第2話 雨の日の出逢い

 全てのはじまりは、九月半ばのある雨の夜だった。

 まるで霧みたいな秋雨が降り注ぐ中、曜は肌寒さに耐えながら、近所の児童公園をただ当て所もなくフラフラと彷徨い歩いていた。


 そんな時、ふと曜は公園にひとつしかない大きな屋根付きベンチの下に、街灯に照らされ浮かび上がる誰かの人影があることに気付いた。最初からいたかもしれないし、後から来たのかも分からない。いずれにせよ、曜はそこに雨宿りの場所があったのを唐突に思い出して、そちらにトボトボと向かって行った。


 屋根の下にいたのは、紺色のセーラー服を着たひとりの女の子だった。傘を持っているようには見えないが、さりとて濡れている様子もない。やはり元々この場にいたようだ。左右二本の三つ編みを後頭部に垂らし、備え付けの大きなテーブルに教科書らしいものを広げては、退屈そうに文字を目で追っている。


 曜がテーブルの反対側で雨宿りに加わると、少女はチラッとだけこちら側を見てから、またすぐ教科書に視線を戻した。曜も曜で、見知らぬ相手にいきなり話しかける度胸などなかったし、何より今しがた喧嘩してきたばかりの姉と同じ制服を彼女が着ていたことで微妙に委縮した気分になってしまい、結局黙り込む以外に選択肢がなかった。


 だが一時間、あるいは三〇分程度かも分からないが、時間が経つにつれその経過が実際以上に長いものに感じられてくる。寒さも手伝い集中力が削がれていくため、曜は次第にそわそわと落ち着かない気分を抑えられなくなっていった。


 相手の少女がやがて飽きたのか教科書を閉じ、ただ物憂げな表情で遠くを見つめ出したこともあって、曜はわき上がってくる衝動を遂に止められなくなった。

「あのっ」

 沈黙を破った見知らぬ少年に、一瞬だけ遅れて少女が気付き振り返る。如何にも不思議そうな眼差しをされたが、曜は正直ホッとした。もっと怪しまれるか、イヤな顔をされることも覚悟していたからだ。


「寒く、ありませんか」

「んー、平気だよ」

 少女はちょっとだけ考えるようにして言った。穏やかで、優しそうな声だと思った。


「寒いのには、一応慣れてるから。ありがとね、心配してくれて」

「でも」

 長めのソックスを履きブランケットもかけているとはいえ、スカートの内側から伸びた生白い素足は、見るからに冷え切ってしまっているように感じた。こんな雨の中、長時間じっとしていられるなんて正直、曜には分からない。


「君の方こそ、さっきここ来た時泣いてたでしょ。なんかあった?」

「いえっ、あのっ」


 曜はとっくに乾ききった目の周りを慌ただしく拭った。今更とは分かっていてもやはり他人に、それも見ず知らずの少女に泣いているところを見られるというのは、少年の中の何かがそれを認めなかった。


「大丈夫です。何でも、ありませんから」

「何でもなくはないでしょ。こんな遅い時間にしかも、ひとりだけで外歩いてるなんて。……あんまり話したくない?」


 少女は繰り返し問うように、じっと向こう側から曜の顔を覗き込んで逃がさない。

 曜はやがて、その無言の追求に観念させられた。


 きっかけは、ごく些細なことだったのだ。

 曜には三つ年上の姉がいる。今年で十三歳、中学一年になる。名前を日村空ひむらそらという。


 空と曜は、比較的ではあるが仲の良い姉弟だった。日村家には物心ついた時から父親がいない。おまけに母親は仕事で殆んど帰ってこないから、家には空と曜のふたりっきりでいることが大半だった。何処へ行くのにもふたりは一緒で、趣味や食事などの好き嫌いに関しても、曜のそれは姉からの影響であることが多かった。


 曜にとって空は、単なる姉を通り越して、まさしく保護者そのものだった。

 そんな姉が、ちょうど一年ぐらい前から突如として冷酷になった。それは殆んど豹変と言っても差し支えないぐらいの、極端な態度の変化だった。


 その日も曜は、夕方から急に雨が降ってきたのを気にして、部活で帰りの遅くなる姉の代わりに干しっぱなしの洗濯物を取り込んだだけだった。いつも家事をしている姉が大変そうだと思っていたし、洗濯物が濡れてやり直しとなれば手間が増えてしまうから、姉の役に少しでも立てればと考えていたのだ。


 だが帰ってきた姉は、

「――勝手に触んなっつっただろ!」


 感謝どころか、いきなり罵声を浴びせられたことで曜は頭の中が真っ白になった。姉は露骨に舌打ちすると、固まって動けないでいる曜の脇を通り抜け、折角取り込んでおいた洗濯物から自分の下着や衣類を手あたり次第回収して、わざわざ再び洗濯機めがけて放り込んだ。まるで、汚らわしいとでも言うみたいに。


「ボーッと突っ立ってんじゃねえよ! キモイんだよ、出てけ! あっち行け!」


 その後のことはよく覚えていない。多分、言い返すことひとつ出来なかっただろう。

 たまたま玄関のすぐ傍にいたからかもしれないが、気が付けば曜は家の中ではなくて、近所の公園を彷徨っていた。言われた通りに、出てきてしまったのだ。


「それは、絶対にお姉さんが悪いよ」

 事情を聴いた少女は、殆んど即座にそう言ってくれた。

「君は役に立とうと思ったんだもんね。それをいきなり怒鳴りつけるなんておかしいよ」

「……きっと、ぼくが何か余計なことしちゃったんです」

 曜は首を横に振って言った。


「姉ちゃん、いっつも忙しそうにしてて、疲れてるから。ぼくがもっとちゃんと考えれば良かったんです」

「……君はお姉さんが大好きなんだね」

 少女は、ゆっくりと確かめるように言った。


「うちもね、ママとわたしのふたりっきりなんだ。だから君の気持ち、よく分かるよ」

「……お姉さんも、ですか?」

「わたしと君、似たもの同士だねっ」


 少女が慰めるように微笑んだことで、曜の中でドッと何かがこみ上げてきた。しまったと思う頃には、熱い涙がボロボロと両目からこぼれ落ちて、自分ではどうやっても止めることが出来なくなってしまっていた。


「よしよし、よく頑張ったね。えらいね」

 少女は自分から曜の隣にやって来て、背中を何度も、何度もさすってくれた。


 けれども曜の涙は一向に止まる気配がなかった。悲しさを自覚したのもある。でもそれ以上に、姉と同じ制服の年上の少女が優しくしてくれたことで、仲良しだった頃の姉が、あの笑顔が、一瞬でも戻ってきてくれたような錯覚を覚えたからだった。


 少年と少女を、弱い雨がいつ果てるともなく包み続けていた。

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