねーよ!」
彼女は笑ってはいたけど、あれは明らかにいじめだった。私もおがくずさんのことは苦手だったけど、見過ごすことはできず、彼女に声をかけた。
「ねぇ、私先生に相談してみようか?あれは無いよね。」
すると、おがくずさんはキョトンとした顔でこう返した。
「え?何が?」
今思えば強がっていただけかもしれないが、彼女曰くいつものくだりだから何も気にしていないらしい。本人にそう言われてしまうと、私は何もできなかった。でもそれは日に日にエスカレートし、私は見ているのも辛かった。それも学校に行けなくなった原因の一つだったと今は思う。おがくずさんが認めてくれなくても、あれはいじめだった。だから率先していじめていた生牡蠣だけは一生許せないと思っていたのだ。それだけじゃない。みんなに聞こえるように女子の顔ランキングをつけていたのも、コソコソいろんな人の悪口を言っていじめを誘発していたのも、私は許さない。
「ねぇ、SNS交換しない?」
昔のことは忘れたのかもしれないが、私は忘れない。だからはっきり言った。
「いや。」
もう断れる。顔色なんてうかがわない。強い意志を持って断った。すると乙香が口を開いた。
「え〜なんで!絶対交換しておきなよ!さっき紬、彼氏欲しいって言ってたじゃん!」「言ってない!絶対言ってない!」
酔っ払いが口を開いたことで場はややこしくなり、半ば強引に交換させられた。絶対帰ったらブロックしてやる。そう思っていた。
「つむ〜二次会あるからさ、一緒に行こ!そしたら帰り一緒に帰れるじゃん!」「え、二次会?嫌だよ、もう帰るね。」「なんでよ〜紬ー。行こうよー。」「ほら、乙香も言ってるよー。」
だから酔っ払いは嫌いなんだ。
しかも移動するとき雨が降ってきて、傘がない乙香は愛梨に入れてもらってしまった。そして嫌な予感は的中した。
「大野さんは今どこの大学通ってるの?」
また生牡蠣が話しかけてくる。
「えーと、朋恵女子大学ってところ。」「女子大なの?高校も女子校だっけ?」「あ、うん。」
どうでもいい質問攻めにあったからか、中学の同級生だからか、生牡蠣だからか、私は手に汗をかき、足がガクガク震え、どんどん道の端へ寄っていった。そして私は気づいてしまった。また中学の頃へ逆戻りしている、と。
誰か、助けて。怖い、怖いよ。ごめんなさい、ごめんなさい。もう話しかけないで、お願い。ごめんなさい。
「あれ、一年の時って何組だった?」「えっと…。」
会話もままならないほど、私は限界に近づいていた。
「2組だよ。」
後ろからそう答えたのは、ジャガイモくんだった。
「あっ、そうそう、2組。」「え、2人って同じクラスだったの?」「多分3年間クラス一緒だったよね。」「うん。」
助かったぁ。ありがとう、ジャガイモ。恩に切るよ。ところで、その時初めて後ろにいるのに気がついて振り返ったけど、どうして呑むと分かっていたのに原付で来たんだい?重そうに引いているけど、なんでそんな物に乗ってきたんだい?バカなのか?本当に君は昔からそういうところがあるよね。
「中学って誰と仲よかったっけ?」「え〜誰だろう。」「愛梨といつも一緒に登下校してたよね。」「あ、うん。」
ジャガイモくんは生牡蠣の質問に答えづらそうにする私をさりげなくアシストしてくれた。
また君のことを想ってしまうじゃないか。
「じゃ、俺ちょっと迂回するね。」
感動した3秒後には原付を引いて列とは違う方向へ行ってしまった。その背中に、私はやっぱり呟いた。
「バカ。」
なーんであんたはいつもそうなんだよ。たまに感動したと思ったらこれだよ。二度とお前なんか好きになるもんか。
その後も生牡蠣の質問攻めに耐えながら、なんとか二次会のカラオケにたどり着いた。酔っ払った乙香のことが心配であまり覚えていないけど、でもジャガイモくんが歌っている姿を見て思い出した。
あの時の合唱、死ぬほど下手だったけど楽しかったな。ていうかジャガイモくん、歌上手くなったなぁ。歌ってる曲全然知らないけど。
ついに乙香に限界がきて、一緒に帰ることにした。
「愛梨、ごめん乙香もう限界だから帰るわ。」「えー帰っちゃうの!」「愛梨はもうちょっといな。じゃあね。」
その会話の間に生牡蠣がお金を払って出ようとしていて、大慌てで乙香を押し出した。すると、出口付近にいたジャガイモくんが話しかけてきた。
「ねぇ、宇佐美亜希って知ってる?」
なぁんで今なんだよ。状況把握しろ。え、ていうか宇佐美亜希は高校の友達なのに、どうして急に。
「今大学一緒なんだよね。」
どうしてそんな重要なこと出口で、しかも出ようとしてる時に話してくるんだよ。さっき移動してる時に話せばよかったじゃん。そしたら生牡蠣に質問されなくて済んだじゃん。え、ていうか宇佐美って法学部だよね。ジャガイモは絶対理系で医者にでもなるのかと思ってたのに。ていうかもう生牡蠣が支払いを終えてしまう。あ、乙香が転びそう。ちょっと、本当に、今じゃないだろ!!!
