深紅
なぬか
第1話
八月の眼が眩むような暑さのなか、東京の隅にひっそりと佇む年季の入った大きな民家の門の前に一人の女が現れた。真新しいリクルートスーツに身を包み大きめの革製の鞄を携えている。彼女は大名屋敷のように荘厳な門を前にして、肩の上で切った柔らかな髪を夏風に揺らしながら呼び鈴をそのか細い人差し指で押し込んだ。
ピーンポーンと、わずかにノイズの混じった音が二回鳴った。
女性は小さな背丈を大きく見せるように、猫背をしゃんと伸ばした。
間もなく、インターフォンから高齢の女性の柔らかな声が聞こえてきた。女性は凝った口角をほぐすように、赤く塗った唇を横に目一杯伸ばした後、高い余所行きの声を発した。
「XX銀行の柴田です、馬淵さん宅でよろしいでしょうか。」
その女性は、宇納富愛といった。
宇納は間もなく畳が敷かれた広い和室に通された。竹と花の模様があしらわれた障子とセミの鳴き声が部屋に季節の彩を与えている。部屋の隅の仏壇には60代ほどの男性の写真が飾られており、室内には線香のにおいが僅かに残っていた。漆塗りのちゃぶ台には涼しげな水ようかんと茶が用意されている。宇納はだまってそれらを見つめた。
馬淵文子は座布団に座るよう勧めると、宇納は軽くお辞儀をして市松模様の座布団に行儀よく正座した。
「忙しいところ悪いねぇ…お茶を淹れたから、どうぞ…」
馬淵は宇納にほわりと湯気が立ち込める緑茶を勧めた。馬淵の手つきといい仕草といい全てから温もりを感じた。
「ああ、お気遣いいただきありがとうございます。」
宇納は、ほぼ儀礼的に一口だけ飲んだ。彼女は緑茶が苦手だったのだ。宇納がお茶を口にしたのを見届けると馬淵はやるせない様子で目を伏せた。
「……本当に、こんな婆さんが迷惑をかけてしまって…」
宇納は座布団から腰を上げて、なぜか必死になってそれをなだめた。
「いえいえ!迷惑な訳がありませんよ。今から対処すれば大丈夫ですから、まったく問題はありませんので…!」
「……いやぁ、本当に…ありがとうねえ…」
馬淵は顔を上げることこそしないが、安堵にほほ笑みを浮かべた。
……少なくとも。
詐欺師に対する態度ではない、
なぜか自分が動揺した。
宇納は少し猫背になっていたのを正した。
「……それでは、本日お伺いした要件なのですが、被害者救済法に申請する手続きとなっておりますが、大丈夫でしょうか?」
馬淵は静かに頷いた。
「それでは、キャッシュカードは、用意されていますでしょうか、」
「ああ、ここに。」
馬淵がキャッシュカードを使い古した財布から取り出した。
「ありがとうございます…そうすると次に…」
宇納はどこか焦りを感じながら、書類を鞄から取り出そうと中をごそごそとあさった。
「次に、こちらの書類に、必要事項をご記入ください、」
取り出した書類をボールペンとともに差し出した。
「住所と、暗証番号と、名前と…誕生日を、ご記入ください、」
馬淵は老眼鏡をかけると、その紙を恐々と見つめた。そして、ボールペンを手に取り静かに空欄を埋めていく。それを見つめる宇納は突然、目の前の老人に対して恐ろしいほどの良心の呵責に苛まれた。
膝の上に置く己の手が震えていることに気づいた宇納は、はっとした。
今なら、やめられるのではないか。
今正直に打ち明ければ、許してもらえるのではないか…………いや違う、自分の為じゃなく、馬淵さんの為に、自首しよう。謝って、通報してもらおう、今ならまだ遅くないから______
「…………馬淵さん、あ…」
「遅くなって悪いねえ、手がうまく動かなくて。不備がないか、見てくれないかい?」
馬淵が遮るように、目の前に書類を差し出した。
「あ、はい…」
宇納は書類を確認するふりをした。失敗の代償を思い出し、宇納は、自分が今更後戻りできないことに気づいた。「彼」の顔と、学生証を持った自分の顔写真が頭をよぎった。
その途端、耳に入っていなかったセミの音が再び鮮明に聞こえてきた。
「…記入漏れは、無さそうですね。お返しいたします。ではこちらの封筒に、そちらのキャッシュカードと、こちらの書類を折ってお入れください。」
馬淵が言われたとおりに品を入れ、不自由な手で茶封筒の頭にしっかりと折り目を付けた。それを見届けた宇納は、一回だけ、心臓が跳ねたのを感じた。そして、馬淵の手元に印鑑がないことを確認して、その口を開いた。
「では……印鑑は手元にございますか?」
「ハンコがいるのかい?多分、私の部屋にあるから…ちょっと待っていてね…」
ゆっくりと立ち上がり、馬淵が和室から出た。戸が閉まるのを確認した。仕事はここからだった。宇納は鞄から茶封筒を取り出して、先ほどの茶封筒があった所に置いた。そしてすり替えたものをそっと鞄にしまった。まったく同じ紙と偽のキャッシュカードが入っているから、中を見ても到底見破ることはできないであろう。ふう…と宇納は吹き出た脂汗をハンカチで拭って息を吐きだした。
その一瞬の後、戸が勢いよく開かれた。
「あ、すみません…!ありがとうご」
「__この女!!!!」
人差し指はまっすぐ宇納に向けられていた。衰えからではなく激しい憎悪により小刻みに震えている。あっけにとられた宇納は馬淵の後ろから突進してきた警官の存在に気づくまで数秒の時間を要した。若い警官が正座していた宇納を軽々と組み伏せ、腕をきつく後ろに回した。
抵抗はせずに、おとなしくされるがままでいた。しかし警官が現在時刻を読み上げた時であった、逃げないと、という記号だけが頭に浮かび上がった宇納は、ほぼ無意識的に、自分でももげるのではないかと思うほどの力で腕を捩った。
怒声が背に浴びせられたのを感じた頃には裸足で外に飛び出していた。足底が灼け焦げそうなのも忘れ、目の前に飛び込んできた丁字路を己の勢いに任せて曲がると自転車に乗った子供と激しくぶつかったが気にも留めずに、白日を睨みながら交差点をそのまま突き抜けた。
ブレーキ音に続く一瞬の無音の後に見えたのは、白板に迸る鮮血だった。
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