4.まさかの展開

「アンジュ、少しいいかしら?」


 ジェイクを見送った後、仕事に戻ろうとしたアンジュは、エレナに呼び止められた。


「あら、エレナ。ごめんなさいね、すぐに用意をするわ」


 いつもならば道具一式をエレナのもとへ届ける時間だったが、話し込んでしまったせいで、エレナがわざわざ取りに来たのだろうと思い、アンジュは申し訳ない気持ちになった。

 エレナはアンジュとは反対側の西棟の病室を担当している。二階建ての、やたらと横に広い病院なのだ。


「いえ、違うの。道具を取りに来たのもそうなのだけれど……。その、さっきアンジュが話をしていた人って、もしかして魔導部隊の隊長さん?」

「ええ、そうよ。エレナも挨拶されたの?」

「ええ、まあ。というか、父の上司だから……」


 その言葉で、エレナの父親の素性が、アンジュの頭を過る。そして、エレナの事情も、思い出していた。


 エレナは元々、隣国の侯爵家の長子だった。そして彼女の父親は優秀な魔導士で、隣国でも希少な攻撃魔法の使い手だった。そんな高位貴族のエレナとその父親が、何故この国で平民として生きているのか、それはなかなかに複雑な事情ゆえであった。


 エレナには婚約者がいた。だがその婚約者は男爵令嬢に熱を上げ、エレナには何の非もないのに、婚約を破棄されてしまう。本来ならば相手側に過失があるはずなのに、『解消』ではなく『破棄』に至った経緯は、所謂『冤罪』というやつだ。件の男爵令嬢を殺害しようとした罪を捏造され、婚約破棄の未、国外追放となってしまったのだ。


 実際に国外追放を言い渡されたのはエレナだけだったのだが、それに激怒した父親である侯爵が、一家、親族全員でこの国に亡命して来た。隣国ではエレナの父親の存在はそれはそれは大きなものだった。


 『侯爵が居なくなってからというもの、隣国は魔物を抑え込むことが出来ず、その国土をどんどんと縮小せざるを得なくなっている』

 そんな話を、病院に荷を卸す商人やダンジョンで怪我を負った患者の口から聞くことが多かった。

 『ざまあ』と思う反面、どこのネット小説だよと、その婚約破棄や一連の騒動をその場に居て、間近で目撃したかったと思う、最低な女、アンジュであった。


「ああ、そっか。エレナのお父さんって魔導士だったわね」

「ええ、そうなの。それでね、アンジュ。あの隊長さんは、貴族なのよ。だから、その、言い難いけれど、やめておいた方がいいと思うの」

「あー、お貴族様かあ~……。それは確かに、やめといた方がいいわね」


 あらら、残念などと思いながらも、次があるさとアンジュはすぐに気持ちを切り替えた。


「はあ、面倒だなあ。明日のデート、どうしようかしら」

「え? デートに誘われたの?」

「ええ、まあ。でも安心して。お遊びで付き合うほど、私は軽い女じゃないって、はっきりと断るから」

「えっと……。この国の貴族は、流石にそこまで不埒では無い筈よ。一夫一妻制だし、愛妾は禁じられているし。それに、貴族の義務があるもの。貴族は平民を守る義務があるわ。それはおいそれと平民に手を付けるようなことも、許されないということよ」


 だとしたら、どうして平民であるアンジュを誘ったのかという矛盾が生じる。そのことを考えながらも、エレナは自分のいた国とは明らかに違う、この国の貴族の気概を父親を通して知っていた。そして、この国は隣国とは違うのだと、信じたかったのだ。


「それでも、本当にそれを守っている貴族って、いるのかしらね? 現にあの隊長だって、私を誘って来たのよ? 平民だって分かってるくせに」

「それは、そうだけど……。え、待って? アンジュ、何かそういう場面を見たことがあるの? 例えば、貴族が平民を迫害しているところとか」


 アンジュの言葉に、エレナは過剰に反応した。この国も、実は見せかけの正義を掲げた、腐った国なのかと、エレナの理想が崩れてしまいそうで、聞かずにはいられなかった。


「いえ、別に……見たわけじゃないけど……権力者ってのは、陰では何してるか分からないじゃない? エレナだって……」


 言いかけて、アンジュは慌てて口を噤んだ。エレナからしてみれば、国外追放に追いやられたことなど、思い出したくもないだろうと、口が滑ったことにアンジュは気不味くなる。


