インターネット転生

幻夢儚

第1話

 美しいものが好きだ。幻想的な絵画、独自の世界観を持った小説、夕暮れや早朝の景色、青くて静かな海。あるいは、魅力を持った人間。美しいものをどこまでも、僕はただ、追い続けていたい。


 チャイムが鳴り響く。授業終わりの開放的な空気に次々と立ち上がるクラスメイトの中で、光の入らない目を隠すために長く伸ばした真っ黒な前髪の隙間から、美しい青年が見える。彼は一人、窓の外を眺めている。いつもそうだ、友達は多いはずなのに、彼は決まってこの時間、空を眺めている。僕はスクールバッグのポケットから携帯を取り出してSNSを開き、

【綺麗な人が夕焼けに照らされていると絵になるな】

 と書き込む。SNSは僕にとって、自分を出しても嫌われない、もう一つの世界だ。高校に入って、一年生の夏になんとなく始めてから、僕の高校生活はずっとこのアカウントと共にあった。それに、美しいものは共有したいと思うから。最近は、彼のことをよく書いている。

 僕が初めて彼を見たのは入学式。クラス順で前の方に姿勢正しく座っていた彼。そのすました横顔が忘れられなかった。クラスが離れてしまった時には落胆した。でも今年、初めて同じクラスになれた。だから、僕はずっと彼を見ていた。その結果気づいたことがいくつかある。まず、授業中、後ろの方の席になった時にはよくうとうとしている。特に数学の授業中なんかはよく見かける。長いまつ毛がゆっくりと上下する様子はいつまでも見ていられそうだ。他にもたくさんあるが、最近気づいたこと。彼は誰かと話している時、彼の目はどこか遠くの方を見ているような気がする。全てを見透かしているような、絶望したような。何を考えているのかよくわからない。それでも、口にする言葉や仕草の全てが綺麗で、神様に選ばれた人間とはこういうことを言うんだな、と思っていた。

 ぼうっとしていると画面が真っ暗になっていた。携帯を机に伏せ再び美しい横顔を眺めていると、青い目がこちらを向いて、どんどん近づいてくる。

「ねえ、カイリ。君、いつも俺のこと見てるよね」

 彼の細くて白い手は、僕の前髪を避け、顕になった目を覗き込む。

「えっと、……ごめん、迷惑だったら」

「ううん、じゃあ迷惑ついでにさ、俺の友達になってよ」

 そう言って、彼は正しい比率で口角を上げ、二重の目を細めて笑った。

「はいこれ、俺のアカウント。今日から一緒に帰ろう」

 画面に表示されたQRコードを、半ば強制的に読み込む。“zeno”と書かれた、不意に撮られたものであろう横顔の写真をアイコンに設定したアカウントが表示された。

「ゼノ」

「うん。知ってるでしょ、クラス替えの自己紹介、食い入るようにこっち見てた」

「だって、ずっとゼノと友達になりたいな、って思って」

 どうしても顔を見たくなって顔を上げたのに、ゼノはもう目の前にいなかった。くるくると回るように移動して窓辺にもたれかかり、スマホを見ている。

「あ、これがカイリのアカウントか。へえ、海里、ってこう書くんだ。夏休みになったら海、行きたいね。俺がいつも使ってる電車にそのまま乗ってったら着くから」

 と言って、僕の話なんてまるで聞こえていなかったように、僕のアカウントを登録して、嬉しそうに笑っていた。

 なんだか夢みたいな状況だな。あんなに毎日眺めていた彼がこうして側で、僕に話しかけている。夢みたいだけど、妙に現実染みている。

「じゃあ帰ろうか。あ、そうだ、友達記念のプリクラ、撮って帰る?女子みたいだけど」

「え、ちょっ」

 腕を引っ張られて、僕は慌てて荷物を持って教室を後にした。


「あの、僕放課後、誰かと寄り道なんてしたことなくて、プリクラなんて、本当に撮ったことないんだけど……」

「大丈夫、カメラ見て指示されたポーズしてればいいだけだから。すぐ終わるって」

 その言葉通り、瞬く間にシャッターが切られて、次々に変わるポーズの指示に疲れ果てながら、カメラと目を合わせ続けた。

「あの人かっこよくない?」

 撮影を終えてブースの外に出ると、順番待ちをしていた女子がゼノを見てそんなことを言っている。

「よく見たら隣の人もイケメンじゃない?」

「ホントだ! でも前髪上げたらもっとカッコ良くなると思うなー」

 驚いた。ゼノと一緒にいるだけで、僕までフィルターがかかって見えるのか。でも、少し嬉しかった。心なしかにやついていると、

「あんなのいつものことだよ、というか海里だってさ、目が二重だしかっこいいんだから、……ほら、こうやって前髪上げなよ」

とゼノが、スクールバッグの外ポケットから小ぶりなヘアピンを取り出して、僕の前髪をくるくると捻って頭の上で留める。

「恥ずかしいよ、こんなの似合わないし」

「そんなことないって。こっちの方が絶対いい。明日学校で前髪切ったげる。大丈夫、極端に短くしたりしないから」

 ゼノは自信ありげな顔で指を二本立てて、ハサミの形にしてそう言った。


「海里、どのフレーバーがいい?俺まとめて注文する」

 初めてやってきたクレープ屋の前で、僕はメニューと睨み合っていた。ここはオーダー式の店で、乗せるものを全て選んでカスタマイズできるらしい。が、メニューの中で僕のわかるものが少なすぎる。生クリームといちごとバナナくらいしかわからない。キャラメリゼしたリンゴとは一体なんなのか、マカダミアナッツがどんな味なのか想像もつかない。

「ねえ、海里?」

「うわっ」

 悩んでいると、ゼノが僕の顔を覗き込む。

「何、綺麗でしょ俺の顔」

 自信満々な顔でそんなことを言うゼノ。自分の顔を見てうわ、と言われても、ゼノは全部プラスにとらえるんだな。いや、そうしているだけか。

「クレープ、俺のおすすめで注文するね」


「甘……」

「ね。美味しいでしょ。あの店、俺のお気に入り」

ドヤ顔とはこういう表情のことを言うのだろうか。苺に生クリームとチョコレートソースが大量にかかったクレープが甘すぎて、そんなことしか考えられなくなった。夕飯はいつもの半量でよさそうだな。

