第九話 希望の波 後編
「ベル……! お前、ベルなんですか!」
ボクが走り寄っていくと、ベルは怪訝な顔で迎えてくる。
「如何にも
「誰って……。アルカですよ。お前の家臣です!」
「……家臣。そうか。その年で乃公の家臣を志すとは見上げた少女よ。その調子で、星の運びを習うがいい」
ベルはボクの頭に優しく手を置き、わしゃわしゃと撫でてくれる。彼は明らかに、ボクの事を憶えていない。
「
「この娘は
ベルの言い方は、まるで今までずっと
「あの……。念の為、お前の名前を聞いてもいいですか?」
「構わんぞ。乃公の名は
人間達に付けられた名を、自ら名乗っている。彼はボクの知るベルではなく、バビロニアの偉大な
「ギルガメシュ……! どうしてベル様が二人もいるんすか!」
ハルフィはギルガメシュに近付き、服の上から身体をべたべたと触る。「うわぁ……! 本物っす……!」
「なんだ此奴は」ギルガメシュは迷惑そうに眉を顰める。「それに、乃公が二人いるとはどういう意味だ?」
「
シャムハトの助言に、ギルガメシュはぴこんと目を開く。
「フン、乃公の
あまり本気にしていないギルガメシュに代わり、シャムハトがボクの方を見る。
「三〇〇〇年前、突然
「記憶喪失……? ちなみに、どの部分の記憶が失われたんですか?」
ボクには一つ、新たな仮説が浮かんでいた。
「乃公がエンキドウと出会う以前の記憶だ。他の者の記憶を見る限り乃公は相当な暴君であったようなのだが、何一つとして心当たりが無いのよ。これでも人間を愛する良き王であり続けてきたつもりなのだがな」
やっぱりだ。ギルガメシュの失った記憶は、ベルが持っていた記憶と一致している。おまけに、記憶を失ったというのが今から三〇〇〇年前。これは、ベルがソロモン王に召喚されたという時期と重なっていた。
そしてもしエンキドウが自分の痕跡を完全に消そうとしていたのだとしたら、エンキドウを知るギルガメシュと、エンキドウを知らないベルを別ったのはエンキドウなのではないだろうか。
「この世界を創ったのは、エンキドウです。エンキドウは過去の世界からボク達の時代へと干渉し、
「愚かな事を……。して、何故エンキドウが乃公の記憶を奪ったと分かるのだ?」
「ボクは現世で、お前の失った記憶を持っているもう一人のお前に会いました。エンキドウはそれを利用し、自分の計画を遂行する為の道具にしたんです。……ボクは、そいつと友達でした」
言いながら、涙が溢れてくる。ボクは気付いてしまった。もう此処に、ベルはいないのだ。これから続く悠久の時を、ボクはベル無しで過ごさなくてはならないのだと。
初めは只の器だった。永遠の命を得る為に、世界の果てまでイスカンダルの燈を紡ぐ儀式の道具。それがいつの間に、こんなにも大事になってしまったんだろう。ボクは望んでいた永遠の命を手に入れたのに、傍にお前がいないだけでどうしてこんなにも苦しいんだろう。
ギルガメシュは、そんなボクをそっと抱き締めてくれた。
「……そうか。お前は、あんなにも愚かでどうしようもなかった乃公の事を愛してくれたのだな」
「うああ……! 好きだったのに……! 絶対になくしちゃいけない宝物だったのに……!」
あいつはもう、何処にもいない。この閉じた世界の中では、再び巡り会う事さえできないんだ。
「ならば、こんな世界など破壊してしまえばよかろう」ギルガメシュは、何の逡巡も無くそう言った。
膝を着くボクをおいて、ギルガメシュはその身体を天に頭蓋が衝かんばかりに巨大化させていく。そして眼下に集うバビロニアの民を一望した。
「聞け。誇り高きバビロニアの民よ。我等の血が繋ぎし
「どうして……」ボクは、疑問を口にせずにはいられなかった。「折角生き返れたんですよ……? 永遠の命を、どうしてそんなにも容易く手放せるんです……?」