「少なくともこの国の貴族は真っ当だわ。隣国と比べるなんて、烏滸がましい程にね」

「へえ~、そうなの?」


 中途半端に前世の記憶が混じってしまったせいか、アンジュは余り納得出来ないと、不信感を顕にした。それでも、エレナがそこまで言うならと、頷いた。そしてエレナもまた、アンジュの言葉で、不信感が生まれてしまっていた。


「まあ、いいわ。とにかく、私は今後あの隊長とは関わらないようにする」

「ええ、そうね。その方がいいわ」


 実際、あれ程大人しそうで女慣れしていないジェイクが、平民の女を手籠めにしようと考えているとはアンジュも思ってはいなかった。だが、触らぬ神に祟りなしと、厄介事に巻き込まれる前に、逃げ出すのが一番だとアンジュは保身に走る。


「はあ、どこかに良い男、落ちてないかしら」

「それはそれで、どうなのかしら?」


 アンジュとエレナは顔を見合わせると、小さく笑い合った。そしてこの話はこれでお終いだと、二人は仕事に戻るべく手を動かした。

 仕事道具の準備を二人で行い、その後持ち場に戻った二人は、いつもの業務の中で、ただ忙殺されていった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 翌日アンジュは、憂鬱な気分でジェイクを待っていた。

貴族だと分かった今、無礼な態度は取れないと、気を引き締める。待ち合わせ時間よりも随分と早くから病院の前で待ち、不敬にならないよう、彼女への立候補の話を取り下げなければと、頭を悩ませていた。

 

 そんな時、ガラガラと響く馬車の音が、アンジュの耳に届く。

病院の前ということもあり、ここには辻馬車の停留所があるのだが、今アンジュの目の前に迫っている馬車は、明らかに辻馬車ではなかった。


「まあ、そうなるわよね」


 貴族なのだ。馬車くらい持っていて当然だし、辻馬車になど乗らないかと、アンジュはどこか疲れたように息を吐き出した。


「どうすんのよ、これ。第一声はどう言ったら良いのかしら。立派な馬車だと褒めればいいの? それとも畏れ多いと拒否ればいいの?」


 そんな独り言を言っている間に、馬車はアンジュの目の前で停車した。


「おはようございます、ベントさん! お迎えにあがりました!」


 満面の笑みで馬車から降りてきたジェイクに、アンジュの顔が引き攣った。それに全く気付かず、ジェイクはアンジュに手を差し出すと、「さあ、参りましょう!」と輝かんばかりの笑顔で告げる。


「あ、あの、オールディス様……」

「さあ、どうぞ乗ってください!」


 興奮しているのか、アンジュの言葉を遮り、ジェイクはアンジュの腰に手をまわすと、フワリとアンジュを持ち上げて、強引に馬車へと乗せてしまう。その一連の動作が余りにも素早く、迅速に行われたせいで、アンジュは呆気に取られてしまった。そして気付けば、馬車に揺られ、ジェイクの横に座らされていたアンジュだった。


「あ、あれ?」


 ハッと我に返ったアンジュは、今の状況に酷く困惑した。いつの間にか馬車は出発し、ジェイクに挨拶さえしていない事実に思い至り、一気に血の気が引いていく。

 このままではいけないと、アンジュは心を奮い立たせ、口を開いた。


「挨拶もせずにすみませんでした。おはようございます、オールディス様」

「ああ、お気になさらず。それよりベントさん、乗り心地はどうでしょうか? 腰が痛ければ、クッションを一つか二つ追加しますが、どうしますか?」

「え、いえ、大丈夫です」


 貴族に気を遣わせるなど言語道断だと、アンジュは大袈裟に手を振り恐縮した。だがそんなことは気にも留めないジェイクは、甲斐甲斐しくアンジュの世話を焼き始める。


「喉は乾いていませんか?」

「はい、大丈夫です……」

「暑かったら言ってくださいね、窓を開けますから」

「はい、ありがとうございます……」

「お腹は空いていませんか? お菓子を持ってきていますので、食べたくなったら言ってください」

「はい……」


 引き攣った笑顔を浮かべ、アンジュは一人考える。

 『あれか、初めての彼女に浮かれまくって、現実が見えていないってところかな?』と。そして最悪の事態を想像した。

『息子を誑かした悪女として、お貴族様に処刑されるんだわ』と。数拍後、どこのネット小説だよ、と自分自身にツッコミを入れるアンジュであった。

 だが、間違いなくその未来はやって来るのだろうと、アンジュは頭を抱えた。今ここで、ジェイクの目を覚まさせないと、アンジュだけでなく、家族にも迷惑をかけてしまうと、焦燥感に襲われる。