「海里ってさ、ほんとに放課後こうやって遊んだことないの?」

ゼノはクレープに齧り付きながら僕に尋ねた。

「ないよ。ゼノが初めて」

僕はクレープを飲み込みながら答える。

「じゃあこれからたくさん経験できる。海里は幸せだな」


 クレープを食べ終わった後、僕たちは近くの公園にあるベンチに隣り合って座った。

「ねえ、俺たちまだお互いのこと、何にも知らないからさ、今から俺の質問に答えてね。俺も答えるから」

 そう言ってゼノは、携帯の画面に表示された、百個の質問、と書かれたサイトを見せる。

「じゃあいくよ。えーまず、名前と年齢は」

どうぞ、とジェスチャーで回答を促される。

「海里。十七歳」

「ゼノ。俺も十七歳」

「同じ学年だからね」

「そっか」

ひとしきり笑い合って、次の質問。

「どれがいいかなあ。あ、これにしよう。趣味は?」

SNSにゼノのことを投稿するのが趣味だと言ったら引かれるだろうな。けれど、それ以外となると毎日学校に行って、帰ったら自分の分の食事を作って、時々スーパーに買い物に行くくらいだ。趣味なんて呼べるような大したことは何もしていない。

「特にないけど……あ、読書とかかな。図書館、時々行くから」

バッグの中に持ち歩いている財布から図書館の利用者カードを取り出してみせる。

「小説とか、料理のレシピとか」

「自炊するんだ、楽しそう。俺はね、歌うこととか、あとは運動するのも好き。あ、料理といえば、最近は母さんと一緒にスイーツ作ってる」

「へえ、すごいね」

「まだまだだけどね。上達したら食べさせてあげるから、楽しみにしてて。さ、次」

ゼノは髪を指にくるくると

巻き付けて鼻歌を歌いながら、画面をスクロールする。

「これにしよう。将来の夢は?」

「夢?」

「うん」

 将来なんて、ちゃんと考えたこともなかった。ゼノはきっと大きくて格好いい夢があるんだろうな、僕と違って毎日楽しそうだから。

「じゃあ俺から答える。俺はね、モデルかな。今も時々父さんの仕事のツテでさせてもらってるんだけど、いつか一人前になって、ランウェイとか歩いてみたいんだ。いろんな服着てみんなの前を歩くの、憧れるよね」

「ゼノ、すごい人だったんだね。それもそうか、背も高いし、綺麗な顔だもんね」

 流石に驚いた。綺麗な人は、僕なんかとは全く違う世界を見ているんだな。

「全然。モデルって言ってもまだ、父さんの仕事先のブランドのホームページに載っただけだよ」

そう言ってゼノは、自分がモデルとして起用されているというファッションブランドのホームページを見せてくれた。服はもちろん、ゼノのスタイルの良さが引き立っている。

「海里は? 将来の夢」

「特にないけど……強いていうなら、それなりのところに就職して、ちゃんと生活すること、かな」

なんて言ってみたけど、正直想像もつかないし、キラキラ輝いているゼノにそんなことをいうのは恥ずかしくて、それっぽいことを言ってみただけだ。

「海里ってしっかりしてるんだね。俺なんてこんななのにさ。面白い」

「ゼノはかっこいいよ。具体的な夢があって」

「そうかな? でも海里にそう言われたら嬉しいな。ありがとう」


 すっかり夜になった頃に、ゼノと僕は駅で別れた。

 まるで嵐のような一日だった。一体なんだったんだろうか。でも、綺麗だったな。

 SNSを開いて、

【綺麗な子に話しかけられた。これが夢じゃなくて、明日も話せたらいいな】

 と、ゼノから送られてきたクレープの画像と共に書き込む。携帯の電源ボタンを軽く押しスリープモードにすると、シンプルな黒い手帳型ケースのポケットに差し込んでいた、さっき撮ったプリクラが目に入る。ひどいものだ。僕はカメラと目が合っていないのに、ゼノは相変わらず綺麗に写っている。ゼノにはこんな、目が宇宙人みたいな過剰な加工なんていらないと思う。


「おはよう海里」

 朝、ゼノは登校してくるなり一番に僕のところへ飛んできて、あの完璧な笑顔で挨拶をした。

「お、おはよう」

 僕のぎこちない挨拶なんて全く気に留める様子もなく向かいに座って、

「ねえ昨日さ、夕飯がオムライスだったんだよ。母さんたらさあ、海里って子と友達になった、って言ったら感激してさ、俺の好きなもの作るって。だからオムライス、リクエストしたんだ。美味しかったよ、いつか海里にも食べてもらいたい」

 と話し始めた。

「あ、今日学食でオムライス食べようぜ。あれも美味しいんだよなあ、海里もきっと好きだよ」

 ポケットから付箋を取り出し、昼休み、学食、オムライス、と書いて、僕の机の端に丁寧に糊付けする。

「はい約束。あ、俺呼ばれたから行ってくる」

 別のクラスの友達であろう人たちが呼びに来て、あっという間にゼノは、教室の向こうに消えていってしまった。

 それにしても強引だ。そう思いつつも、僕は付箋に書かれた綺麗な字を指でなぞった。


「ゼノって、どうしていつも窓の外を見てるの?」

学食への階段を降りながら、僕はゼノにそう尋ねた。

「僕とゼノが……まだ友達じゃなかった時、ゼノはいつも外を眺めてた」

ゼノは、何か難しいことを考えるような素振りをした後、一言だけ、答えた。

「太陽が、よく見えるから」

「太陽が好きなの?」

「うん、好き」

確かに、ゼノは太陽に似てる。もしかしたら太陽の一部が分離して人の形になって、そうして生まれたのがゼノなのかもしれない。


「これ、このオムライス! ねえ海里も食べてよ早く! ほらあーん。あ、男同士であーんなんてキモいか」

「いや。……美味しい」

 学食とはなんとも言えない緊張感が溢れている場所だと思う。どこを向いても、見渡す限り人。以前の僕なら、ここにいる全員が僕を嫌っていると思っただろう。今はゼノがいるから、きっとみんな僕のことなんて気に留めずにゼノだけを見ていると思えて、幾分か気が楽だ。

