川の向こうには行かない
とゐ
序
ギィ、と音が耳に入る。
――何の音だっけ?
ふわふわとした意識の中に、違和感が刺さる。
――やめてくれよ、やっと眠れそうなのに。
正体のわからない違和感に、文句を言う。
母の期待に押される形で入学した進学校だった。
春には、袖を通した詰襟に心を踊らせた。
しかし夏が過ぎ、秋を迎える頃には少しずつ感じていた歪みは明確になる。
先日の中間考査の結果は、ひどいものだった。
大丈夫よ、できる子だからと言う母の言葉が圧し掛かる。
それなりに友人も出来て、楽しみもある。
それでも、焦燥感と漠然とした不安の中で過ごす日々。
上手く眠れなくなったのは、いつからだろうか。
どうせ眠れないなら、と机に向かうが、そもそもやる気のない勉強が進むはずもなく。
重いページをぱらぱらと数回めくっただけで、参考書は開かなくなった。
やはり寝ようとベッドにもぐりこみ、寝返りを繰り返すこと数回。
結局いつもの姿勢、ぐるりと右を下に体を丸めて布団をかぶる。
ウトウトと、意識を手放しかけたのは夜半過ぎごろだった。
せっかく掴んだ眠りなのだ。
少なくとも、目覚ましにしているスマホのアラーム音ではない。
なら、無視でいいだろう。
貴重な睡眠時間だ、少しでも長く眠りたい。
再び眠りに落ちようとする。
と、次に聞こえた音に少し焦る。
ちゃぷん、と水の音。
微かだが、はっきりと耳に響いた。
これはマズイ。非常にマズイ。
頭の中にギュン、と緊張が走る。
入眠時の夢、だとしたら水の音はアレだ。
幼い頃、水遊びの夢のあとには必ずといっていいほどやってしまったアレ。
粗相。
――高校生にもなって、おねしょはマズイだろ!
確かめようと、左手を布団に沿わせながら下半身へと伸ばす。
…違和感に気付いた。
布団とは明らかに違った、ザラリとした感覚。
首をかしげる。
いつの間にか、ベッドから落ちたのだろうか。
だとしたら、いくら何でも気付くだろう。
それに、自室のフローリングとは違う手触り。
もう一度、ギィと音がした。
先程と同じ響き、しかしよりはっきりと聞こえた。
ジワジワと、頭の芯が覚醒を始める。
さっき感じた緊張感は、今度は違う意味で体中を巡る。
自分を包む空気が、明らかに自室とは違うのだ。
そもそも、就寝時にピッタリと被ったはずの布団もない。
――何なんだ?っていうかここドコ!?
覚醒した頭の芯が、ゴンゴンと警鐘を鳴らす。
――目を開けても、大丈夫なのか?
開けるのが怖い。
開けずにこのまま眠れば、やっぱり夢でした、というオチじゃないだろうか?
しかし、身体はもう気付いてしまっている。
右の頬に当たるザラザラした硬さや、聞こえてくる音。
吸い込んだ空気は、ピン、とした冷気で肺に刺さった。
自室とは違うそれは、少し湿気を伴ってあたりに漂っている。
夢じゃない、リアルな感覚だ。
どうせ、このままでは埒が明かない。
恐る恐る目を開く。
・
・
・
焦る意識とは反して、じんわりと、時間をかけて、世界が像を結ぶ。
真っ白から徐々に色を持ち、視界に入ったのは。
――木目?
かなり古そうな、朽ちたような木。
フローリングのように敷き詰められているが、やはり自室のそれとは違うものだ。
――え、ナニコレ?どこ??
「ッハッッ?」
咄嗟に声が出るが、かすれて発音にはならなかった。
開いた口から、予想以上に空気が入る。
一気に喉が渇いて、心拍数が上がった。
バクバクバクバク…
「あら、お目覚めですか」
女の声が降る。
ますます混乱する。
母親のものではない、もっと若い、少女のような声。
知っている声ではない。
近くからだが、どこから発したものかは掴めない。
何にしても、起きてみなければ。
ガバ、と勢いをつけて上半身を起こす。
と同時に世界が揺れる。
「うわ、」
すぐそばにあった、縁に縋る。さっき見た、床と同じ木製の縁。
舟だ、と気付く。
縁の向こうには、真っ黒な水面がうねうねとうごめいていた。
舟。
小ぶりの、公園の池で見かけるようなローボート。
しかも相当年季の入った、朽ちた木製だ。
――なんでこんな所で寝てるんだ?
疑問に思う。
事件に巻き込まれたにしても、覚えがない。
眠りにつけたのは、恐らくだが深夜2時か3時ごろだろうか。
感覚は定かではないが、そこからそう時間は経っていないはずだ。
その証拠、といえるかは解らないがあたりは暗く、夜明けはまだ先のようだった。
短時間で気付かないまま移動させられ、舟に乗せられたという事だろうか。
どうやって、何のために?