「あの、オールディス様、お話したいことがあるのですが……」


 アンジュがそう切り出したところで、馬車が停まった。実にタイミングが悪い。


「ああ、到着したようです。さあ、ベントさん」


 バッと勢い良く馬車の扉を開けて先に降りたジェイクが、アンジュに手を差し出した。先程から何か言おうとする度に、先の言葉を紡げないことに、アンジュは益々焦り出す。

 それでも目的地に着いたのならば、ここで腰を落ちつけて、ゆっくりと諭せばいいと、アンジュは安易に考えていた。

 それが出来ない状況に陥るとも知らずに。


「ありがとうございます」


 ジェイクのエスコートに礼を言い、差し出された手に自身の手を重ねる。そのことに顔を赤くさせたジェイクを見遣り、アンジュは本当に残念だと肩を落とした。


 アンジュが馬車から降りて、どこに連れて来てくれたのかと思い顔を上げると、あり得ない光景が広がっていた。


「……」


 思わずアンジュは絶句する。


「さあ、ベントさん。こちらです」


 手を優しく握り、先導し始めるジェイクに、アンジュは震える声で聞いた。


「あ、あの、ここは一体……」

「ああ、まだ今日の予定を話していませんでしたね。失礼しました。ここは、僕の家です。両親もベントさんに会いたがっていますので、すぐに紹介しますね」


 そう爽やかな笑顔で爆弾発言をするジェイクに、アンジュは気が遠くなりかけた。

 どこの宮殿だよ、と思うような立派過ぎる建物は、アンジュの目には眩しすぎて潰れそうだし、どこまでも横に広がるその敷地の広大さにも目眩を覚える。

 だが、目の前に広がる光景に、ここで倒れるわけにはいかないと、足を踏ん張らせた。


 建物の前には、ここの使用人たちであろう、燕尾服を着た執事を先頭に、メイド服を着た侍女たちがずらりと両側に並んでいる。その真ん中を、ジェイクに連れられてアンジュは歩いていた。

 長い列を潜り、辿り着いた先には、綺羅びやかな服装をした二人の貴人が立っている。あれがジェイクの両親だろうと、アンジュは固唾を飲み込んだ。これからどんな罵倒を浴びせられるのだろうかと、覚悟を決める。

 言い訳はせず、ただひたすら謝ればいいのか、それとも弁解の余地はあるのかと、戦々恐々なアンジュであった。


「まあまあ、あなたがベントさんね! 私はジェイクの母親のカレンよ。よろしくね!」


 可愛らしい顔に満面の笑みを浮かべて挨拶をするカレンに、ジェイクは母親似なのねと、思わずアンジュは現実逃避する。


「私は父親のドミニクだ」


 だが父親の顔を見て、現実に引き戻される。

 母親であるカレンの慈愛に満ちた穏やかな表情に対し、父親のドミニクは険しい表情でアンジュを見据えていた。

 ヒュッとアンジュの喉が鳴る。緊張の余り卒倒しそうになりながらも、家族のためにアンジュは声を振り絞った。


「お初にお目にかかります。アンジュ・ベントと申します。本日はお招き頂きまして、ありがとうございます」


 招かれた覚えは一切ないが、そう言う以外他はないと諦める。

 この挨拶の仕方が礼儀に反しているかどうかなど、アンジュには知る由もないが、出来うる限り丁寧に、そして深く腰を折った。顔を上げる際は、笑顔も引き攣らないよう意識して、印象を良くしようと心がける。


「まあ、ご丁寧な挨拶をありがとう。さあ、入って。お茶の用意をしてあるの。一緒にお話をしましょう」


 お話と聞いて、アンジュの顔が青褪める。恐らくは、ジェイクを誑かしたことへの罵詈雑言だろうと思い至り、胃がキリキリと痛んだ。それでも断る術などないアンジュは、言われるがまま二人の後に付いていく。本来ならば、一生足を踏み入れることなどないはずの貴族の家に、至極恐悦しながらアンジュはゆっくりと進んでいく。