こころのざわつきを一旦抑えて私は言葉を探そうとした。でもあまりにも状況がぐちゃぐちゃすぎてちゃんと話せなかったと思う。
「あ、亜希ちゃん3年間クラス一緒だったんだぁ…。よろしく言っといて!」
あ、やってしまった。高校と中学ではキャラが変わりすぎて恥ずかしいからもし万が一私の同級生に会っても余計なこと話すなと宇佐美には口止めしたんだった。案の定ジャガイモくんは驚いたような顔をしている。でもとりあえず今は逃げよう。
私は足早にその場を去った。すると、後ろから生牡蠣の声がする。
「絶対メッセージ送るから。」
いらねーよ。一生すんな。あんたを食っても当たるのは目に見えてるんだ。第一今も昔も容姿で人を評価するお前なんか誰が相手にするもんか。もはや美味しくて安全な生牡蠣に失礼だ。もうお前の名前は今日から食中毒だ。
そう思いながらお店を後にした。どんどん自分の性格が悪くなっていく。そんなこと思いたくなくても思ってしまうから、余計に腹が立った。
次の日、愛梨と遊ぶ約束をしていた。朝まで同窓会は続いていたようなので予想していたが、何度連絡しても返信はなかった。何度も電話をかけて、やっぱり出ないので家の呼び鈴を鳴らした。ドタバタと家の中から物音がして、やっと目覚めたのかと呆れる。愛梨は中学の頃からよく寝坊するようになった。でも私も学校に行かない日が多かったり、待たせたりしたことがあったので何も言えなかった。卒業してから遊んだときも、やっぱり彼女は寝坊して、私はしばらく愛梨の家の前で待っていた。すると、愛梨のお父さんが出かけようと外へ出てきた。
「久しぶり。ごめんね、待たせてるみたいで。何回言っても聞かなくてさ。昔は自分も何回も待たされて迷惑かけられたんだから自分は待たせて良いんだとか言うんだよ。悪いけどしばらく待ってあげてね。」
愛梨のお父さんは変わってる人だからそういう事も平気で言う。私が現代文の先生だったら、この時の私の心情を述べよ、という問題を出すだろうな、と妄想して苛立つのを抑える。昔からこうなのだ。みんな愛梨の味方で、私はその付属品。愛梨が一番可愛くて、やさしくて、頑張っていて、良い子で、運動もできて、頭も良くて、みんな愛梨のことが大好き。誰からも愛されて、モテて、好かれて、彼女は幸せな子だ。
でもみんな知らないでしょ。寝坊しても悪いと思ってないのとか、本当は性格悪いところあるけどみんなには見せないのとか、言いふらさない人にしかそういう面を見せないことも、自分のこと好きな人たちを馬鹿にしてることも、わがまま言っても通用するって分かってるってことも、人を裏切っても悪いと思ってないしごめんって言えばなんとかなるって思ってるのも。みんな愛梨大好きだもんね。でも君ら騙されてるよ。ジャガイモもさ、騙されてるから。見る目ないな。バーカ。
一度家に帰って、一時間ほど待つと愛梨は出てきたけど、しばらく怒りは消えなかった。でも怒ってもしょうがないのだ。どんなに待たされても、愛梨が正しいから。
みんな滅びればいいのに。
「そういえばさ、なんか昨日男の子と話した?」「え?あ、まぁ、何人かとは。」「日野とかと話してたよね?」「日野…あぁ、うん。」
日野は生牡蠣、改め食中毒の名前だ。
「なんかつむが帰ったあと、大野可愛くなったねって言ってたよ?」「ふーん。」「興味ない?」「うん。」「日野ってあぁ見えて結構一途だと思うんだけど、どう?」「いや、私は好きじゃないかな。あんまりいい印象ないし。」「結構いい人だと思うんだけどな〜。昔はいい印象なかったかもしれないけどさ、今は変わったかもよ?」
その後も愛梨はやたら食中毒の話をするし食中毒を勧めてくるので何かおかしいと思った。どういう意図なのか問い詰めると、やっぱり2人はグルだった。
「だって、つむ浮いた話全然ないから何かあってほしいなぁって〜。愛梨もつむと恋バナしたいんだよぉ。」
お前は私を思ってそうしてるのかもしれないけど、はっきり言ってそれは優しさじゃないよ。私があいつのことを嫌いなのを知っていてそういうことするんだ。面白がってるだけだよね。そりゃ面白いよね。他人事だし。そういうことしてもあんたは許されていいね。私が傷つこうと関係ないもんね。許されるんだから。