「学食のオムライス最高だよ、毎日食べたいぐらい」

 なんて綺麗で楽しそうに話すんだろう。ほら、隣の女子が釘付けだ。女子だけじゃない、向こうの先輩も、あの一年生だって、やっぱりみんなゼノを見ている。

「ゼノ。明日は購買で買って、違うところで食べよう」

「うん、いいけど。オムライス気に入らなかった?」

「オムライスは、とっても美味しいよ」

 ゼノは不思議そうな顔をしていた。


「起立、礼、ありがとうございました」

一気に騒がしくなる教室。昨日まであんなに孤独だった教室でも、今日はまるで違う。ゼノが一目散に駆け寄ってくる。

「海里! 前髪切るからそのまま座ってて。これ、ここで持ってて。切った髪落とす用」

 購買の紙袋を手渡される。そして僕が返事をする間も無く、ゼノは僕の前髪を掬い上げ、サクサクと切っていく。

「もうちょっとかな……」

 どんどん視界が明るくなって、真剣なゼノの顔がよく見えるようになる。僕の前髪なんていくらでも切っていいから、この景色をずっと見ていたいと思った。

「できた。ほら海里見て、全然違う」

ゼノに手渡された手鏡を覗き込むと、まるで別人のように変わった自分がいた。果たして本当にこれが自分なのかはわからないが、ゼノが視界のカーテンを開いたことによって、僕は変わった。

「ねえみんな見て、海里の髪切った!」

 ゼノが大きな声でそう言うと、大勢のクラスメイトが僕に注目する。

「おー爽やか。名前、海里っていうんだ」

 クラスでも目立つ大柄な男子がそう言った。やっぱり僕なんて、名前すら覚えられていないんだと現実を突きつけられ、少し悲しくなった。

 そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、ゼノは僕と肩を組み、自慢げに言った。

「いいでしょ、俺の友達」

 ゼノが僕を友達と言ってくれたことが嬉しくて、自然と笑顔になった。

 僕はゼノによって生まれ変わる、ゼノの手で、新しい僕になる。そう、無意識に思った瞬間だった。


「ねえ、うちにおいでよ」

 すっかり短くなった前髪にも慣れたある日の昼下がり、学校の中庭で、ゼノは思いついたようにそう言った。携帯でお母さんとのチャットを開き、今日の放課後の予定を確認している。

「やった、今日来ていいって。ね、ジュースもケーキも出すからさ」

「悪いよ、そんな急に」

 ゼノは、僕の手を掴んで、前髪で隠れなくなった僕の目を、真っ直ぐな、まるで深い海のような瞳で見つめた。

「大丈夫。俺がいいって言うんだから、大丈夫なの」

 ゼノのこの目から、僕は逃れられた試しがない。


「ただいまー」

「お邪魔します……」

 ゼノの家は大きかった。学校の最寄駅から、僕とは反対の方向に電車に乗って、一〇分ほど。改札を出て、青い葉が生い茂る大きな桜の木を横目に平坦な道を歩いてすぐ。閑静な住宅街の中にあった。駅から近くて便利だな、と思った。

「あらゼノ、お帰りなさい。あなたが海里くん?」

 ゼノのお母さんらしい、綺麗で背の高い、金色の髪をした女性が部屋の奥から出てきて、僕に声をかけた。

「あ、あの、こんにちは。えっと……か、海里、です」

 緊張で変に吃ってしまった僕の声なんか気にもしない様子で、ゼノのお母さんは僕の手を取った。

「いらっしゃい、あなたに会えるのを楽しみにしていたわ! だってゼノったら、お家に帰ってきたら毎日、海里くんの話ばかり……」

「海里が一番の友達なんだよ、いいでしょ別に」

「ふふ。さあ、今日は私の母国から取り寄せたお紅茶があるのよ。早く上がって、あ、モンブランと、イチゴのショートケーキ、チョコレートのケーキ、どれが好きかしら?」

 ゼノは、早く、といいながら僕の手を引いて、家の中へと連れて行く。上品なスリッパを履き、靴を揃えて、僕は慌ててゼノについて歩く。

「あ、えっと、ショートケーキで……」


「それにしても、海里くんは本当にいい子なのね!」

 ゼノのお母さんは、僕のことをじっと見つめながらそう言った。

 僕は有名ホテルの名前が書かれたフィルムを剥がし、ケーキにフォークを沈めながらその言葉を否定した。

「そんなことないですよ……」

「いや、あるよ。海里は本当に優しいし、俺がこんなにも、心の底から仲良くなりたいと思ったのは、海里が初めてだよ」

 ゼノは僕の言葉を遮るようにそう言い切ると、僕を見て微笑んだ。

「本当に、ゼノがこんなに楽しそうにお友達と話しているのを見られて、私も嬉しいわ。海里くん、お夕飯も準備してあるから、食べて帰ってね」

 と、ゼノのお母さんはキッチンの方を向きながら僕にそう言った。

「悪いですよ、急に僕なんかが」

「いいのいいの、だって帰ったって、また自分で作るんでしょ?」

「それは、そうだけど……」

 そうだ。僕が家に帰ったところで、自分の分の、最低限の食事を作って食べて、食器を洗って終わりだ。でも、いくらゼノの家とはいえ、初めて来た家で夕飯までいただいて帰るなんて図々しいのではないか。

「俺、海里ともっと一緒にいたいなあ」

「そこまで言うなら、わかったよ」

 あの綺麗な顔でお願いされると、断れるわけがなかった。まあ夕飯くらい、いいか。

「海里、俺の部屋行こう」

「うん」


「俺、前から思ってたんだよね。海里ってさ、もっと髪アレンジして、第一ボタンなんかも開けてさ、そうした方がよくなるんじゃないかって」

 そう言ってゼノは、僕の髪に手を伸ばした。くしゃくしゃと撫で回すように一通り触ってから、鏡の下にある引き出しからワックスと書かれた丸い容器を取り出す。蓋を開き、ネックレスのパールのような大きさに取ったワックスを手の平に馴染ませてから、僕の髪に揉み込んだ。

「ほらこれ、いい香りでしょ。そこのね、ドラッグストアで、この間売ってたから買ってみたの。そんなに高いのじゃないんだけどね。俺はストレートが好きだからあんまり使わないけど、海里にピッタリだと思う」

 髪をブラシで梳かされる。仕上げに、と指で束を作ったり、手櫛を通したりされる、その手つきが心地よくて、僕は目を閉じる。

「完成。ほら、絶対こっちの方がいい。これあげるから、明日からこの髪型にしなよ。そうだ、こっちも」

 白い指が、滑るように僕のワイシャツのボタンに手を掛ける。スローモーションに感じた。その瞬間が、永遠のような、一瞬のような、感じたことのない、フワフワとした不思議な高揚感に飲まれた。こうしてゼノは僕を作り替える。外見から頭の中まで、ぜんぶがゼノの息がかかったものになる。脳が溶けて、身体に新しい布を貼って、ゼノのものになる。ただ暖かくて、幸せ。

