燎火
蓮村 遼
1章 生は難く死は易し
1
最初は父さんだった。僕は小さかったのでよく覚えていないが、どうやら会社の仲間にいじめられたらしい。最終的にはやってもいない仕事にミスを押し付けられ、誰にも相談することができず、通勤中に電車の前に飛び出し自殺した。
次は弟の慎太(シンタ)だった。父さんの自殺により、生活、精神ともに追い詰められた母さんは三歳にも満たない弟の顔に昼寝用のブランケットを押し当て、父さんの元に早々と送ってしまった。
最後は母さんだった。刑務所の中で首を吊って死んだ。僕は高校生になっていた。
父さんが自殺して、生活費や僕、弟の教育費を稼ぐために母さんは日々の仕事や家事に奔走していた。そもそも食が細く痩せていた母さんは、忙しい日々の中でさらに痩せていった。それを僕たちから隠すように、いつも少し大きめのゆったりとした服を着ているようだった。僕は母さんが考えてやっていたことだから、何にも言わず、ただただそんな母さんと過ごしていた。僕はわからなかったが、母さんの限界は案外すぐそこまで来ていたようだった。
面会室の母さんは僕がびっくりするほど痩せていた。母さんの体に合わせて用意された服は、僕が思っていたよりもずっと小さいサイズだった。
母さんはやつれて枯枝のようになった両手を、顔の前で硬く握り込み祈るように、許しを請うように僕に謝り続けた。自分の力で、その両手の骨が折れてしまわないか、僕は心配になった。
「ごめん、ごめんなさい。本当にごめんなさい。やっちゃいけないことをしたね、あんたの大切な弟を殺しちゃった。もっとどうにかできたんだろうけど、もうわかんなくなっちゃって。父さんももういないのに、あんたばっかり辛い目に合わせちゃってるね」
母さんのすすり泣きが聴こえてきた。もう何度目かの面会であったが、母さんは同じようなことを繰り返し僕に言うのだ。決まって祈るようなポーズで。そして、決まって僕と目を合わせてはくれない。
「母さん、もうやめてよ。なんで謝られているか、僕はわからないんだからさ。母さんだって、良かれと思ってやったんだろ?じゃなきゃ、慎太を殺すなんてこと、母さんにできるわけないじゃん」
僕が母さんを責める理由なんてこれっぽっちもない。そのことをなんとか母さんにわかってほしくて、小さな子供をあやすように、僕は極力優しく柔らかい声で話しかけた。
何をやっても結果は一緒だった。どんなに優しい言葉、話し方をしたところで、母さんの話す内容は変わらなかったし、僕も母さんの謝罪の意味を理解することが出来なかった。それでも、僕は何度でも母さんの面会に行った。母さん、は慎太を殺した、その『殺した』という行為に縛られているだけのように思えた。
何とか他のことで母さんの気が晴れないか、僕は悪戦苦闘した。母さんの好きな食べ物や雑誌を差し入れたり、学校や近所であった話を、ユーモアたっぷりに面白おかしく話したりした。
こんな僕の頑張りも虚しく、母さんはどんどん生気を失っていった。全身は外からでも骨の形が分かるくらいに痩せ、瞳は虚ろ、移動は刑務官に押してもらう車椅子になっていた。唯一口だけが常に動き何かを呟いていたが、もはや聞き取れる音量ではなかった。
「母さん、ねえ。どうしてさ。僕は母さんに元気になってほしいだけなんだけど。慎太のことなんて、もう気にしなくていいよ。そんなことより僕たちのこれからのこと考えようよ。
僕今バイトしてるって言ったでしょ?貯金も少しずつしてるからさ、母さんがここを出るころには社会人になって働いてるから。母さんも働けば、どうにか生活してけるよ、心配しないで…」
僕は必死に母さんを励ました。その頃には僕は、母さんは僕に迷惑をかけているから謝るんだ、だったら安心できる材料をそろえておけばいいんだと思っていた。母さんも同じ気持ちだと思っていた。
僕が話し終えないうちに、母さんは今まで俯いていた顔をすっと上げた。
久しぶりに見た母さんは全くの別人だった。さっきまで母さん素顔を隠していた鈍色のミディアムショートの髪の隙間から見えた顔は、皮膚がシャレコウベにぴったりと張り付き、日本人とは思えないくらい彫りが深くなっていた。そして骸骨のおもちゃのようにひときわ大きく血走り黄色がかった眼球が僕を凝視している。
僕は初めて母さんを恐ろしいと思った。
母さんはよろけながらもテーブルに手をつきゆっくりと立ち上がり、面会室の中央を隔てる分厚いガラスに自分の顔面を近づけてきた。すーっと動くそれは墓場から呼び戻された亡霊のようだった。そして瞬き一つせず僕を見つめながら、母さんは口だけを動かして言った。
「…あんたはあたしのこと、絶対許してくれないの?だって、そういうことよね、だから毎日毎日復讐しにくるのね…」
「母さん、だから謝ってもらっても困るよ、本当に僕はただ…」
バン‼
母さんはいきなり両手の拳でガラスを殴打した。枯木のような体から、まだそんな力が出るのかと僕は心から驚いた。刑務官は母さんをガラスから引き剥がそうと躍起になったが、母さんはそこから一ミリも動きそうになかった。
「よくもあたしとの生活なんて言えたね!こんなことならお前を殺しておけば良かった!慎太なら、そんなことは言わなかった、あたしをしっかり罵倒してくれた、欲しい言葉をくれたはずだったのに!お前は狂ってるんだよ、さすがあたしの息子だ。そんなにあたしが気に食わないなら殺して、殺してよ!いっそ殺してしまえばいいよ‼」
母さんは増援の刑務官に無理やり車椅子に押し込められ、房に連れていかれた。絶叫の残響はしばらく僕の耳に深く爪を立てた。母さんは狂ってしまったようだった。いや、僕が狂わせてしまったようだった。
刑務所からの帰り道、僕は母さんの叫びを頭の中で反芻した。僕はそこまで母さんを追い詰めていたのか?僕は母さんには苦しんで欲しくないだけだった。だから母さんのためになると思ったことを実行したまでだった。母さんもそれを拒絶したことなど一度もなかった。
「許すもなにも、初めから母さんを恨む理由はなかったけど…。明日、もう一度母さんと話さないと」
その日の深夜、母さんは独房で首を吊って死んだ。なぜ、母さんが死を選んだのか、僕には理解できなかった。
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