演説を終えたギルガメシュは身体を元の大きさに戻し、ボクの傍へと立つ。
「永遠の命か。乃公もかつて、それを人間達に与えようとした。神々に弓を引き、
そして、彼はボクと目線が合う距離にまでしゃがみ込んだ。「エンキドウを死なせたのは乃公だ。そしてあの日以来、乃公の友の魂は冥界へと返ってきてはいない。……乃公とお前は似た者同士なのかもしれんな」
ギルガメシュは立ち上がり、シャムハトの下へと歩いていく。
「各都市の長老達に連絡し、祈りの為の指揮を執らせよ。神官は持ち場の神殿に集合させ、儀式の準備を進めてくれ」
「かしこまりました。第一神殿から第八神殿までを開放しておきます」
「頼んだぞ。乃公はこれからアルカを連れて、この世界を切り開く!」
戻ってきたギルガメシュはボクを抱き上げ、シャムハトが乗ってきた馬車へと乗せる。
「はわっ! ど、何処へ行くんですか!」
「エアンナ神殿地区と双璧を成すもう一つの聖域:アヌ神殿地区だ。そこには乃公がエンキドウの死を悼む為に建てた、最も高い
ギルガメシュの運転する馬車は市街地を駆け、住居の少ない道の方へと向かっていく。
「アルカ、今のうちにこれからやるべき事を話しておくぞ」彼は指で、景色の奥に見える高台を示す。「あれがアヌ神殿地区だ。あの場所に立つ
「外はどうなっているんでしょうか……。エンキドウは、人間が神の世界へ行くことはできないと言っていました。もし人間の世界と冥界が混ざってしまっているのなら、外側にあるのは神の世界という事になります。もう辿り着けないかもしれません」
「乃公もエンキドウも
ギルガメシュはボクの弱気を杞憂だと拭ってくれたが、彼自身もまた難しい顔をする。
「問題は、どうやってその空間に到達するかだ。人間の干渉できない領域で隔たれているのであれば、何らかの方法で道を繋いでやらねばならん。……それは乃公にもできぬ事だ。アルカ、お前に果たせるか?」
自分の胸に手を当ててみる。ボクは今肉体さえも失って、文字通り全てを失った状態だ。それでもギルガメシュの言う通り、魂だけは消えていない。そしてボクとベルの魂を結んだ、戴冠の契約も。
「ボクに任せてください。必ずベルを取り戻します」
ボクの答えに彼は優しく笑みを浮かべる。「アルカよ、一つ頼まれてくれるか?」
「頼み……? ボクにできる事なら……」
「ああ、そうだな。無理にとは言わん。だが……。できるならば、エンキドウの事を救ってやってくれ」
エンキドウはボクから全てを奪った張本人だ。そんな事はギルガメシュも分かっているだろう。それでも彼にとって、エンキドウは唯一無二の親友なのだ。
ギルガメシュはボクの言葉を待たず、静かに前を見詰めた。それをボクは答えを聞く気が無いのだと受け取り、胸に当てた自分の手を見詰める。
やがて、馬車は高台の麓へと辿り着く。エアンナ神殿地区が比較的なだらかで、聖域の他に居住区を内包する程広い高台であったのに対し、アヌ神殿地区は人里離れた場所で神殿のみが切り立った巨岩の上に祀られている。
その上に、
「此処からは馬では登れん。歩いて向かうぞ」
ギルガメシュが馬達を撫でると、彼等はじっと大人しくなって主の帰りを待つ。裂け目を
彼はボクの手を握り、引っ張り上げるようにひょいひょいと階段を上り始める。何だか不思議な気分だ。数多の鉄学者が神の国への幻想を抱き続けてきた世界で一番高い塔に、ボクは足を踏み入れている。
「アルカよ、お前は死ぬのが恐ろしいか?」不意に、ギルガメシュが尋ねる。「この先へ進めば、待つのは死のある世界だ。引き返す事を望むならば、乃公はそれを責めはせんぞ」
死。ボクにとってそれは、前世の記憶によって刻み込まれた恐怖の根源だった。あまりにも鮮明な前世の記憶と、現世との間にある絶対的な壁。ボクにとってそれは『闇』だ。死ねば全てが失われるという絶望。
