夜の来訪
「いらっしゃい」
夕方の賑わい始めた徳之間にひとりの女が来店した。見たことのある顔に湊はすぐに反応して彼女をカウンターに案内する。
湊は注文される前にビールを注いでカウンターに置くと、彼女は微笑んだ。
「また来てくれたんですね。ありがとうございます」
「この前の親子丼がおいしくて。今日は店長さんがいるようでよかったです。どうしても勧めてくれた串が食べたかったんです」
彼女が前回来店したときは隆治が仕事で不在だった。隆治の串がいつも通りに提供される。それだけで徳之間は見違えるように賑わいを見せる。
隆治は焼き台と見つめ合いその日のコンディションと相談しながら、長年の経験で培った職人の勘で串を裏返していく。その瞬間だけ、彼はひとりの世界に入って周囲から隔離される。
湊は隆治に怒られないタイミングで声をかけてその客を紹介した。
「徳さん、この前来てくれたお客さん。串が食べたくてまた来てくれたって」
「それは嬉しいね……」
振り返った隆治ほ突然電源プラグが抜けたように動かなくなった。彼女はその様子に戸惑って、ただ隆治を見つめ返す。
「どうかした?」
「香代……」
「え?」
隆治は目の前にいる人がかつて愛し今はどこにいるかわからない人に似ていると感じたようだ。前回彼女に会ったとき湊も同じ感覚に陥った。しかし、その容姿は記憶にある香代とは異なる。なんとなく雰囲気が似ているだけの他人だ。
「どうして私の名前を?」
隆治はすぐにいつもの調子に戻って彼女と会話を続けた。
「名前は香代さんっていうのかい?」
「はい。夏の夜と書いて
「村瀬夏夜さんか。いや、突然悪かった。知り合いに似とったもんで」
「そうなんですか。私もこのお店の料理を食べるとなんだか懐かしい感じがします。奇遇ですね」
「なんでも焼くけど、何か希望はあるかい?」
「おまかせします。きっと何を食べてもおいしいから」
隆治は「ちょいとお待ちを」と言って下準備していた串を冷蔵庫から取り出し、次々に台に並べていく。その張り切りは普段の数倍で、香代と夏夜の偶然の一致に心が弾んでいるのかもしれない。
たとえ他人だとしても、ずっと探していた人に再会したような錯覚に酔っているのだろう。なぜだか湊も嬉しくなった。
「湊、そろそろ時間やろ。行ってこいや」
「あ、ほんまや。行ってくるわ」
湊はカウンター裏で隆治から下準備した焼き鳥と秘伝のタレが入った容器を受け取った。
「それじゃ、ゆっくり楽しんでってください」
湊は夏夜に挨拶をすると慌ただしたく店の裏口へと走って消えた。何か用事があるのだろうか。夏夜は店内を回しても他に従業員は見当たらず、串を焼く隆治に訊ねた。
「この後はおひとりでお店を?」
「この店はあいつと俺のふたりでやってるから、どっちかが用事あったらひとりで回してるんやわ。小さい店やからなんとかなってる」
「結構繁盛してるように見えますけど、ふたりでやっていけるんですね。私なら手が足りなくて泣きそうです」
「やってみたら案外慣れてくるもんやで。なんやったらうちで働いてみるか?」
「機会があればぜひ」
給料がいいかはさておき、こういう個人経営のお店で働いてみるのも悪くないかもしれない。そんなことをふと考えみたが、実際ここで働くと大変すぎて続かなさそうだ。
「さっきの若い店員さん、焼き鳥持ってましたけど出張サービスでもやってるんですか?」
「ああ、違う違う。今日は友達にホームパーティーとやらに誘われとるらしいわ。ご馳走が出る分あいつは串を焼くって張り切っとった。招待してくれたんはうちの常連さんやから喜ぶやろ。まあ俺の串には敵わんけどな」
「職人のプライドですね」
「伊達に焼き鳥屋やっとらんわ」
そう言って笑う隆治だが、彼の経験はまだ三年ほどで老舗といえるものでもない。だが、この技術に必要なのは時間ではなく熱意だ。経験に加えてどれだけ自身の仕事に打ち込めるか、それがもっとも重要なこと。
「ホームパーティーか、いいですね」
「夏夜さんもまだ若いやろ。友達連れてきたらいくらでももてなすで?」
「そんなに若くないですよ。友達もほとんどいませんし」
隆治が振り返ると虚な瞳でこちらを見る夏夜と目が合った。少しまずいことを言ってしまったか。隆治は咳払いして言葉を続けた。
「ここでよかったらいつでも息抜きに来てくれでもええで。湊と友達感覚でな」
「はい、ありがとうございます」
隆治は焼き上がった串を皿に盛り付けてカウンターに載せた。寂しげな表情をしていた夏夜は串を見ると笑顔になり、ももを一本手に取った。
それを口に運ぶと「おいしい」とさらに笑みが溢れた。
夏夜にも何か事情がありそうだ。それでも、アッシュディーラーとして彼女に関わることだけはないと願いたい。
夏夜は香代に似ているが、香代とはまた違った魅力がある夏夜。これからも長くこの店に通ってくれることを密かに祈る隆治だった。
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