第三章 君の心に道化がある限り #3

「おや、これはどうも」

 ライトアップされた下水道。いつもの書き物机で、クラウン氏がいつものように本を読んでいた。

「どうも。クラウンさん……僕が何を考えてるかわかりますか」

 僕はいつものクラウン氏の口上を先回りして、問うた。クラウン氏は愉快そうに口の端を緩めると、本を閉じて書き物机にポフッと置いた。

「わかりますよ──お腹空いたな、でしょう」

 相変わらずの人だ。相変わらず過ぎて、涙が出てくる。

「……その、今の僕には突っ込む余裕もないんです。父の死の真実が知りたいんです」

「ほう。それでわたしの元へ来たということは、伊月クン、君は人の話をよく聞く人なんですね」

 クラウン氏は僕の目的を心得てくれたようだった。

 初めて僕が下水道に来た時、排水口からの覗き見チュートリアルで、クラウン氏はしれっとこんなことを言っていた。

 ──一応、過去の出来事の再演も見ることができます。

 ──まあ、その時、その場所に、居合わせた役者が生き物を含めて全員、下水道にいる必要がありますがね。

「父の事故の瞬間を、再演できないですか」

 僕は言った。クラウン氏は立ち上がって、指に手を当てる。

「ふむ。再演。道化として可能であると言わざるを得ない。しかし、役者が必要なこともわかっていますよね。その点はどうするつもりですか」

 再演に必要な要件は、その時、その場に居合わせた全ての生き物だ。父の死の場面についていえば、父と運転者ということになる。父は死んでいるし、運転者の人は悪いけど顔も見たくない。誰一人として揃いようもないように見える。

 でも、僕はダメ元で訊いてみた。

「僕が父役をやるのはダメですか。僕は半分、父の血を継いでいるので、遺伝子的に、現状では父に最も近い人間として、代役になれないですか」

「ほー……そう来ましたか。面白い。たぶん、いけるんじゃないでしょうか」

 クラウン氏は目を細めて言った。案外の好感触で僕は若干、拍子抜けした。

「いいんですか?」

「私の道化センス的にはいいと思います。伊月クンは実際、お父さんの分のご飯も食べて、カロリーを燃やしてるわけですしね」

 その一言で、僕は全身が熱くなった。これまでの苦労が一気に報われたような気がした。母の内にしか存在しない『生きている父』が道化の名の下に肯定されたのだ。思わず泣きそうになってしまったが耐えた。クラウン氏の話は続いている。

「ま、実際、やってみるまでわかりませんが。そもそも再演というもの自体、演劇やコントの機能として当然あるというだけで、やったことはないですからね。ただし……どうしても代役なのでクオリティは期待しないように。お父さんの思考や痛みなど、完璧な再演とならないことはご了承ください」

 それは残念というか、幸いというか、不思議な感情が僕を包んだ。僕は車で轢かれた痛み、死ぬような痛みなんか味わいたくなかった。でも、それを乗り超えずに真実を知るのも腑に落ちない。そんな矛盾した気持ちが僕の心に起こった。

「お父さんはそれで良いでしょう。では、居眠り運転をする人の役はどうするつもりですか?」

 クラウン氏は訊ねる。これも父役の提案と変わらぬほどの冒険になる。僕は思い切って言った。

「居眠り運転手は……クラウンさんにお願いしたいです」

「え、わたし⁉ やったー!」

 クラウン氏はでかい賞を受賞した海外の俳優みたいに両手を頬にあてて喜んだ。僕は無視した。

「前に、クラウンさんは、自分は道化であって、『何でも』あるって言ってましたよね。『ジョーカー』であると。だから……代役にならないかなって」

「あはははは! 素晴らしい、はははははは!」

 クラウン氏は哄笑した。こちらが清々しくなるほどの笑いだった。笑いすぎて、ゼエゼエ言い始めた。荒い息の間を縫うようにクラウン氏は言う。

「もちろん、全然、断然、オフコース、可能です。よく気づきましたね」

「じゃあ……これで再演できるんですか」

「はい……ええ、これで役者は揃いました。早速、舞台へと向かいましょう。善は急げ。弁は塞げ。Whenは時制。さあ、行きましょう」

 にわかに緊張しだす僕と対照的に、クラウン氏は上機嫌でスタスタ歩き始める。舞台に上がるのがそんなに嬉しいのだろうか、と思った。いや、舞台って。よく考えたら、僕に演劇の経験なんてない。何をすればいいのかわからなかった。