 これが友人として招かれたならば、気も楽なのにと思いながら。

 そしてアンジュはハッとする。

 そう『友人』だ、と。

 

 自分が彼女に立候補したのは一昨日の話だ。そして昨日、デートの誘いを受けた。流石にまだ恋人同士という関係にまでは発展していない。だから今現在の自分の立ち位置は『友人』なのだと、アンジュは結論付けた。

 そう思った途端、肩の力が抜ける。そして、隣でアンジュに寄り添うように歩いているジェイクに顔を向けた。

 ジェイクはずっとアンジュのことを見ていたせいで、急に視線を向けられたことにドギマギとする。それでもすぐに持ち直すと、アンジュにニコリと微笑んだ。


「ベントさん、家の料理人が腕をかけて作ったお菓子がありますので、是非食べていってくださいね」


 アンジュの視線を受け、柔らかく微笑んだジェイクは、屈託なくお菓子を勧めてくる。ジェイクの愛らしい顔に癒やされたアンジュは自然と笑みを溢していた。


「ありがとうございます。楽しみです」


 そんな二人の会話を耳にして、カレン夫人が振り返る。そして意味深な発言をした。


「あらあら、仲がよろしいようで……うふふ。色々と楽しみだわ」


 ニンマリと笑って見せたカレン夫人を見遣り、アンジュは一抹の不安を抱くのだった。


 広い応接室へと通され、用意された紅茶を勧められる。そんな中アンジュは、その部屋にある調度品の高級さに目を剥き、目の前の紅茶の茶器も、割ってしまったらと顔を青くさせた。お礼を言ってから恐る恐る紅茶に手を伸ばし、口をつけようとした時に、その爆弾は落とされた。


「それで、結婚式はいつになる?」


 思わずアンジュが固まった。だが、よもや自分たちのことではあるまいと、『誰の結婚式かしら?』などと現実逃避した。

 ジェイクと出会ったのは一昨日だ。幾ら何でも、結婚までは飛躍しないだろうとアンジュは高を括る。だがその反面、嫌な予感も脳裏を過る。両親に紹介されている時点で、もしかしたらという思いがあったのだが、アンジュは全力でその思いを否定した。


「なっ! 父上! まだそこまでは……」


 ジェイクが慌てて否定する。そのことに、アンジュは再び固まった。そして嫌な予感が当たってしまったことに顔を青くする。


「こういうことは早い方が良い。年内には籍を入れろ」

「は、はい。勿論、そのつもりです。ですが、こういうことは、順序がありますから」


 そう言って、ジェイクはチラリとアンジュを見遣る。その視線を受けて、アンジュは呆けている場合ではないと、勢い込んで口を開いた。


「あ、あの、私は平民です。オールディス様とは一昨日お会いしたばかりで、その……」

「問題ない」


 アンジュの言葉を遮り、ジェイクの父親は威圧的にそう言い放った。だが、アンジュも引くわけにはいかない。もし今回、結婚出来たとしても、平民だからと軽い気持ちで離縁をされる可能性があるからだ。それでは意味がないと、アンジュは食らいつく。


「問題は大いにあります。平民にとって貴族の生活とは、想像も出来ないほどに大変なものの筈です。今まで守られる側だったものが守る側になるのですから。私には到底、無理な話です」

「ほう。無理だと分かっていて、何故ジェイクに声をかけた」

「貴族だとは知らずに声をかけました。それ程までに私は、無知で世間知らずです。正直、平民など、皆この程度です」

「ほう。それ程の無知で、よくジェイクが貴族だと分かったな」

「このお屋敷と、ご両親であるお二方を見れば分ります。いくら平民でも、それくらいは理解出来ます。そしてそうやって、平民を見下す方々と縁を持ちたいとは思いません」


 きっぱりと言い切ったアンジュは、ジェイクの父親であるドミニクの目を強い思いを込めて見つめた。

 正直、前世の記憶があるアンジュにとって、ジェイクの両親は『同年代』という認識が強い。そのせいか、つい勢いに任せて強気に発言をしてしまった。流石に不味いと思ったアンジュは、この場にいる面々に顔を向ける。

