第三科目 生物
日曜日となった。今日は一日中授業があるため、普段以上に忙しく感じた。
「大丈夫?」
「な、なんとか」
忙しいと感じる理由は他にもあった。塾長と黄門君が体調不良で不在なのだ。気温が少し下がったのもあるかもしれない。実際この場にいる同僚全員がスーツのジャケットを着用して仕事にあたっている。
どこか深刻そうな表情をしている僕を見て、緑沢さんが声をかけてきた。
「もしかして、白木さんのことを考えてるの?そのことならあなたに責任はないと思うわ。彼女もあなたが心から嫌いになったわけではないと思う。母親が死んで動揺しているだけよ」
「昨日謝りに行こうとしたんですけど、無視されてしまって」
「しばらく経ってから、誠心誠意謝ったら大丈夫よ。さっきも言ったじゃない、母親が死んで動揺しているって」
「そう…ですね」
その後も僕は仕事に励んだ。夜になるのはあっという間だった。今日予定していた授業の中には白木君の授業もあったが、時間になっても来なかった。
私はターゲットを空き地へと連れて行った。彼女は完全に油断している。これから私が君のことを殺そうとしているとは夢にも思わずに。出来れば彼女のことは殺害したくなかったが、口封じのためだ。仕方がない。大体こちらを強請ってくるのが悪いんだ。このことがバレたら、私は間違いなく破滅する。これはチャンスなんだ。やるしかない。
自分にそう言い聞かせると、右手に握っているナイフで彼女の腹部を刺した。一発で仕留められなかったので、何度も何度も刺した。そして最後の仕上げとして、悪魔大名のフィギュアを置く。これで逃げ切れるという安堵と、人を殺してしまったことによる動揺が入り混じった複雑な気持ちを胸に抱えながら、私は現場を後にした。
月曜日。僕は朝早く出勤しなければならなかった。授業は夕方からだが、片づけないといけない事務作業や宣伝、教材研究といった仕事がある。どうせなら教材研究、それも難関大の過去問の研究を中心にやりたいが、仕事なのでそうもいかないのが現状だ。朝の六時頃に家を出たため、周囲は静かだった。仕事のためでなければ、気持ちの良い早起きだっただろう。僕は普段より少しだけ歩くペースを緩めた。
空き地の横を通ったそのときだった。「何か」が目に留まった。「それ」はあまりに不自然なため、一瞬夢を見ているのかと思った。目を凝らした。「それ」は紛れもなく死体だった。女性の刺殺体だった。ブランド物に全身を包み、顔も人形のように白くて端麗だった。腹部から流れている生々しい血さえなければ、人形だと言われても信じただろう。僕は驚きと共に大きな声で悲鳴を上げ、腰を抜かした。その後携帯電話で警察を呼んだ。たった三桁の番号にもかかわらず、電話番号を入力する手が震えていた。しかし、僕を驚かせたのはそれだけでなかった。その遺体は、悪魔大名のフィギュアを握っていたのだ。
「すみません塾長、事件に巻き込まれたので出勤が遅れます」
死体が発見されて一時間以上経ち、騒然としている野次馬とは対照的に、僕は冷静に塾側への連絡を行った。現場に臨場した警部から、様々な情報を聞けた。遺体の身元は桃坂萌々香。年齢は二十四歳で、職業はホステスらしい。死因はナイフによる失血死で、現場にはまた悪魔大名のフィギュアが遺されていたそうだ。死亡推定時刻は昨日の午後八時頃、すなわち僕らが授業をしていた時間である。今回の現場も周辺に電灯の類がほとんどなく、暗いと何も見えないため、遺体の発見が遅れたのだろう。
その後昼過ぎに、僕と警部は被害者の勤め先であるクラブに向かった。店内は開店準備中だったが、それでも華やかな雰囲気は十分に伝わってきた。僕はこのような場所に足を運んだ経験が皆無であるため、その光景はとても新鮮に映った。
「え、萌々香ちゃんが?」
警部の口から桃坂さんの死が伝えられたとき、クラブのママは驚いていた。涙は流していなかったものの、その顔には悲痛な表情が浮かんでいた。
「ええ、残念ながら。何か心当たりは?」
警部の質問に対し、彼女は押し黙った。
「もしかして、彼氏じゃないですか?」
同僚の女性が反応した。