「クラウンさん、台本とかってないんですか?」

 慌てて追いすがりながら訊ねると、クラウン氏は振り向いた。ニコニコ笑顔だった。

「あはは、何言ってるんですか。あなたはあなたの通りに振る舞えばいいんですよ」

「あの、僕は父の代役なんですが……」

「そうですよ。あなたの提案でしょう?」

 話がかみ合わない。僕を轢けばいいだけの役だからって、気楽なものだ。

 興奮のせいでまともに考えが回っていなかったが、こんなもので真実がわかるのだろうか、と今更不安になってきた。台本なし、打ち合わせ無しの即興劇。そんなの再演とは言わない。想像していたのと違う。いや、僕はそもそも想像していたのだろうか? 真実とは何か、少しでも考えてみたことがあっただろうか──。

 そう思い詰めていると、やがて空が開けてきた。え? と思って、上を見ると、いつの間にか下水道のトンネルを形作る石造りのアーチがなくなって、遙か吹き抜けていた。頭上には夜空が広がっていて、僕たちを見下ろすように、LED外灯が煌々と輝いている。

 周りの景色を見て、すぐにわかった。ここは父が亡くなった事故現場だった。

「ここが舞台……って、あれ?」

 クラウン氏がいなくなっている。嘘でしょ。もう本番なのか。

 僕は茫漠とした気分になってきた。前も後ろもわからず、とりあえず歩くしかない。全く心当たりのないステージに知らぬ間に参加することになっていて、舞台上で聞いたことも見たこともない曲の楽譜を見るという、たまに見る悪夢の中へ入り込んだようだ。でも、それでいえば、現実だって同じようなものだ。同じことの繰り返しでいるようで、毎日、そんなアドリブだらけの即興劇にあくせくしているようなものじゃないか──。

 一応、気分として自分は父であることを念じてみた。しかし、僕は父のことをよく知らなかった。小さい僕にとって、たまに家にいる人でしかなかった。叔父さんの方がよっぽど過ごした時間は長いと思う。わかっていることと言えば、父のお陰で僕たちは平穏に暮らせている、という子供にとって実感しにくいことだけだった。

 僕は必死に、父との思い出を抉り出そうとする。必然、それは小学生の時、一度だけ、奇跡的に実現した関西への家族旅行に集約される。超有名テーマパークの、恐竜もののライド。鳴り響く警告音。壁を突き破って、突っ込んでくるティラノサウルス。落下するボート。「うあああああああ!」悲鳴を上げる僕。

『うおおおおおおおお!』

 隣で野太い音が響いた。僕に負けず劣らず、父もビビっていた。父がビビっていたのを見て、僕はもっとビビった。そして──突然父は、僕を引き寄せるとぎゅっと抱きしめたのだった。

『ギュム』

 そのまま、僕たちを乗せたボートは落下した。父に抱かれて視界が塞がれた中での、浮遊感、衝撃、水の降りかかる音。あまりの恐怖で僕は大号泣した。はっきりいってそれは僕のトラウマになった。だから今の今まで忘れていた。僕は父をめちゃくちゃに罵った。父はごめんごめん、とずっと謝っていた。

 次の思い出でも、父はごめんごめん、と謝っていた。あれは、亡くなった伯母さんの棺の横で、僕が、父に仕事をやめてくれ、と懇願した時のことだった。「お父さんは大丈夫だよ……いなくなったりしないよ……」と父は言った。僕は嘘だと言った。きっと、いなくなっちゃう。だから仕事をやめて──「それはできないよ……」と父は悲しそうに言った。それから、僕はなんて言ったかは覚えていなかったけど、無理に思い出そうとしたら、記憶野に突き刺さったガラス片がボロリと落ちるように、「じゃあ死んじゃえ!」という僕自身の言葉が蘇ってきた。父は、ごめんな、ごめんな、としきりに謝っていた。

「……なんてこと言ってんだよ、バカ」

 僕は子供の僕を罵った。恐竜ライドで、父はビビって僕に抱きついたんじゃない。僕をかばおうとしたんだろうが。仕事をやめなかったのは僕たちの生活のためだろうが。少し考えればわかるだろ。