空は分厚い雲に覆われていて、月は見えない。
真っ黒な水面は、かなり向こうまで続いているようだった。
――どこだよ、ここ。
覚えのない場所だ。
縁に縋りながら、揺れが収まるのを待つ。
舟はギィギィと軋みながら揺れているが、ひっくり返りはしないようだった。
うねうねと暴れていた水面は、直に落ち着きを取り戻した。
反面、自身の心臓はまだバクバクと落ち着かない。
ゴンゴン、と鈍い音が響く。
「急に動いて、危のうございますよ」
心拍数とは真逆の、のんびりとした声がした。
涼やかな、さっきの少女の声だ。
自分の足が向いている方の先…声のした方向へ視線をやる。
白い影。
暗闇にぼぅ、と白い人影が浮かびあげる。
影は少女の形はしていたが、気味の悪いモノだった。
顔には房飾りのついた能面を着け、表情は見えない。
真白な、不気味な笑みを浮かべた女の面。
暗闇に浮かぶ能面は、それだけでも恐怖を感じる。
その上、能面を同じく真白な着物に、肩のあたりで切り揃えられた髪も、白。
明らかに、異様な風体だ。
――ワントーンコーデってやつか?ブリーチ何回だよ?
状況にあってない思考に、そんな場合じゃない、と自分でツッコむ。
手には水面から伸びた長い棒のようなものを持っている。舟の櫂だろう。
この少女が、舟の漕ぎ手ということか。
ふぅ、と息を吐いた。
少し動機が落ち着く。
振り返り、後ろを確認する。
すぐに舳先が見えた。この舟は自分の背中側、寝かされていた時の頭側に向かって進んでいるようだ。
舟には自身と、白い少女しか乗っていない。
舟は小ぶりで、一般的な男子高校生の身長――170センチ強の自分が寝転んで少しの余裕。
おそらく全長3メートル程だろうか。
水深は…ちょっとわからない。
泳ぐにせよ、岸辺までどの程度なのか見当もつかない。
陸のようなものどころか、水平線も闇に飲まれて確認できなかった。
もう一度、少女を見た。
彼女が誘拐犯なんだろうか。
少女は、自分よりかなり小柄に見える。
単独犯、というのは無理があるだろう。
しかし、今のところ共犯の姿は近くには見当たらない。
このまま実力行使となれば、勝てる気はする。
ただ、もし取っ組み合いになれば危険だろう。
小ぶりで、不安定な舟の上だ。
転覆の恐れがある事は避けたい。
いや、そもそも正体不明とはいえ、少女に見えるものに手を出すのは気が引ける。
不気味な面を着けているが、雰囲気や声色では年下のように感じる。
中学生くらいだろうか。
小学生ほど幼くはないし、同級生に感じるうざったさはない。
真っ暗な世界に、ぼぅと白く浮かび上がる少女。
現実味を帯びた世界で、未だにそこだけが夢のように希薄だ。
お面のせいか、VRや幽霊のようにも見えた。
――幽霊。
その考えに、背中をゾッとしたものが走る。
ゴンゴン、とさっきの鈍い音。
少女が持つ櫂が、舟の縁にあたる。
最初の揺れも、彼女がひっくり返るのを防いだようだ。
櫂を持つ、袖から覗く手も真白だ。
やっぱり人形とかの創り物のように感じる。
能面の口元と、房飾りが真っ赤で、そこだけ生き物めいて見えた。
「日下晶太様」
不意に、自身のフルネームを呼ばれた。
落ち着きかけた心臓が、再び跳ね上がる。
「なんで、俺の名前…」
舌が渇いて、重い。
知人ではない。
一目でも見れば、忘れる事はない風体だ。
見覚えはない。
緊張で、あるはずがないスマホを探してポケットを探る。
スマホは眠りにつくときに枕元の充電器に差した。
犯人が誰にせよ、誘拐の際に親切にスマホをポケットに入れてくれはしないだろう。
が、別の事に気付いて再びゾッとした。
自宅でいつも着ている、そろそろ毛玉も目立ってきた着古したスウェット。
確かにそれを着て就寝したはずだった。
しかし、今の服装はグレーのパーカーにジーンズ。
スニーカーまで履いている。
外出の際によく着るものだ。
だが、わざわざ着替えさせたのか?
ますます意味が解らない。
「向こうまで、今少しお時間がかかります。しばし、お待ち下さいませ」
こちらの焦りを知ってか知らずか、あくまでものんびりと話す。
「む、向こうって?」
何でここに、とか、どうやって、とか疑問は沸くが、口に出たのはそれだけだった。
「向こうは向こう、でございます。」
返事になっていない。
――しかし、
よぎった、嫌な考えが巡る。
幽霊のような、白い着物の女。
そして舟、とくれば。
三途の川。
死後に魂が渡るという、あの世のとこの世の境。
臨死体験で、向こう岸には手招きする先祖がいるとか、きれいな風景がひろがるとか。
実際には向こう岸というのは見えないが。
「死んだのか、俺…?」
常に心にある、ぽっかりと空いた穴。
しかし。
死ぬほどの事など何もなかった。
今日だって、いつも通りに過ごしたはずだ。
「大丈夫でございますよ。悪いようにはなりません。」
さっきと同じ、返事にはなっていない。
「そうじゃなくて、」
立ち上がろうとする。
と、足元がぐらりと揺れた。
焦りと混乱のあまりに、舟の上だという事を忘れていたのだ。
そのままバランスを崩して、彼の腕は空を切った。
「――いけません!」
初めて、少女の声に焦ったような感情が入る。
ふわり、と伸ばされる手。
真白だと思っていた着物は、ホタルのように淡く緑の光を伴う。
暗闇の中にきらめいて、幻想的に羽ばたいたように見えた。
しかし、少女の手が届く前に、バシャンと音を立てて日下晶太は暗い水の底へと吸い込まれた。
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