第三章 君の心に道化がある限り #2
「ただいま」
居間へ入ると、母はテーブルで書き物をしていた。メモ書きのびっちり書かれたフランス語の原文、散らばった文房具に分厚い辞書とノートPC、紅茶のカップ。
「今日は早かったね」
母は手を動かしながら、ちらりと僕の顔を見て言う。
「うん……明日は部活の県大だから」
「明日? あぁ、そっか。もうそんな時期……えっと、夕飯もう作っちゃったから、後で適当に食べておいて」
母は落ち着かないように台所を指さした。僕の部活の話題を出すと、母はいつもこんな風に少し動揺を見せ始める。普段なら話題を引っ込めるところだけど、今日は違う。
僕は息を深く吸うと、腹に力を込めて言った。
「ねえ……お母さん、聴きに来てくれないかな。僕たちの部の演奏だけでも」
「え……」
母はふっと顔を上げた。何かの呼び声を聞いたような猫のような動きだった。
「お母さんが吹奏楽を好きじゃなくなってきたっていうのは知ってるけど……僕がみんなと頑張って作り上げてきたものを知って欲しいんだ。曲は……お父さんが好きなあの曲だよ」
僕は例の曲の名前を口にした。父が最後に聞いていた曲。僕が高二の夏を賭けて打ち込んできたコンクールの曲。母の心の傷を癒合するはずの曲──。
「どうして……」
しかし、母は愕然とした表情で立ち上がった。ガタン、と椅子が倒れる。嫌な味が口の中にどばっと広がった。
「お母さん……?」
「どうしてそんなことをするの? その曲は……だって、その曲のせいで、パパは大変な思いをしたんじゃない。そう、大変な思いを……その曲を聴いていたから……あの人は……車に……違う、違う、違う! 何を言ってるの、私は……!」
母は頭を抑えると、嘘みたいな量の涙を流し始めた。父が亡くなった瞬間の感情を、もう一度やり直すように。
「違う、違う違う違う……でも、どうして……どうしてなの、どうして──どうして、みんな、私を置いていってしまうの……うう、うぅぅぅうう……」
あ……、と僕は声が漏れてしまった。それは母が父の死を否定する時の症状だった。絶望し尽くして、体力が続く限り悲嘆に暮れ続ける。そして、全ての力を使い果たすと糸が切れたように眠り、全てを夢の中の出来事に変えてしまうのだった。
硬直する僕に、母は責めるように言い立てる。
「どうして、どうして都月、そんな曲のことを言うの。パパが死んでしまったのは、その曲のせいなのに。その曲を聞いていたせいで、道路に出てしまって車に撥ねられたのに」
ぐわり、と部屋が歪んだ。天井も床もテーブルも、母の顔も、その輪郭が歪に撓んでいく。口の中には鉄の味が広がり、室温が異常に高く感じる。
壊れていく五感の中で、聴覚だけは鋭敏に母の泣き、叫ぶ声を聞いていた。
「その曲が……あの人を殺したのに!」
ナイフで刺されたような衝撃が僕を襲った。
そんな痛烈な言葉と共に、母は泣きむせびながら居間から出て行った。遠く、自室の扉が閉まる音が硬く響く。そして眠るのだろう。全てを悪い夢へと書き換えてしまうために。
「──」
母がそんな風に思っていたなんて──。
僕は失敗したんだ。呆然と立ち尽くしてしまう。でも、初めてじゃないような気がした。僕はずっと、何度も、コンクールに来てもらうように母を説得していたんじゃないのか? その度に拒絶されてきた。拒絶される度に僕は……その事実を否定した。否定して、なかったことにした。母が父の死を認めないのと同じように。
僕は意味がなくなることを怖れたのかも知れない。母が聴いてくれないなら、部活のみんなを巻き込んでまで曲を選んだ意味がなくなる。僕がソロを頑張る理由もなくなる。今までソロの解釈がうまく決まらなかったのは、心の底では母が聴くわけがないと思い込んでいたからなのかも知れない──楽器の音色は、言葉じゃないだけ強く心を表すものだから。
いや、こういう風に思うこと自体が逃避なのか? 安藤と違って、母と向き合ってこなかったことを突きつけられて、そうじゃないと思い込もうとしているだけじゃないのか?
わからない。全然、わからない。わからないという深淵が、僕を包み込もうとする。
「うっ……」
僕は猛烈な気持ち悪さを感じて、トイレに駆け込んだ。喉が焼ける。胃酸で楽器が溶けると思って、トイレを出て急いでうがいをした。
「……黒野」
僕はあの黒の女の子がいないか、自分の部屋の扉を開いた。誰もいなかった。朝はあんなに甘えてきてくれたのに。心の暗雲はその濃さをますます増していった。
僕は居間に戻って、母の座っていた椅子を起こして、腰を下ろす。結局、明日僕はコンクールに臨むだろう。けれど、最悪のパフォーマンスにしかならないだろう。何もかも半端で幕が閉じる……『ゴドーを待ちながら』と言いながら、ゴドーが最後まで来ないように。
ゴドー? どうして、クラウン氏のクイズに出てきた作品の名前を、今更思い出したのだろう。
その時、僕は本棚に『ゴドーを待ちながら』があるのを見つけた。そうか、ずっとここにあったんだ。その本には母がつけたと思しき付箋が一枚だけ張ってある。僕はそのページを開いた。ウラジミールという登場人物の台詞に線が引いてあった。
『俺は眠ってたのか? ほかのやつらが苦しんでるときに。今も眠ってるのか? 明日、目が覚めたら、いや、目が覚めたと思ったら、今日のことをなんて言うんだろう? 友達のエストラゴンと、この場所で、日が暮れるまでゴドーを待ったって? ポゾーが荷物持ちと通りかかって、おれたちに話しかけたって? そうかもな。けど、そこにどれほど真実がある?』
そこにどれほどの真実がある?
僕はその一言に、母の苦しみを感じた。そうだ。僕だけじゃない。一番苦しくて、悲しい思いを抱えているのは、母なんだ。母もまた、来ないゴドーを待ち続ける、ひとりの悲しき道化なんだ──。
「真実を……」
ふと、僕は呟いた。母は、音楽を聴いていたせいで父は死んだと思い込んでいた。確かに、イヤホンをしていなければ、車の接近に気づけたかも知れない。
でも、そうじゃなかったらどうだろうか。
もっと別の要因があったとしたら? 音楽は関係なかったとしたら? そのことが確かめられたら、母は、少なくとも吹奏楽の音をきっかけに苦しむことはなくなる。
そのための手段が──僕には、ある。
僕は電撃に打たれたように腰を上げると、本を置いて、持って帰ってきた荷物の中、異質を放つ「啓蒙の杖」を手に取った。これが僕に配られたジョーカー。最後の切り札だ。
まだ間に合う。大丈夫だ。僕は家を出ると、すぐ近くの人通りの少ない道に向い、手頃なマンホールを開いて一目散に飛び降りた。
頭上でカタン、とフタの閉まる音がクラッパーボードを叩くように鳴った。
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