「これで新しい海里の完成。なんか最近、俺が海里をプロデュースしてる? というか俺の人形みたいな。あはは、変なの」

そう言って笑うゼノは、僕の心を見抜いたような目をしていた。

(それでも、それでも僕は、ゼノに作り替えられて幸せだよ)

 それから僕たちは学校の宿題をしたり、ゼノのおすすめだという音楽をイヤフォンで聴いたり、普通の高校生らしく遊んだ。夢みたいだった。誰かとこんなに楽しい時間を過ごせるなんて、そして何よりも、ゼノがずっとこんなに近くにいるなんて。外から聞こえる蝉の鳴き声も忘れるくらい、僕はゼノの声や仕草に聞き入って、見惚れていた。


 夕飯に食べた、ゼノのお母さんが作るオムライスは絶品だった。ゼノがあんなに褒めるのもわかる気がした。とろとろの卵、酸味が強すぎないデミグラスソース、ほんのりバターが効いたチキンライス。

「ゼノ、美味しい」

「海里ならそういうと思ってた。母さん、よかったね」

 僕が夢中でオムライスを口に放り込むのを、ゼノは微笑み、時折自分のオムライスを食べながら見つめていた。

 甘ったるくて幸せな時間だった。


「はい、これ」

 帰り際、小さな包みが手渡された。

「開けてもいい?」

「うん」

 綺麗に結ばれたリボンを解いて中身を手に出してみる。それは、綺麗な青色をしたシャープペンシルだった。

「実はこれね」

 ゼノが制服のポケットから、白色をした、同じ形のペンを取り出した。

「お揃い。海里は名前に海って入ってるから青。俺は、ビビッと来たから白。明日から学校で使おうぜ」

 白い歯を見せてゼノは笑う。途端にペンが重くなった気がした。ゼノがくれたペン、ゼノが僕のことを考えて買ったペン。お揃いで使っているのは、ゼノと僕だけ。世界でたった二人。

「ありがとう」

 僕は涙が止まらなくなってしまった。どうしてだろう、嬉しいのか悲しいのか、自分がなんで泣いているのかわからない。でも多分、嬉しいんだろうな。初めてこんなに優しくされた。暖かいご飯を食べて、大好きな人に歓迎されて。オムライスもケーキも紅茶も美味しかったな。

「どうしたの。ねえ、俺送ってくから、ね。母さん、ちょっと海里送ってくる!」


「ねえ、なんで泣いてるの」

 夜風に当たると余計に涙が溢れてきてしまう。

 ゼノは制服のポケットに入っていたハンカチで僕の涙を拭いてくれた。

「だって、嬉しくて」

「そんな、泣くほど?こんなのこれからもっと作ろうよ。そうだ、放課後に買い物行ってさ、今度はノートでも買おうよ」

「うん、買おう」


「ここまででいいよ」

僕のアパートの前まで、ゼノは来てくれた。

「そう? それじゃ、また明日。ちゃんと寝ろよ!」

「あはは、お母さんみたい。ちゃんと寝るよ。また明日」

 ゼノに手を振って、僕は玄関の扉を開けた。ゼノの家とは全く違う、暗くて無機質で、温かみのない玄関だ。

「ただいま」

 こんな呼びかけをしたって誰もいないのに。


SNSを開いて、【今日もあの人に作り替えてもらった。僕は人形だ。幸せ】と投稿する。すると、いつも投稿を見てくれているアカウントからコメントが来た。

【カイリさんとその方はお友達なんですか?】

 友達か。多分、これが友達なんだと思う。今までずっと一人だったから、どういう関係が友達なのかわからない。でも、ゼノが僕を友達と言うのなら、きっとそうなんだろう。

【彼は僕を友達だと言ってくれます】

 コメントに、そう返信した。


 それから少しずつ、僕は学校でも人気者になった。否、人気者というのも違うかもしれない、正確には、ゼノの恩恵を受けた。

 ゼノが、僕を新しい僕にした。僕は明るくてみんなと会話ができる海里になった。お揃いのペンで授業を受け、同じデザインのノートを見せ合った。偶に、他のクラスメイトに見せびらかしたりした。

「お前ら二人ってほんと仲良いよな」

「くっついてないと死ぬのかと思えてくる」

 そんなことを言われる度、ゼノは自慢げに僕の手を取って、

「一番の友達」

 と言うのだ。僕はそれが嬉しくて、まんざらでもないような顔をしてみるのだった。

 遊びに行くのはゼノだけだった。他のクラスメイトと会話はしても、放課後は部活動をしている生徒たちを横目に、ゼノと二人で校門を出て適当なベンチに座って話をしたり、時にはクレープを食べに行ったりする時間になった。僕は、クレープの注文が上手くなった。お気に入りのフレーバーだってある。キャラメリゼしたリンゴだってわかるし、マカダミアナッツの味だって知っている。

 側から見れば、僕たちはよくいる高校生の友達同士に見えたに違いない。そしてゼノも、きっとそう思っていた。僕はずっと信じていた。ゼノが神様で、僕が人形。どんどん作り替えられて、ずっと“友達”でいる。それは、僕の心の奥底で、あの日、初めて生まれ変わった日にした、僕だけの誓い。


 僕の家、狭いアパートの部屋。その一角に、僕が大切にしている棚がある。元は確か近所の百円ショップで買ってきただけの、プラスチックでできた白くて小さな棚。それを洋服用タンスの上に置いてある。そこに、ゼノに関連するものを置いている。誕生日にもらったハンカチ、いつか二人で帰った日、近所の公園で拾った木の葉。これは百円ショップで買ったラミネートシートでラミネートしてある。それに、ゼノからもらったワックス。ゼノの指が、この中身を掬って柔らかい手のひらに広げ、あの綺麗な髪に馴染ませたんだと思うと、どうしてもこれは使えなかった。家の近所にあるドラッグストアに行き、同じものを買って使っている。時々、ゼノがこのワックスの匂いを嗅いで、好きだと言ってくれるのが嬉しい。

 この棚の前で、毎晩何も考えずにしばらく立っている。頭の中で、僕だけのゼノが笑いかけてくれている。細い髪に手を絡ませ、白い指と肌に触れることだってできる。僕にだけ笑いかけてくれる、大好きなゼノ。ずっとこうしていたい。

