キルノット
春嵐
Side. 1
ゆっくり、ゆっくり。歩く。
なにもかも、置いてきた。何も残っていない。
うそ。お財布と、カードと、小物類。携帯端末。普通に持ってる。ちょっと血が出てるので、テーブルナプキンの換えも。ちょっと多めに持ってる。
歩く。景色も、空も。特に気にはならない。見えてるけど、見えてない。わたし自身みたいだと思って、ちょっと笑ってしまった。こんなことで。こんな自分に。冷めた笑いを許容してしまう。この程度の。わたしに。
この景色と同じ。この空と同じ。見えてなんか、いない。わたしの存在と同じ。
携帯端末。ふるえる。
連絡。進み具合はどうなってますかというやつ。
放置。
通知も切る。
というか電源も切る。
もう、いらない。
才能というものが、よく分からなかった。こうやって生きてきたから、それ以外を知らない。それだけで、だから、何か比較しようという気もなかった。気付いたらここにいて、ここで、よくわかんないもののデザインをしている。いや、していた。もう、戻らない。
あなたの作るものは素晴らしい。
納期よりもはるか前に完成させてもらえるなんて。
こんなに素晴らしいものができあがるんですね。
あなたに頼むとスキームが格段に
そんなことを言われ続けて、そして。いま、全てを放棄して、ゆっくりと歩いている。
何かを生み出すときに、なやんだり、くるしんだり。なにもかも分からなくなったり。何も出てこなくなったり。そういうものとは無縁だった。というより、そういう感覚自体を、知らない。世間一般で言われているような芸術家の
何かがあるわけでもない。かといって、何もないわけでもない。それだけ。だから、生み出しているわけじゃないし、真似しているわけでもない。そこにある。それだけ。
いやだな。
声も出ないぐらいに。ぼそっと。呟く。
この状態が。
なにもかもを置いてきて、ひとりゆっくり歩いている今が。なんか、そういう、懊悩する芸術家のやりそうなことで。
やだ。
呟く。何がやだなのか分からないけど。やだ。なんかやだ。
でも。どうしようもなかった。どうしようもないから、とぼとぼ、歩いている。行き先もないし、帰る場所もない。
「お。いたいた」
彼。わたしの。
「切るなよ。携帯端末」
なんでわたしの位置が分かるのよ。
「端末の電源切ると俺に通知が来るから、電源は切るなって。言わなかったっけ?」
言ってたかも。なんかデータが飛ぶとか飛ばないとか。
彼に携帯端末を緩く投げつける。
彼。手もとが光る。わたしの端末、電源オン。その光で、夕暮れだと気付いた。
「仕事の連絡来てるけど」
いいよそのままで。もうどうでもよくなった。
「どうでもよくなったって、そりゃあ」
彼が、言葉を飲み込む。一端の芸術家みたいなことしやがって。たぶん、そんな感じのことを言おうとしたんだと、思う。
彼。普段誰に対しても敬語で、誰にも優しくて丁寧で、それでいて、壁がある。そしてわたしにだけ、敬語がない。壁がない。そういうところがちょっといいなと思って、一緒にいる。
でも、それだけだった。
砕けた口調で、壁もなくて、気さくで。それでも、べつにわたしに興味があるわけではなさそうだし。というか、いつも。心ここにあらずというか。わたしではない何かを、見てるような。
そう。今の、わたしみたいな。いつもそんな感じなのが。彼。
「どうでもよくなったか。そっか」
何がわかんのよ。あなたに。
「わからんよ。なにも」
自分のことを理解してほしい人間ほど、私の何が分かるんだよ、と言うらしい。
でも今のわたしの、何が分かるんだよ、は。理解してほしいわけじゃなかった。逆。何も分からないんだから、邪魔しないでほしい、的な。何も分からないんだから、放っておいて、的な。
夕陽。なんとなく、彼が見てる。
「今日が終わったら。明日は、来ないかもしれない」
なにいってんの。急に。
「俺の任務。見ていくか。どうせ行くところも帰るところもないんだろ?」
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