 二人の言い合いにハラハラとしているジェイク。そしてドミニクの隣に座っているカレン夫人はニコニコと場違いな表情をしていた。

 扉の前に立っている執事らしき人物は、無表情のまま微動だにしない。


「失礼な物言いを、どうかお許しください。私はごく普通に結婚をして、穏やかな生活を送りたいだけなのです。平民だからと、手籠めにされて、捨てられるのは困ります」


 フォローは大事だと、アンジュは失礼な態度だったと詫びを入れた。これで少しは自分の気持ちが伝わっただろうと、アンジュは安心する。


「なっ! 捨てるだなんて、心外です! 僕は絶対にそんなことはしません!」

「そんなことをしないと信じきれるほど、私はオールディス様のことを知っているわけではありませんので」


 尤もな意見を口にすると、ジェイクが悲痛な顔で黙り込む。そんな中、ドミニクが大声を張り上げた。


「でがしたぞ、ジェイク! いい女を見つけたな! 何が何でもモノにしろ!」

「まあ、あなた、下品ですわよ。ですが、私もアンジュさんには是非とも我が家に嫁いで来てほしいと思います。とても誠実で、将来のことをしっかりと考えているアンジュさんは、本当に立派で、素敵ですわ! それと、ドミニクの試すような聞き方に、気分を悪くしたのなら謝ります。本当にごめんなさい」


 二人の言葉を受け、アンジュの思考が停止した。

 貴族が平民に謝るなんて、とか、試されていたのね、とか、色々な言葉がアンジュの脳内を飛び交う。だが肝心なのはそんなことではない。

 アンジュは貴族との結婚を望まないと、強く拒否したのだ。にも関わらず、何故か結婚へと舵を取られてしまっているその事実に『話、聞いてた?』と喉元まで出かかってしまう。


「いえ、ですから私は……」

「僕は絶対に、捨てたりしません! というか、僕の方が捨てられるのかな……」


 最初は強気に、そして最後は弱々しくジェイクが言う。その表情は捨てられた犬のようで、アンジュは居た堪れなくなる。大きい目を潤ませるジェイクに、アンジュは罪悪感を覚えてしまった。


「いえ、そうではなく……分不相応だと言っているのです」

「そんなことを言わずに、どうか前向きに考えていただけないかしら?」


 アンジュの言葉に、カレン夫人も大きな目を潤ませて懇願してくる。流石親子だ、よく似ているなどと、アンジュはついそんなことを思ってしまった。

 いやいやそんなことを考えている場合ではないと、すぐにアンジュは口を開いた。


「ですが……」

「私たちはアンジュさんを歓迎いたします! それはもう、大歓迎ですよ!」


 拳を握り、必死に言い募るカレン夫人に、ジェイクも大きく頷き、同じように拳を握っている。


「しかし……」

「ジェイク、とにかく頑張れ! アンジュさんをこの家の嫁にするために、命を捧げろ!」

「はい、頑張ります!」

「えっ!」


 父親であるドミニクの言葉に、ジェイクが勢い込んで返事をする。だがアンジュは『命を捧げろ』と言い放った父親に、ドン引きしていた。

 そしてこのままでは流されてしまうと、大いに焦る。


「お待ち下さい。平民を貴族家に嫁がせることは、流石に周りからの反発があるのではありませんか?」

「そこは問題ない。他家も同じように、平民から嫁を探すことになっている」

「え? なっている? それはどういうことでしょうか?」


 そう問いかけたアンジュの言葉に、二人は口を噤んだ。そして目だけでジェイクに訴えかける。『話していないのか』もしくは、『お前が話せ』と言っているように見えて、思わずアンジュはジェイクに目を向けた。


「後程、ゆっくりとお話します」

「……分かりました」


 急に勢いをなくした三人に、アンジュは不信感を抱く。先程までは、まるで何かに追われるように婚姻話をしているように見えた。だが今、この話が出てからは、先程とは打って変わって三人とも押し黙っている。この結婚には『何かある』としか思えないと、アンジュは警戒する。

 そう、最初からおかしかったのだ。平民と貴族が結婚するということは、それ程までにあり得ないことなのだ。


「その……随分と結婚を急ぐのですね。何か理由があるのでしょうか?」

「それはもちろん、私たちはアンジュさんに家に嫁いで欲しいからですよ! 私たち三人共があなたを気に入っているのだもの、他の誰かに取られでもしたら大変だし、取られたくないもの!」