 その後、今日のゼノのこと、美しかったことをSNSに投稿する。今日は、五時間目の授業中に見たゼノのことを書こう。

【あの人は横顔まで作り込まれている。窓の光が彫刻のような横顔を照らしていて、綺麗だった】

 と書き込んで投稿。これで、今日一日で付いた汚れ、汚れた思考を少しでも落とせるような気がした。これでも僕はまだ、美しくて綺麗な人間にはなれない。ゼノの隣に立っていて、恥ずかしくない自分でありたい。そのために僕は毎晩欠かさずこの儀式を行い、定期的に髪を整え、以前より大きくしっかりと目を開いて、少しでも自分に自信のある人間に見えるようにしているのだ。


 僕は僕が嫌いだ。黒くて光を通さない髪に、不幸です、とでもいうような薄い顔立ち。パーツの配置だけはまだマシと思うけど、芸術品としてはイマイチ。この暗くてうじうじした性格も、なんでもネガティブに考えてしまうのもやめたい。けれど、僕が僕じゃなくなってしまったら、一体どうなっていたのだろうか。この性格じゃなかったら美しいものに出会えていなかったかもしれないし、ゼノと、こうして近づくこともできなかったかもしれない。そう考えると、今の僕でよかった。

 こうやって結局全部を認めてしまう、甘えたところも嫌いだ。

 それに比べてゼノは美しくて、例えるなら芸術品のようだ。筋が通った高い鼻に、過不足のない分厚さの唇。青い目は水晶のようだ。色々な国の血が入っているんだと自慢げに話してみせた金髪はサラサラで、毎朝お母さんが梳かしてくれる以外、特に何もしていないという。いい年をして少し恥ずかしいんだとゼノは言ったけれど、そんなに優しい親がいるのならいいと思った。僕が家で一人でいる間も、ゼノはあの明るい家で、お母さんの美味しい料理を笑いながら食べているんだ。僕が笑うことなんて、ゼノといる時くらいしかないのに。


 その夜、夢を見た。ゼノが僕を置いて、失望したと言って、一人でどこかへ行ってしまう夢。僕の足にはつたのようなものが絡まって、その場から動けなくて。何もかもが僕から離れていって、最後に僕は、暗い奈落の底に落ちていった。

 目が覚めた。冷や汗が止まらない。冷蔵庫からペットボトルを取り出して、乾いて粘膜同士がくっついた喉に流し込む。息が荒い。怖かった。僕はいつか、ゼノに見捨てられてしまうのだろうか。ゼノは僕を、僕なんかを友達と呼んでくれて、一番近くに居させてくれる。それなのに僕は、一体ゼノに何ができている?



「ゼノってさ、綺麗な顔してるよな」

ある日、休み時間にクラスメイトたちと談笑していると、一人がそう呟いた。近くにいた女子がそれに乗っかって、

「本当。ゼノくんって、私の知ってる誰よりも綺麗だよ。いいなあ」

と言う。ゼノは、あの何を考えているかわからない顔で笑っていた。


「ねえ海里もさ、俺のこと、誰よりも綺麗だって思う?」

 帰り道、石を蹴りながら歩いていたゼノは、僕にそんなことを尋ねた。

「それは勿論、そうに決まってる。美術館に行ったら、どんな作品よりゼノの方が綺麗なんじゃないかな」

「……そっか」

 もの悲しそうな表情を見せたすぐ後に、いつもの笑顔を見せた。でもその目は、いつもより濃い青色だった。

「でもね、正直に言うと、僕以外の人がゼノを綺麗だって言ってるの、なんか嫌だった。ああ、勘違いしないで、ゼノは本当に綺麗なんだよ。だから違って、やっぱりゼノはモデルに向いてると思うし、僕は友達で嬉しいよ」

僕は必死になって弁解しようとした。ゼノが僕だけに笑っていてくれればいいと思ってしまうことは、よくないことだ。

「ふふ、海里ったら可愛いね」

ゼノの手が僕の頭を撫でる。やっと、ゼノがちゃんと笑っているところを見られた。嬉しくて、誇らしい気分になった。けれど、少し気恥ずかしかった。


 それからずっと考えていた。ゼノを見ていると、とても美しいと思うと同時に、自分がひどく醜く思えてくる。あまりにも綺麗だから、まるでお前は無価値だと言われているようで、ゼノと話すたび、自分がどんどん汚れていくような気がする。何度生まれ変わっても僕は結局、汚れた僕のままだ。ゼノのような清い存在にはなれない。心の奥底だけは、どれだけの神様でも、美しいものでも、作り替えることはできないんだ。これ以上入り込むのはやめた方がいいんじゃないか。昔のまま、遠くから眺めているだけでよかったんだ。もう疲れた。自分のことばかりで本当に情けなくなるけれど、僕はゼノを、純粋な友達だと思えてないんだ。ゼノは僕の中で絶対的な存在で、これは何があっても変わらない前提。でもそれは、ゼノは僕を友達だと言ってくれたのに、それを裏切るようなことをしているのだと思う。それならいっそ、これ以上酷い人間になる前に、きっと前の関係に戻った方がいい。それから僕は、ゼノから離れることにした。


「海里おはよう、今日放課後遊びに行こうよ」

「ごめん、今日は用事がある」

「そっか。じゃあまた」


「海里、学食行こう」

「ごめん、今日は一人の気分なんだ」


「海里」

「ごめん」


 彼の美しい姿を両目でしっかり捉えると、どうにかなってしまいそうで、目を合わすこともなくなった。最初こそ変わらず僕に話しかけ続けたゼノも、しばらくすると話しかけてこなくなった。


 ある日、ゼノは珍しく僕に話しかけてきた。

「今日の放課後、いつもの公園に来て」

 それだけ伝えて、教室を出て行った。いつもの公園というのは、僕とゼノがよく寄り道をした公園のことだろう。何だろう、今更。嫌な予感がした。


 公園には既にゼノが待っていた。初めて会った日に話したベンチに座っている。心臓がチクリと痛む。

「ゼノ」

「海里」

 声をかけると、ゼノは一瞬嬉しそうな表情を見せた。でもすぐに神妙な面持ちに戻り、僕に座ることを促した。

「あ、えっと、飲み物、とか……」

どうしていいかわからず、僕は財布を持って立ち上がり、自販機を指差した。

「なんでもいいよ」

ゼノはそう言ったきり、俯いて何も言わなかった。仕方なく、ミネラルウォーターを2本買い、そのうちの一本をゼノに手渡した。

「ありがとう」

俯いたまま、その言葉だけが帰ってきた。ペットボトルの蓋を開けて、二人して冷たい水を流し込む。暗い雰囲気の中、先に口を開いたのはゼノの方だった。

「ねえなんで、俺のこと避けるの」

 ゼノは悲しそうな目で尋ねた。

「俺、なんか悪いことした?やっと海里と友達になれたって思ったのに」

ゼノの手が、僕の手を掴む。震えているのがわかる。

 やめてくれ。そんな顔で見ないでほしい。罪悪感と劣等感が入り交じった感情に脳が支配されていく。何故か、勝手に涙が溢れてくる。

「僕は、」

 言葉がつかえて上手く出てこない。

「僕は、友達じゃない」

 やっとの思いでそう呟き、咄嗟にゼノの手を払い退けてしまう。乾いた衣擦れの音だけが妙に響いて、僕は耐えられずにその場から逃げ出した。最後に見たゼノの綺麗な顔に、一筋の涙が伝っていたような気がした。