結局愛梨には断るということを伝えて、その後食中毒からきたDMは適当に流して終わった。それでも勧めようとしていたのにはムカついたけど、その日はもっとムカついたことがあった。
「小学校の時さ、あの子本当にいい子だったよね。」「分かる。絶対困ってる人助けるもんね。」「今まででさ、一番いい人だなって思った人、いる?」
別に隠す必要もないか、と思い正直に答えた。
「葉山かな。沢山助けてもらったし。その時男の子苦手だったから冷たくしたりキツイこと言っちゃったけど、ごめんねって思ってるしありがとうって言いたいな。」「ふーん。」
愛梨の顔がなんとなく曇った気がした。しばらくして話が変わった時、その時の曇りは見間違いではないと気づいた。
「愛梨はほんとモテたよね。今もだけど。ほら、さっき話したあの子にも告られてたもんね。いい子だったけど断ったの?」「あぁ、あの子ね。タイプじゃなかったから断った。葉山もうちのこと好きだったみたいだけど、顔がタイプじゃない。」
あぁ、地雷踏んじゃってたのね。ごめんごめん。私が悪かったよ。でもそんなふうに言われたら、なんとなく私も悲しい。自分のことじゃないけど、顔がタイプじゃないなんて言わないでよ。そんなの気にならないくらい、いい奴なんだよ。
しばらく経ってから、高校の同窓会があって、宇佐美亜希に会った。
「ねぇ、葉山くんって知ってる?」「わ、でた。この前中学の同窓会で会ったよ。」「聞いた?今大学一緒なの。」
私は同窓会であった出来事を全部話した。生牡蠣のこともタイミング悪いことも原付のことも。
「なんか私のこと言ってた?」「なんか合唱コンクール?の時に指揮でめっちゃ怒られたみたいな…。」「はぁ?」
いや、怒られる程度に下手だったしお前が下手すぎてオーディションやり直しの危機だったんだからな?しかも四拍子もろくに振れないのに被害者ぶるなよ。
ということも宇佐美に話した。
「それは怒るし、つむちゃんは悪くないわ。でもめっちゃ被害者ヅラしてたよ〜?」
なんなんだあいつは。こっちの苦労もしらないで。コミュニケーション取りづらいとかさ、怒られたとかさ。でなに、愛梨が好き?笑わせんなよ。いい奴なのかバカなのかどっちかにしろよ。いい奴でバカだからほっとけなくなるんだよ。でももう呆れたからな。もう知らない。私だってお前が困ってても迂回してやるからな?もう勝手にしやがれ!
「本当に意味がわからない。人の気も知らないでさ。結局指揮振れてて感動したなーとかよく頑張ったねーって思ってたけど、また中学の思い出が嫌な思い出に変わったわ。」「でも葉山くんちょっと嬉しそうだったよ?」「なにが?」「自己紹介の時に地元がつむちゃんと一緒だったからもしかしてと思って声かけたんだけど、やたら興奮しててさ。」「それはびっくりするでしょ、急にそう言われたら。」「合唱の話をした時も被害者ヅラはしてたけど、嬉しそうだったよ?」「あの人にとってはいい思い出なんじゃない?」「もしかして好きだった?」「ない。絶対ない。」
反射でこう答えたけど、なんとなく後ろめたさを感じた。
「ふーん。相性いいと思うんだけどな。」「いや、もうほとんど知らない人だし、連絡先も知らないし、そもそもクラス一緒なだけであんまり関わらなかったし、それに葉山は…」
「葉山ね。なんかお前とちょっと会話しづらいみたいなことは言ってたけどね。でも別に悪口とかじゃなくて、コミュニケーション取りづらいみたいなさ、あるでしょ?そういうこと。」
また嫌な思い出が蘇る。
「私のこと嫌いだから。しかも、あの人には他に好きな人いたし。」「そうなの?でも嫌いってことはないんじゃない?嫌いならわざわざつむちゃんのこと聞いてきたり思い出話したり同窓会で声かけないんじゃない?」「いいえ、します。あの人は優しいから。嫌いな人でも絶対にちゃんと向き合って、対話して、分かろうとしてくれる。そういう人だから。だから本当は合唱のことも、他にも沢山、ごめんって言いたいことがあるし、ありがとうって言いたいこともあるけど、言えないの。」「なんで?普通に言えばいいじゃん。」「だからね、確かに私が急に連絡したりしても話は聞いてくれるかもしれないよ?でも、わざわざ私のことを思い出させて、我慢させて、嫌な思いをさせたくないの。ごめんねもありがとうも言いたいけど、言ったら無理させちゃうの。だからずっと言えないの。とにかくなんでもないから。」
