やさしい風に包まれて 

KKモントレイユ

第1話 あの子、誰なの?

 コンクール会場の入り口には『第八回ピアノコンクール』という看板が立てられている。幼稚園年長の佐倉彩音さくらあやねは母親に手を引かれ、この日のために練習してきた曲で初めてコンクールに出る。

 母親がピアノ教室の先生で物心ついたときからピアノの練習をさせられていた『させられていた』というのは天真爛漫な彼女はピアノの練習より外で走り回って遊ぶことの方が好きだった。

 子どもながら自分はピアノに向いてないと思っていたが、環境に恵まれていたこともあり周りの子たちより上手に弾けていた。


 そんな彼女も『今回はきちんと練習してきた』という思いがあり、今日の演奏には自信を持っていた。


「彩音。今日は練習してきた通りに弾けばいいのよ」


 やさしい母親の言葉に応える様に彩音は練習の成果を十分に発揮できた。


 彩音が舞台のそでに戻ってくる。そして幼稚園の部の最後の演奏者が舞台に出て行く。すれ違いにその子の顔が見えた。自信がなさそうな表情でピアノに向かう男の子。

 男の子は客席にお辞儀をした後ピアノの前に座った。彩音は控え室に帰ろうとした。


 男の子がピアノを弾き始める。思わず彩音は舞台の方を振り返った。まるで、自分が弾いたピアノとピアノが変わったのではないかと思うような美しい音色。


 客席から声が聞こえてくる。

「だれ?」

「だれなの? あの子?」

「どこの子?」

 彩音の耳にも、その声は聞こえてきた。しかし、その声よりも幼稚園の彩音にもはっきりわかる。この演奏は普通ではない。

 まるで彩音自身の心の中にある何かと共鳴しているようなやさしい空気のささやき、会場全体がやさしさに包まれるようなひととき。


 演奏が終わり男の子は客席に丁寧にお辞儀をした。客席から拍手が聞こえてくる。男の子が帰ってくる。それだけの演奏をしておきながら、相変わらず自信なさそうに彩音の横を通り過ぎて行く。彩音も彼に拍手を送っていた。


「あの子、誰なの?」

彩音が母親に聞く。


澤井和也さわいかずや君よ。上手でしょう。彩音と同い年よ」

「カッコいい」

「そうよ。ピアノを弾ける男の子はカッコいいのよ」

と微笑む母親に彩音も心からそう思えた。


 それから、数年が経った。彩音は小さい頃から身体からだを動かすことが好きだった。母親の玲子は彩音にピアノの道に進んで欲しいという思いもあったが、その世界の厳しさも誰よりわかっていた。そして、悩んだ結果、彩音の意思を尊重することにした。彩音はピアノを続けたが、その後コンクールに出ることはなかった。


 小学校を卒業した彩音は桜南さくらみなみ中学校に入学し、中学校では体育系の部活を選んだ。

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