「あの人、彼氏がいるみたいなんですけど、その彼から別れ話を持ち出されたみたいなんです。そういえば、気になることを言っていたわ。一時は別れそうになったけど、吊り橋効果によって仲が深まったって」
「吊り橋効果?」
その名前なら僕も聞いたことがあった。吊り橋の上のような恐怖を感じる状況で異性と一緒にいたとき、その恐怖感を脳が異性に対する性的興奮だと錯覚する、という現象だ。その言葉が何か事件に関係しているような気がしてならなかった。
店から出た直後、警部の携帯電話が鳴った。警部は深刻そうな顔で話す。
「やっぱりか…」
電話を切った後、彼は変わらず深刻そうな顔でこうつぶやいた。その声は今までの勢いのあるものとは違った。
「ど、どうしたんですか?」
「捜査権を…奪われた…」
「え?」
「あんた…国会議員が殺された事件と、ママタレが殺された事件を知っているか?」
「はい」
「あれらの事件も、元々は普通に捜査されていたんだ。けど、あの国会議員、色々と黒い疑惑に包まれていただろ?その中には俺ら警察にとって不都合なものもあったんだ。つまり捜査を極秘にやろうって寸法さ」
「だが、ここでもう色々と話してしまうか。こう見えてもあんたのことは信頼しているしな」
そういうと、彼は二件について話し始めた。事件現場や死因については赤田の言っていた通りだった。しかし遺留品についての情報は初めてだった。どうやら他の二件でも悪魔大名のフィギュアが置かれているらしい。といっても最近のブームによって大量販売されているため、購入者から犯人を特定することは難しそうだ。ちなみにこのことは警察の中でも機密事項として扱われているらしく、民間人で知っているのは僕だけのようだ。昨日の事件の遺留品に関する情報も、第一発見者と僕くらいしか知らないという。自分が危険な領域に入っているのかもしれないと思ったが、白木君のことを思うと、引き返す気には到底なれなかった。
すると、今度は僕の携帯電話が鳴った。僕は慌てて電話に出た。
「大丈夫かい?」
塾長の声だった。画面に表示された電話番号を見るに、どうやら職場からかけてきたらしい。
「す、すみません…警部さんに呼ばれまして…」
「どうせ新たに発生した事件の調査にでも行っていたんじゃないか?」
図星だった。
「まったく、ゲームキャラのフィギュアなんて置くような殺人鬼だぞ?まともな相手じゃない。そんなのを相手にする暇があるなら、生徒の相手をするために早くここに来てくれ」
事件に首を突っ込むことが危険であることや、部下がその危険に巻き込まないように配慮していることは分かってはいる。それでも白木君のためにも、捜査を止めるわけにはいかないんだ。その気持ちを口頭で伝えようとしたそのときだった。警部は僕が持っている携帯電話を奪い、電話の向こうにいる塾長に話しかけた。
「丁度良かった。今からあんたたちの職場に行くので、少々お待ちください」
そして警部は携帯電話を切ると、こちらを向いて無言で笑った。職場まで一緒に来い、という意味だと察した。
「おい、遅いぞ!それになんで警部までここに来るんだ」
すみません、と頭を下げようとしたが、その前に警部が塾長に言った。
「まあまあ、それは置いておいて。皆さんも知っているとは思いますが、実は本日の朝、ここにいる青倉先生が女性の遺体を発見しました。ニュースで報じられている通り、殺害されたのは桃坂という若い女です。とある理由から、先日起きた白木さんの一件と同一犯だとみています。そのため今回伺った、ということです」
悪魔大名のことについては伏せながら、警部は説明した。ニュース番組で報じられたのはあくまで桃坂萌々香という女性が通り魔に殺害されたという情報だけである。犯人の情報はもちろん、証拠や被害者に関する詳しい情報も特に報じられていない。
「お、俺たちのことを疑っているんですか?」
黄門が反論する。
「そういうわけじゃありません。あくまで形式的な質問です。そのため、皆さんには死亡推定時刻である昨日の午後八時頃のアリバイを教えていただきたいのです」
「ふざけんな」