 でも……わからなかったんだよなあ。

 何でだろう。どうしてなんだろう。僕はひたすら悲しくなって、思わず立ち止まりそうになった。その時、遠い道路の真ん中に、何か小さくないものが転がっている見えた。それに引き寄せられるように、僕は歩みを続けた。

 最初はおもちゃかと思った。近づいて行くにつれて、マネキンかと思い始めた。だが、だんだんそれはどうやら、人らしいということがわかってきた。人? それはおかしい。役者は僕とクラウン氏しかいないはずだ。今頃、クラウン氏は運転中の車で居眠りをしているはず。他に誰もいるはずがないのに──。

 やがて、その正体がわかった時、僕は絶句した。

「黒野……?」

 道路の真ん中で、黒野がうずくまっていた。苦しそうに嘔吐していた。道路に黄色い吐瀉物が広がる。LEDの光に照らされたそれを見て、僕は頭が真っ白になった。

「黒野!」

 僕は一目散に駆け寄った。黒野はびっくりして少し逃げたが、すぐに糸が切れたように倒れ伏してしまう。追いついた僕が身を抱き起こすと、黒野は口を大きく開けて、苦しそうに喘鳴を繰り返していた。口端から黄色い液体を流れ落ちている。

「どうしたんだよ、黒野、朝はあんなに元気だったじゃないか……」

 僕が声をかけると、黒野は口を少しだけ閉じて、目をうっすらと開けた。ハッハッハ……と速いテンポの口呼吸の合間、助けを求めるように言う。それは僕が夜な夜な聞いていた、息遣いだった。

「い、いき……できない……」

 そのカラカラになった声に、背中からサーッと血が引いていく。

 心臓が止まったような冷たさが、肺腑を一気に包み込んだ。

「黒野……お前……死んじゃうのか……」

 言葉がどうしても詰まって、ぼろぼろになってしまった台詞を呟いた時、ウゥン……と、何か機械の唸る音が聞こえた。振り向くと──車のヘッドライトが視界いっぱいに光っていた。

 ああ。

 僕は、その時、本当のことを悟った。

 その後、全ての物事が自動的に進行した。僕は黒野を抱きしめた。恐怖はなかった。脊髄から下が、黒野を守るために動いてくれた。

 車は容赦ない轢き筋で、僕らを撥ねた。バゴン! と凄い音がした。これはコントであり、再演であり、フィクションだ。僕と黒野と初めて会った時、電車に撥ねられたのと同じような。だから、僕は痛みを感じることはなかった。ただ、噛み締めるように抱いていた黒野の身体の輪郭からは、耐えようも無い痛みがじくじくと沁みだしていた。

 僕は地面に叩きつけられ、固いアスファルトの上を跳ねるように転がった。

「……」

 撥ねられている間、僕は父の死の瞬間を思い描いていた。

 父は──あの日、道路の真ん中で嘔吐して、うずくまる黒猫を見つけた。思わず、駆け寄った。そして、対向車線に乗り込んできた居眠り運転に轢かれた。

 父は音楽を聴いていたから死んだのではない。

 苦しむ黒猫を、その身でかばって死んだのだ。

 いや、違う──黒野をかばって、死んだのだ。

「あ、ああああぁあ……」

 真実が演じられた。僕は声にならない声を漏らした。

 そんなのってあるか。会社のために、銀行勤めだから世間で働く色んな人たちのために、そして、僕たちのために、頑張ってきた父が、何の報いもなく、ただ不幸だった、というだけのために死んでしまうなんて、そんなことがあっていいのか。全部全部、悪ふざけじゃないか。明るすぎる外灯、静かすぎるEV車、居眠り、道の真ん中で歩けなくなってしまった黒猫、そして、自分が怖くても思わず僕をかばってしまうような父──。

 どれかひとつでも、違ったら父は生きていたはずなのに。

 生きて、生き抜いて、やがて定年退職して、もう二度と仕事をしなくていい年金暮らしをするはずだったんだな。そうして、父のお世話になった人たちに囲まれて、もっと幸せに死ぬはずだったんだろうな。