 あれからしばらく経って、僕とゼノの間に距離が感じられるようになった、ある日の放課後。もう寄り道をすることもなく、今日も真っ直ぐ帰ろうと帰宅準備をする僕を、ゼノは明確に、睨んでいた。丸くて形のいい目を細めて、とても鋭い視線をこちらに向けている。好きだと語っていたあの太陽を背負って眩しいほどに輝くゼノを、僕は咄嗟に美しいと思ってしまった。僕の中で、何かが壊れる音がした。信じていたものが、ボロボロと音を立てて崩れ落ちた。


 一晩中眠れなかった。そうして迎えた朝、着替えたものの、どうしても玄関から出られず、学校を休んだ。ゼノが怖くて、というよりゼノと向き合うのが怖くて行けなかった。自分がしてしまったことへの後悔が溢れて、頭が割れそうに痛くなった。ゼノはあんなにも優しく、僕なんかの友達でいてくれたのに、ずっと、何度も、あんなふうにあしらうなんて、ゼノはどんな気持ちだっただろうか。折角友達だと言ってくれたのに、自分の勝手な気持ちであんなことを。そもそも僕なんかが調子に乗って、ゼノを傷つけないように、なんて自己都合にも程がある。ゼノが友達だと言ってくれていたのだから、僕は自分を変えてでも友達でいるべきだった。そうだ、僕にとってゼノは絶対。ゼノは神様だったんだ。

 世界から見放された気がした。傍らにあった学校のプリントを、グチャグチャに丸めた。もう終わりにしよう。してはいけない事をしてしまった。罪を償わないといけない。学校に行き損なった制服のまま、家を飛び出した。


 ゼノがいつか来ようと言っていた海に来た。海岸に座り込んで、携帯を取り出した。ゼノと僕の、最初に撮ったプリクラが目に飛び込んでくる。優しい笑顔でこちらを見つめるゼノと、あの頃のままの僕。結局僕は何も変わっていない。懺悔の気持ちでいっぱいになった。涙でボロボロになったプリクラは、海に流した。自分と海の写真を撮って、SNSに

【してはいけないことをしてしまった。罪を償うために死にます】

 というコメントと共にアップする。これで、やり残したことはない。叶うなら一度だけ、ゼノになってみたかったな。あんなに美しい姿をして、あんなに優しい性格だったら、僕もこんなに落ちこぼれることはなかったのかな。神様、次の世ではどうか、ゼノにしてください。僕もそちら側に行かせてください。



 結局怖気付いて、死ぬことなんてできなかった。腰の辺りまで水に浸かったが、足がすくんでそれ以上前に進めなかった。

 代わりに、腕にゼノとお揃いのシャープペンシルを突き立てた。完全に死ぬのは怖かった。でも、どうにかして絶対に、少しでもこの罪を償わなければならない。傷口から血が流れ、何度も繰り返されたそれは、潮風によって冷やし固められ、第一ボタンの開いた白いワイシャツが血に塗れていく。

 もう終わりだ。僕は何をしているんだろう。ふと、携帯がずっと通知を鳴らしていることに気がついた。もう開くこともないだろうと思っていたロックを開き通知を見ると、それはSNSの通知だった。鳴り止まない通知音に恐る恐るアプリを開くとそこには、僕の本名、学校名と中学の卒業アルバムの写真が載っていた。

 さっきの写真に写り込んだ制服から特定が進んでしまったらしい。以前からフォロワーの数だけは無駄に多かったこのアカウントだ、あんな投稿をすればここぞとばかりに、人の特定が好きな奴らの餌食になること間違いなしだ。僕が、悪いことをしたから。これはきっとゼノから僕への罰なんだろう。後ろの公道を学校帰りの女子生徒たちが大きな声で笑いながら通り過ぎる。きっと僕のことを知っていて、死ぬことさえできない意気地なしな僕を笑っているに違いない。もういいや。どうにでもなれ。それでも死なないから、僕はメチャクチャになりながら生きていくしかないってことか。でも、叶うなら、僕を認めてくれる場所が、相手が欲しかったな。もっと綺麗な人間だったらよかったのに。誰も僕を認めてくれなくて、唯一優しく接してくれたゼノのことを僕は裏切ってしまったのだから。ただ、無条件に僕を愛してくれる人が欲しい。苦しい。この気持ちを吐き出したい。もっと美しいものを見ていたい。認められたい。そんな一心で携帯をもう一度手に取って、投稿を削除し、新しいアカウントを作った。パスワードを設定し、プロフィールを入力。はじめる、と書かれたボタンをタップした瞬間、僕の意識は途切れ、世界が暗転した。



 目を覚ますとそこは、知らない家のベッドの上だった。訳もわからず、枕元にあった透明のケースがついた携帯を開くと、見覚えのあるSNSアプリがあった。他人の携帯を勝手に使って、悪い気はしたが、今の状況が全く分からないのでとりあえずアプリを開いてみる。ログインしているアカウントは投稿が追加されてアイコンまで変えられているが、どうやらさっき僕が作ったアカウントだ。投稿内容を見る限りまるで、いわゆる陽キャの男子らしい。アカウントが乗っ取られた? そもそもここはどこだ? 一旦情報を整理しようと画面をオフにする。真っ暗な画面の奥には、自分とは程遠い姿の人間がいた。短く切り揃えられた髪、胸元の開いたシャツ、耳にはフープ型のピアスが二、三個ぶら下がっている。驚いて携帯を落としてしまい、拾い上げようと地面を見ると、学生証が落ちていた。自分と同じ学校のものだ。

「オオヤ……ショウマ?」

 大矢翔真、三年生。記憶の片隅にいる名前。確か、学校でも有名な目立つグループの先輩だ。まさか自分は大矢先輩になってしまったとでもいうのだろうか。その時、大きな着信音が鳴り響く。思わず応答ボタンを押してしまい、恐る恐るスマホを耳に当てる。

