狂気の足音

「良かった時雨ちゃん、時間までに戻ってきてくれて」

「いやぁ、心配かけたねー」


 時雨は、これはもうかつてないほどウッキウキな状態で、バスに戻ってきた。まるで違法な薬でも使ったんじゃないかと思うぐらい、別人のように悦に入っている。諦めて、今を生きることを宜えるようになったのだろうか。


「そう言えば、あのカバンって取り返せたの?」

「うん、何か同じ学校の人で、ものすごく謝られながら返してもらった。それより、どこ行ってたの、心配したんだよ?夜も眠れないぐらい」

「何か悪い人にほいほい付いてったら、すっごいきれいな満開の桜が見られてさ。いやもう、言葉にできないほど、桃源郷かなーって思うぐらい。これがしゃしーん」


 時雨は薄紅色の満開の桜と、雪の残る北アルプス、澄みわたる青空に、足元に広がる農村を同時に収めた、至高の一枚を見せてくれた。たった数時間前まで、そんな場所にいたのだから、天に昇るような気持ちが冷めなくてもおかしくないと、言葉以上に伝わってきた。


「でねー、その後桜肉も食べたんだよー。これがたまんないんだな、特にたてがみがね。いやでもそれだけじゃないよ、馬肉の焼肉は初めて食べたけど、一口で尋常じゃないブツだと見抜いたよ。あんなに上質な肉は食べたことない。全ての肉は鶏肉の味に帰結しがちだけど、あれは目隠しして小さじ一杯だけ食べさせられても、馬肉だと見抜ける自信があるね」


 こんなに淀みなく話せる子だったとは……。私は圧倒されて、相槌すらまともに打てなかった。でも、時雨は一歩踏み出すエネルギーを得られたんだから、私は一安心しなければならない。なのに、この刺々しい感情は収まらない。勝手に変わられてしまった。神に何度祈ろうと、何一つ変わらないのなら、自身が神に近付く以外にない、かもしれない……。


 窓に映った自分の笑顔を見て、卑しい作り笑いは似合わないなーと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る