 そう思ったら、僕は無性に悲しくなった。悲しくて悲しくて、どうしようもなくなった。そのほかに、言葉は出なかった。僕はこの押し寄せる感情を処理するために、慟哭するのに精一杯だった。

「あぁああああああ……」

 滂沱としか言いようがない量の涙が出た。目玉が全部涙になってしまったんじゃないかと思うくらい、涙が流れた。それが道路に落ちて広がっていく。血の溜まりのように。

「う、うう……」

 腕の中が、苦しそうにもぞもぞと動いた。黒野だ。弱り切った虚ろな眼差しで僕を見ていた。同時に聴き馴染みのある音楽がどこかから聞こえてくる。僕のスマホ──いや、父のスマホだ。ポケットから飛び出て地面に転がり、自由曲のソロ部分が事故現場に鳴り響いていた。

 ああ……と僕は詠嘆を漏らした。

「黒野……これを聴いて、君は、僕のもとに来たんだ……」

 僕には父の血が半分流れている。僕は半分、父だ。

 黒野が僕の家を「半分くらい」探している場所だと言ったのは、本当はそういう意味だったのだ。何が、僕と楽器、合わせて「その場所」だ。思い上がりも甚だしい。僕なんか最初から関係なかったのだ。本当に黒野が探していたのは父だった。命の恩人である父に報いるためだった。僕はただの代替品、廉価版、下位互換、イミテーションだったんだ。それがたまたま、父の好きだったこの曲で、トランペットソロを吹いていただけのこと。黒野にとって、大事なのは父だったんだ──。

 そのことが、父が死んだのと同じくらい、僕にはショックだった。

 僕の感情はぐちゃぐちゃになっていた。こういう時にこそ、何も言わないでいるべきだった。口をつぐんでいるべきだった。でも、そんな理性なんか、もう役に立たない。動き出す舌を、声帯を、止めることはできなかった。

 だから、言葉で抵抗しようとした。今持てる、僕の気持ちを吐露しようと、僕は口を開いた。

「き、君が、いなければ……僕は……!」

 しかし、暴走する情緒は声色に乗って、恨みがましく響いてしまった。

 ──僕はお父さんを失わずに済んだのに。

 そんな嘆きがこもった、僕の中の負の感情が、否応もなく夜に鳴く──僕は思わず、口をつぐむ。でも、手遅れだった。

 ──気持ちなんてすぐわかるのに。

 それくらい人の機微に敏い子に、僕のぐちゃぐちゃになった情緒がもろにぶつかった。

「……うぅ」

 黒野は僕の胸を押しのけた。すごく強い力だった。或いは、僕が弱っていたのかも知れない。

「ううぅぅぅ……」

 まるで泣くように黒野は呻くと、僕の身体からすり抜ける。ふらふらと立ち上がって、僕をいつもの無表情で見下ろした。

「……ありがと」

 そして、瀕死の猫が出すような細い細い声で、言うのだ。

「守ってくれて」

「黒野……」

 僕は立ち上がろうとしたが、できなかった。身体の自由が利かなかった。それはそうだ。僕はこれから救急搬送されるのだ。僕は喉を絞められたような声を出すことしかできない。

「黒野……待って……」

 黒野は猫だから──いや、猫じゃない、猫の役をしているから、瀕死の父役の僕を助けることはできない。下らないロールに縛られた僕たちの距離は、めりめりと音を立てて遠のいていく。

「それと──」

 続けて、僕を悲しげに見下ろして、黒野は言った。

「ごめんね」

 そう告げて、踵を返した。その仕草は、電子と電子が反発し合うような、どうしようもなく離れざるを得ない悲しみを背負った動きだった。

「違う……待って、黒野……違うんだ……僕が本当に言いたかったのは……そんなことじゃないんだ……!」

 僕は必死で叫んだ。しかし、黒野の黒い背中はほどなく深い闇の中へ消えてしまう。

 嘘だろ──。

 僕は呆然と、後に残された虚空を見つめた。いつまでも見つめ続けていた。そうして見つめているうちに、闇すらも白んでぼやけてきた。目に激痛が走った。そこでようやく、まばたきも忘れていたことに思い至った。僕は瞼を閉じると、その裏側で涙を出そうと努めた。だけど、もう、涙は出なかった。もう既に、父のために、枯れていた。

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