「おい翔真! お前駅前集合って言っただろ、また昼寝かよ! なんでもいいから早く来い、みんな待ってんだよ!」

 返事をする間も無く、通話は途切れてしまった。どうしよう、でもとりあえず行くしかないか。これまた乱雑に床に落ちていたバッグに、財布と家の鍵らしきものが入っているのを確認し、携帯をそこに投げ入れて外に飛び出した。

 勢いで飛び出したのはいいものの、よく考えれば駅前というのが一体どの駅を指しているのかわからない。再び携帯を取り出し、地図を確認する。近くに駅がある。僕の最寄駅の、隣にある駅だ。

 そこからしばらく走って気がついた。僕はどうやら迷ってしまったらしい。この辺りは路地が入り組んでいてわかりにくい上に、夏の日差しが灼熱地獄のように照り付けて、しっかり頭が働かない。

「もう駄目かも……」

 思わず呟いた僕を、通りかかった少年が不思議そうに振り返った。


 やっとの思いで辿り着いた駅前には、いかにも柄の悪そうな、以前学校で見たことのある集団がいた。恐る恐る近づくと、その中に一人に大声で怒鳴られる。

「翔真! お前いい加減にしろよ」

「ご、ごめん」

「まあいいや、行こうぜ」

 集団はゾロゾロとすぐ側のカラオケに入って行ったので、急いで追いかけた。


「というわけで! 体育祭お疲れー!」

グラスに入った飲み物をぶつけ合う。そういえば体育祭なんてあったな、僕は参加しなかったからすっかり忘れていた。そんなことを考えている間に、大矢先輩の友達らしき人たちは次々と曲を入れて歌い出す。どうしよう、ノリ方が分からない。とりあえず楽しそうに見えるように、手を叩いたり笑って見せたりしていると、

「翔真、今日ノリ悪くね? いつも一番に歌うのに」

 そう突っ込まれてしまい、どうしようもなくなってしまった。困り果てた僕が出した答えは、

「あー……みんなの分の飲み物、入れてくるね」

 だった。

「どうした? お前いつもパシる側じゃん。陰キャみてえ」

「あはは……」

 ドリンクバーの前で、限界がきた。大量のグラスを持ってしゃがみ込む。どうして陽キャというのはあんなに馬鹿騒ぎできるのだろうか。何が面白いのかよくわからないギャグに、全員が手を叩いて笑う。ふざけた声で流行りの曲を歌って笑いをとる。部屋を出るときに言われた言葉。いつも教室の隅で目立たないようにしている自分を馬鹿にされているようで、居心地の悪さに耐えられない、吐き気がする。落ち着いて、普段の自分ならどうするか考えよう。そうだ、SNSに投稿して吐き出そう。

 いつも通りアプリを開くも、そこにあったのは陽キャ、大矢先輩のアカウントだけだった。さすがにこのアカウントでカラオケ大会の愚痴は言えない。そう思った僕は、新しいアカウントを作ることにした。

「プロフィール、ユーザーネーム……はじめる」


 僕は電車に揺られている。さっきまでカラオケにいたのに、どういうことだろう。視界に入るのは、黒い髪の毛。一瞬自分に戻ったのかと思ったが、よくみると僕の髪よりかなり長い。それに、自分の両腕で抱えられ膝の上に置かれている、シンプルなリュックサック。一番大きなポケットの中を覗いてみると、パソコンが一台と本が数冊。外ポケットには白地に小さな花柄と、シンプルなケースの携帯。まるで、正月にあった親戚の集まりで見た、女子大生のいとこのような持ち物だ。その時、大矢先輩だった時のことを思い出す。あの時は、僕が作ったアカウントはそのまま存在していた。もしかして、と思い、SNSを開いてみる。やはり、さっき作ったアカウントがあった。投稿内容は自分の特定されたアカウントと似ている。美術品や日常の美しいものの話をしているようだ。そこでようやく気づいた。夢か、なんなのかわからないが、僕がアカウントを変えると転生する仕組みらしい。そうなれば今しなければいけないのは、僕が体を借りているこの人は誰なのか知ること。丁度駅に着いた電車を降り、ホームのベンチに座って、リュックサックを開いた。

 全てのポケットを広げて、出てきたのは芸術大学の学生証とメモ帳。平松陽茉里、と印刷された学生証には、丁寧に住所まで書いてある。携帯の地図アプリで住所を入力すると、ピンが立って場所を教えてくれる。運良くここが最寄駅。ひとまず、この人の家には帰れそうだ。そしてメモ帳を開くと、買い物メモ、とご機嫌なイラスト付きで書かれたページが最後だった。人参、ジャガイモ、豚肉……どうやら帰りにこれを買って帰るつもりだったようだ。その下に小さく、家賃、と書かれてある。なるほど、一人暮らしか。

 あんなに絶望していた人間にも、体が変わると食欲が湧いてくるもので、記憶の中にある、具材がゴロゴロとたくさん入ったカレーライスを、帰り道にあったスーパーで買った材料で作った。悪いとは思いつつ、今ここに住んでいるのは紛れもなく僕なのだから、と開き直り、整理されたテーブルの上に、スプーンとカレーライスを置いた。

「いただきます」

 小さい頃、誕生日に母さんが作ってくれたカレーライス。一度きりだったけど、美味しかったな。この味、久しぶりに食べた気がする。ルーは昔、仕事で忙しい母の代わりにお使いを頼まれて買った記憶のある、一番安い特売のもの。それでもこれは、間違いなく僕の思い出の味だった。

 夢中で食べていると、テーブルの端に置いてあった、見覚えのあるデザインのが目に入った。これは前に SNSで見たことのある、美術館の広告だ。実はずっと行ってみたかった。僕がそんなところに一人でいる姿を笑われないか怖くて、なかなか行くことができなかった。でも美大生なら、今なら行けるかも。これはチャンスかもしれない。明日はここに行こう。SNSを開き、

【明日はこの美術館に行きます】

 とホームページのリンクを貼って決意表明のつもりで投稿し、食器を洗ってソファで横になった。


 翌朝、長い髪を梳かすことから始まった。いくら元が男の僕でも、寝起きのこのままの髪で出かけるのがあまり良くないことはわかる。そういえば僕も、前髪が長がった頃、こうして自分でで梳かしていたっけ。なんとか真っ直ぐにして、次は朝食。人の家のものを勝手に食べるのも少し気が擬けたが、それは今更だ。