変な期待はしたくない。また会えるとか、話せるとか、あの時のことを謝れるとか、私のことを好きとか。そういう余計な期待は無駄で愚かなことを、私は知っている。でも、ふとした時に私はおそろしいことを思っていたりする。
私のことを好きだったらいいのに。
家に帰ると、勢いよくドアが閉まる音がした。強く椅子を引く音、物を投げつける音、そして、叫び声。
「あぁぁ!!!」
これらの音がすれば、もれなく父が荒れている。リビングのドアを開けると、母が泣いている声がする。気づかれないようにキッチンへ向かうと、母の周りに丸まったティッシュと通帳が散らばっている。どうせまた父が勝手に何か高いものを買ったんだろう。今度はなんだろう。また車かな。家のお金も、奴に言わせれば自分で稼いだんだから自分で使っていいお金らしい。私たちの学費なんてどうでもいいのだ。対して乗りもしない車。使うたびにボンネットを開けて、機械をつなげている。そんなに使わないならいらないのになぜ買うのだろう。別に自分が何か言われたわけでもないのに、布団にくるまると、自然と涙が止まらなくなる。
何のために生まれてきたんだろう。自分のためにお金を使いたいなら産まないで欲しかった。物に当たって、叫んで、母を泣かすくらいなら、産まないで欲しかった。私は、苦しむために生まれたのかな。何のために生まれたのかな。
「つむー!20日からまた実家帰るから20日の午後会おう?」
愛梨は大学生になってから東京で一人暮らしを始めていた。不思議なことに何度遅刻されても、少し時間が経てばムカついたのを忘れてしまう。それでまた会ってしまうんだ。後悔するとも知らずに。
「いいよー。実家には何時くらいに帰る?」
結局、当日になっても返信はなかった。
「大丈夫?なんかあった?気づいたら連絡してね。」
数時間経っても、何度連絡しても返信はない。
「今どこ?」
日が落ち始めても、何度電話をしても出ない。
「ただいま電話に出ることができません。」
本当に何かあったのではないかと思って実家に行こうかと外へ出た時、手に握っていた携帯が震えた。
「もしもし?大丈夫?」「…んん…ごめん寝てたぁ…。」
ほらね。
「そっか、今どこ?」「東京の家…。」「そうか、どうする?」「ちょっとまた、時間ある時で。」「分かった。じゃあね。」
髪巻いて、化粧直して、香水までつけて、何度も連絡したけど、大丈夫。期待した私が悪い。分かってたことだ。知ってたじゃないか、いつもそうだって。でもなんでだろう。なんか今回は、もう、疲れちゃった。もう無理だ。
私はそのまま歩き出した。桜が散る中、近くの学校の野球部の声が虚しく響いている。ぼーっと歩けば、畑仕事をしているおじいさんたちが私のことをチロチロ見ている。それもそのはずだ。私が向かう方面には何もない。学校と、線路と、川だけだ。わざわざ着飾って行く方面ではない。まっすぐ歩いていると、踏み切りがけたたましく音を立てながら下がってきた。「いのちのでんわ」というピンクの看板、青く光るランプ、迫り来る電車。
あぁ、死にたいな。
でも、飛び込む勇気はなかった。飛び込んだら高額な賠償金を請求されて、お父さんが怒る。死んだあとでもお父さんのことを気にしているなんて、なんて虚しい人生なんだろう。ため息をつくと、もう電車は去って、力強い風が吹きつけた。
なんで生きてるんだろう。
田畑の中を歩いて、川が見えた。鳥が飛んでいる。私は空を見上げて、つぶやいた。
「ばーか。」
向かい側から人が歩いてきて、聞こえていなかったかと焦った。恥ずかしいのを隠そうと、俯き加減で歩く。その人とすれ違ったとき、なんとなく嗅いだことのある匂いがした。
「大野?」
ジャガイモくんは、ほくほくと微笑んだ。
ジャガイモくん すもも @sumomo_plum
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