 ずいっとアンジュへと身を乗り出し、カレン夫人は今までにない、真剣な表情をみせる。そしてそのカレン夫人の言葉に、ジェイクとドミニクが何度も頷いた。


「誰かに取られる? 一体誰にです?」


 今まで散々婚活をしていたにも関わらず、誰にも相手にされなかったアンジュからしてみれば、嫌味にしか聞こえない。

 不機嫌な顔を隠さず、信用できないという気持ちを込めてそう問うた。


「よく言うじゃない? こういうことは続くのよ。もう私、心配で心配で……」


 『ああ、モテ期ってやつね』と、思わずアンジュは頷いてしまいそうになる。だがそれをぐっと堪えて、訝しげにカレン夫人を見遣った。

 目に涙を溜めて、必死な様子で「家のお嫁さんになって!」と懇願するカレン夫人に、アンジュは思わず絆されそうになる。

 それでも自分の想いだけはしっかりと伝えなければと、口を開いた。


「貴族と平民の結婚など、本来ならばあり得ないことです。もし、何らかの思惑でこの結婚を推し進めるのであれば、平民の権利を行使させていただきます」


 この国の貴族には、平民を護らなければならないという法律がある。何らかの理由で平民が貴族から損害や迫害を受けた場合、その旨を訴えることの出来る機関が存在する。アンジュはそこに申し立てを行うときっぱりと言い放った。


「ええ、ええ、もちろんです! アンジュさんが何かしら不安に思うことがあれば、すぐにでも申し立てをしてください。そして何もないと分かった暁には、是非とも家に嫁いできてね! お願いよ!」


 とうとう、おいおいと泣き始めてしまったカレン夫人に、ドミニクが宥めるように背を擦る。何故だかアンジュが責めて泣かせてしまったようで、居た堪れなくなった。


「ベントさん、僕は本当にただ純粋にあなたと結婚をしたいと思っています。どうかそれだけは、分かっていただきたいです」

「まだ私たちは出会ったばかりです。一時の気の迷いで、人生における大事な婚姻をそう簡単に決めるものではありません。ああ、それとも、平民の女など、どうにでも出来るとお思いでしたか?」

「なっ! そんなことは、決して!」


 自分から声をかけておきながら、そんなことを言う、最低な女、アンジュである。


「会って間もない女に熱を上げることはよくあることです。本来ならば、そちらのご両親が諭さなければならないというのに……。本当に、何かしら良からぬことを考えているとしか思えませんね。はあ、自業自得ですけどね……」


 疲れたようにアンジュが言葉を零す。その言いように、堪らずジェイクが口を開いた。


「ひ、一目惚れです」

「は?」

「一目惚れなのです! でもこの想いは本物です!」


 頬を染めてそう言ったジェイクに、アンジュは思わず呆けてしまった。

 可愛い顔をしているが、ジェイクは魔導部隊の隊長をするほどに魔力も高く、部下にも慕われている。そして貴族ということもあり、それなりにモテる筈なのだ。

 今まで、アンジュよりも見目麗しい女性にだって会っているはずだし、この父親のことだ、婚約者だって用意できただろう。

それなのに、平民の女を捕まえて結婚を迫るなど、おかしいにも程がある。そんな怪しさ満載の中、ジェイクは一目惚れなのだと宣う。その言葉に嘘偽りがなかったとしても、アンジュにはどうしても信じることが出来なかった。


「一先ず、私の気持ちは伝えました。これが結婚詐欺にならないことを祈ります」


 アンジュは礼を失する行為だと分かっていながら、そのまま立ち上がる。


「では、失礼します」


 浅く腰を折り、すぐに頭を上げるとスタスタと扉へと向かった。執事のような男性が鋭くアンジュを睨んできた が、それを無視して扉に手をかけようとした。

だがそれよりも早く、ジェイクがドアノブを掴み、扉を開いた。


「送っていきます」


 オロオロとしながらも、紳士的に振る舞おうとしているジェイクに、アンジュの肩の力が抜ける。それでも、一度ちゃんとジェイクとも話をしなければと思い、アンジュは頷いた。


「よろしくお願いします」


 アンジュの返事にホッと息を吐き出したジェイクは、馬車に乗り込むまでの間、ずっと無言のままだった。



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