「あった」

 キッチンを歩き回って、広めのお皿を見つけ出した。そこに、昨日買った食パンを乗せ、目の前にあったオーブントースターに突っ込む。適当に焼き色がついたところで取り出し、冷蔵庫にあったマーガリンを塗って、テーブルへ。広告の裏に印刷されている、美術館へ最寄り駅からの地図を眺めながら、束の間の静かな食事をとった。



 電車を降りて、美術館の特徴的な形をした屋根が見えた。その方向に歩いていくと、大きな建物のわりに、周りに人はそれほどいなかった。ここが特別大きな観光地というわけでもないからか、評論家らしき男性と、何人かのグループで来ている女性たち、あとは僕だけだ。美術館なんてこんなものか。どうやら一般的には、こんな平日に一人で、美術館に行くことだけを目的に家を出てくる人はあまりいないようだった。普段の僕なら、いくら美術館が好きとはいえ怖気付いて帰っていただろう。でも、今は違う。芸大生の肩書を手に入れたんだ。チケット購入窓口で持ってきた学生証を提示した時、なんとも誇らしい気分になった。

 そんな経緯を経て手に入れたチケットを握りしめ建物の中に入ると、まず目に飛び込んできたのは、この作家の代表作とも言える、広告にも採用されていた絵画。長い髪の少女が木陰で涼んでいる姿。一見普通の絵画だが、色使いが独創的だ。空は通常の何倍も濃い青色で、雲はうっすら赤みがかっている。木々はところどころに黄色や青が散りばめられていて、この絵全体が不思議な雰囲気を醸し出している。我を忘れて見惚れていると、僕の後から入ってきた、六十代くらいの女性に声をかけられた。

「あなた、この絵が好きなの?」

女性は、優雅に微笑みながらそう尋ねた。

「好きというか……素敵だな、と思って。少女がまるで本当に生きているみたい。でも、現実にあるような空や自然の色ではなくて、まるで……空想の世界みたいで」

「そう。……この絵はね、あなたのいう通り、空想の世界がモチーフになっているのよ。けれど、作者はこの絵を描いた直後になくなってしまうの。病気の治療より絵を描くことを優先していたらしいわ。だからこれが最後の作品。最期まで美しい世界に憧れを抱いていたのね」

「そう、なんですか……」

 僕は、女性の話に聞き入っていた。この作者はもしかして、僕と似ている部分があったのではないか。自分の理想である美しいものが好きで、ずっとそれを追い求めている。そう思うと、胸が苦しくなるような感覚がした。憧れ続けて、ついには辿り着けなかったということだから。どんなに辛く苦しい人生だったか。僕に同じことができるかと言われれば、できないと思う。だからこそ、この絵の美しさが、思いが伝わってきて、目が離せなくなった。

「ごめんなさいね、突然話しかけて。これ、あなたにあげるわ」

 そう言って女性から手渡されたのは、この美術館の入場が一年間無料になるパスポートだった。僕も気になって調べたことがあるけど、確かそれなりの値段がしたはずだ。

「こんな大切なもの、いただけません」

「いいの。私、今度引っ越すことになって。突然決まったことだからこれも買ったばかりなのに、もう来られなくなってしまって。でも、最後にあなたのような素敵な感性を持った人に出会えて嬉しかったのよ。是非受け取って」

 そう話す女性の目は少し潤んでいた。この美術館が、美しい展示が、心の底から好きだったのだろう。僕は少し迷ったが、そう言われると受け取るしかなかった。

「ありがとうございます。きっとまた来ます」

 そう伝えて女性と別れた。僕だって、この体の持ち主、陽茉里さんだって、きっと来たかっただろう。


 大きな吹き抜けのような展示室に、人が集中している場所があった。無性に気になって、その人だかりの中に入る。そこにあったのは、遠くを見るような瞳をした、美しい金髪の青年の絵だった。その瞬間、頭が真っ白になるような感覚に襲われた。他人の人生に集中して忘れかけていた、忘れてはいけない存在。その絵は、ゼノにそっくりだった。


 結局その後ろくに展示品を見ることもできず、電車に飛び乗って帰ってきてしまった。ゼノと過ごした記憶が洪水のように頭に流れ込んできて、どんどん苦しくなる。ゼノは僕を許してなんかいなかった。あの目がずっと僕を睨んでくる。僕は気づいていた。ゼノが、美しさを示すことをまるで使命のように考えていることも、それでも自分の外見にとらわれず対等に接してくれる友達を欲しがっていたことも。けれど僕にはできなかった。勝手な感情で対等な友達としてではない目線を向けて、自分の保身のためだけに裏切った。ゼノにとって、ゼノから見て僕は、最低で最悪な友達だったと思う。それでもやっぱり、ゼノは僕の全てなんだ。ゼノがいないと生きていけない。自分とは別の存在として崇めることが許されないのなら、僕がゼノになりたい。

 操られるようにSNSを開き、新しいアカウントを作った。


 それから僕は意図的に転生を繰り返したが、何度繰り返してもゼノにはなれなかった。毎朝目が覚めるたび、ゼノから離れていく感覚に襲われて絶望した。

 ゲームの好きな小学生、友達の多い女子高生、この春社会に出たばかりのサラリーマン。ありとあらゆる人生を覗き見した。全ての人生を狂わせている自覚が日に日に増していく。

 ある時、中学生になった時。ゼノを見た。

 部屋の窓から見下ろした下校中のゼノは、半袖のシャツに薄いニットのベストを着ていた。ここのところ、夜には少し肌寒く感じるからかな。ゼノは細いから、きっと気温の変化に弱いんだろう。僕の知らないゼノだったけど、綺麗な髪は少し伸びて、水晶のような目は僕のよく知るものだった。懐かしくて、同時に僕はあの美しさが大好きだと思って、余計にゼノになりたい気持ちが増してしまった。声をかけるのはやめた。今の僕が話しかけても何にもならないということもあるし、何より僕はもうゼノの友達ではないから。


 季節が変わり、暑かった夏はどこかに行ってしまった。教室に入りマフラーと手袋を外す。

「おはよう! 今日も綺麗だね、私なんて朝から化粧しても全然なのに」

 手に息を吹きかけて温めていると、女子に声をかけられる。

「そんなことないよ、今日も頑張ろう」

 僕はそう返事をし、窓側の席で太陽の方を見つめる、綺麗に切り揃えられた黒髪をした生徒に声をかける。

「おはよう、海里」

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インターネット転生 幻夢儚 @genmuhakana

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