だがその絶望が真実ではない事を、ボクはもう知っている。たとえ命を終えても魂は消えず、後に続く命を夢に見ながら眠るのだ。
「死ぬのは……。怖いです」それでもまだ、ボクの答えは変わらない。「ボクは今、自分が何の為に生まれてきたのかに気付いてしまいました。その意味を果たす前に死んでしまうのが怖いんです。もうボクは、大切な友達を一人にさせたくない」
変わったのは、恐れる理由だ。その言葉をボクは、あいつに伝えなくちゃならない。何せあいつは、ボクの事を
「フン、少しはましな顔になったな」
ギルガメシュはそう呟くと、最後の一段を蹴って塔の頂上へと辿り着く。
いつしか塔の周囲には竜巻の如き風が吹き荒れ、黄金の雲を掻き混ぜて周囲を神々しく照らしている。
「地上にいるバビロニアの民全ての祈りを束ね、八つの神殿で星の祝福を受けた風よ。この力で今からあの天蓋を抉じ開ける!」
ギルガメシュは黄金の斧を取り出し、頭上へと掲げる。周囲を包む風が渦を巻いて刃へと収束し、黄金の光輝を放った。
「“
全ての風を束ねて作った回転は斧の刃先に黄金の炎を灯し、
「今だアルカ、行け! お前の望みを掴み取れ!」
ギルガメシュに後押しされ、ボクは印を結ぶ。全てを包む風から原初へと続く火へ。世界を巡る水から永久に崩れぬ土へ。そして、魂を呼び起こす黄金の円環へ。
王を呼び起こす
……潮騒が聞こえる。気付けば、ボクは見た事の無い波打ち際に立っていた。景色の奥には、こんな場所まで追い求めてきた愛しい背中が佇んでいる。
「……此処は、乃公が追い求め続けた大陸の果てだ」ベルは、波を見詰めたまま語る。「乃公が人間になってまで追い求めたのは、『果て』の景色だった。神の世界は無限だが、無限を『一つ』と数える事はできまい。故に神の世界など、乃公にとっては無いも同じだ。だからこそ乃公は有限を愛した」
ボクは砂を踏み、ベルの傍まで歩いていく。
「ずっと求めて来た景色へ、乃公は今辿り着いた筈なのだ。……それがどうして、こんなにも満たされないのだろうな」
「奇遇ですね。ボクも同じ事を考えていました」
見上げると、ベルの濡れた瞳がボクの視線と交わる。
「永遠の命も、最果ての景色も、その道を共に歩んでくれる誰かがいるから輝いて見えるんじゃないでしょうか」
ボクはベルの前を歩き、優しく打ち寄せる波に足を浸す。
「波の動きは『
ベルは人間達の持つ『
「傍に誰かがいれば、世界は二倍に広がるんです。だから、もっと遠くまで一緒に行きましょうよ。この海の先にだって、まだまだ世界は広がっているんですから」
ベルはボクに続いて波を踏み、ボクらは自然と手を繋ぐ。ベル、お前は天の上から、星を降らせてやって来た。ボクは地の底から、闇を抱えてやって来た。ボク達は二人で一つだ。今此処に、天と地の結び目を築こう。
印を結ぶ必要は無い。空に浮かぶ八柱の神々が、ボクらの権利を承認している。
「天と地を隔つは
二人で辿り着いたこの景色を理論とし、伸ばした腕の先に、世界を構築する為の黄金の円環を創出する。そこに宿す炎は、ボクらの愛する世界を紡いだイスカンダルの燈だ。
「創世せよ――“
二次元世界が薄い一枚の紙であるならば、波はそれをうねらせて厚みを生み出す。その厚みこそが、三次元世界なのだ。世界は今、その形を取り戻す!
海岸が遠くなっていき、周囲に闇に呑まれたはずの景色が戻っていく。その最中で、ボクは彼岸の果てへと去っていくバビロニアの祖霊達を見た。手を振るシャムハト。そして彼女の隣に立つギルガメシュ。その姿に、救われたボクの心が言葉になって弾ける。
「お前の親友は、必ずボクが救いますから! だから、そっちで待っててください!」
彼は光の奥へと消えていきながら、誇らしげに腕を組んでにっと牙を剥いた。
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