「まあまあ」
先輩である村崎さんが黄門君をなだめる。
「分かりました。答えて容疑が晴れるなら進んで答えます。少なくとも私と青倉先生、緑沢先生は朝から夜までずっと塾にいました。お互い覚えているでしょうし、何なら生徒に確認を取っていただいても構いません。あまり生徒を巻き込みたくはないですけど」
村崎さんの発言に続き、僕と緑沢さんが頷く。
「じゃあ、残るは灰野塾長と黄門先生ですね」
二人の方を向いた。
「俺は自宅で休んでいたよ。体調を崩していたからな」
「わ、私も休暇を取り、ほぼ一日中家にいました」
塾長と黄門君の額に汗が浮かんでいた。二人共家が近いため、十分以上家を出ていれば犯行は十分可能である。加えて家族の証言は十分な証拠能力があるとは見なされないことも多い。
「つまり、アリバイはない、と」
警部は淡々とメモを取る。
「大体、被害者は独身で子供もいない。なのに、どうしてうちの塾に結びつくっていうんですか。白木さんの件はともかく、我々は被害者とは何の繋がりもないんですよ」
「そもそも二件の犯行は本当に同一犯によるものなんですか?同一犯だとする根拠を教えてくださいよ」
「そうだそうだ!」
「大体、第一発見者を疑うのが筋じゃないですか?」
塾長の反論に続く形で、緑沢さん、黄門君、村崎さんが順に反論した。半ばヤジを飛ばしている黄門君はともかく、スーツのジャケットを着込んで男勝りな雰囲気を醸し出している緑沢さんと、派手なメイクをしていて、かつ僕を疑っている村崎さんには少し恐怖を感じてしまった。警部がいなければその迫力に屈していただろう。
「まあ、おっしゃるとおりですね。我々はあくまであらゆる可能性を当たっているだけですので。それと同一犯とする根拠についてですが、真犯人は現場にある遺留品を遺しているのです。もっとも、これ以上は言えませんがね」
警部はそう言った。緑沢さんの質問にはこれといった返答をしなかった。
「先程も言いましたが、あくまでこれは形式的なものです。聞きたいことは聞けたので、ここで私は一旦失礼します」
警部はオフィスを後にした。その後どこか気まずい雰囲気になりながら、僕は仕事にとりかかった。といっても膨大な事務作業を行っているといつ帰れるか分からないので明日以降にやることにし、生徒への講義を行い、帰るのを見送った後は僕も帰宅する準備をした。
夜の静かな街道を歩いている途中、ふと白木さんのことを考えていた。
高学歴である自分の授業には価値がある。ろくに勉強しないやつらにはその価値が分からないだけで、反面優秀な人にとっては有益な授業であるはずだと思っていた。それゆえに彼女のような優秀な人に対しては人一倍丁寧に教えていたつもりだった。しかし現実は違った。彼女も僕の授業に対しては否定的だったのだ。そのことがショックで、昨日は衝動的に彼女を叱ってしまったのである。僕は学歴を鼻にかけ、生徒に向き合うことが出来ていなかった。しかもその事実から目を背けてしまったのだ。
今思うと、赤田は僕のそういった内面にも気づいていたのだろう。だから背中を押す発言をしたのではないだろうか。仕事場を見たわけでもないのに内面を見抜くとは、つくづく恐ろしい男である。
しかし自分に事件を解決し、彼女と向き合えるのか不安だった。このまま嫌われたままなのかな、まあ仕方ないか。やっぱり今の塾を辞めて、違う塾に行くのかな。そんなことを思いながら歩いていたそのとき、近くで悲鳴が聞こえた。女性の悲鳴だった。僕はその悲鳴がした方向へと駆け抜けた。そこで目撃した光景により、僕は一瞬足を止めてしまった。
「し、白木さん!」
なんと、白木さんが何者かに襲われていた。まさか、例の連続殺人犯か?でも何のために彼女を?しかし考えている暇はない。僕は彼女を助けに向かった。しかし僕は無力だった。犯人に突き飛ばされ、そのとき頭を強打したことで、意識を失ってしまったのである。
白木さん、すまない。
そう言おうとしたが、それすらも叶わなかった。
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