第3話 楽しいお絵描きの時間


「琴理、絵の具を出して」


 帰宅するやいなや、貴兄が催促する。

 本当にお絵描きするの??

 私は中学で配られた教材のアクリル絵の具を出した。

 小学校までは水彩絵の具だったけど、中学になって配られたのはこのアクリル絵の具だ。

 貴兄は本当にあちこちに絵の具を塗り始め、そのままアートの時間に突入してしまった。

 しばらくすると、やっと気の済んだらしい貴兄が顔を上げた。

 

「琴理、この町内に他に中学生っている?」

「もちろんいるよ」

「琴理に頼みがあるんだけど」



 翌日、私は学校で貴兄に言われた通りの噂をあちこちで広めて回った。

 それは、こんな噂だ。


「最近この校区で起こった落書き事件、犯人はこの中学の生徒らしいよ。警察は証拠を掴んでいて、今日か明日にでも犯人が逮捕されるみたい。うちの兄が警察に協力していて、これは実はもっと大きな犯罪の予兆に過ぎないって言ってたよ」



 その日の放課後、カフェ・一善のドアベルを鳴らして学ランを着た男子生徒が入ってきた。

 うちの中学の二年生だ。

 襟に付けた校章は学年ごとに色が違うので、そこで簡単に見分けられる。

 開口一番、彼は言った。


「俺じゃない!」


 へ?


「三件は確かに俺がした。それは認めるけど、俺はそれ以上はしてない!誓ってもいい!」


そう言いながら彼は必死な目で、私と貴兄を交互に見た。


「でしょうね」


 あっさり貴兄が言ったので、彼はガクッと脱力した。

 貴兄は今日も来ている中田さんと私に向かって、滔々と説明を始めた。


「血飛沫の悪戯には、苛立ちとか憤りを感じました。でもそこらの社会人なら、悪戯にわざわざアクリル絵の具を選ばないでしょう?ここ数年でこの校区の中学の教材で使われ始めたアクリル絵の具を、現役中学生なら手元に持っている。それで妹に頼んで中学に噂を流してもらいました。出てこないともっと重大な犯罪の犯人にされるぞ、とね。そうして、この……お名前は?」


濱口大雅はまぐちたいが


「大雅君が名乗り出てくれました。一連の落書き事件と見られている犯行は、実は二つの別な事件でした。あなたがしたのは最初の三件、いずれも幸福で裕福そうなご家庭のドアや車にアクリル絵の具ぶち撒けるという悪戯ですね?」


「そうだよ!クソ親父にムカついたんだ!」


大雅はぶちまけるように喋り出した。


「うちは父子家庭なんだ。なのにあの親父は朝から晩までパチンコして帰ってきて、調子の悪い日は俺に当たりやがって!俺はまだいい。でも7歳の妹にまで手を上げやがっただぜ?アイツは!」


 カウンターに置かれた大雅の手は震えている。


「うちはこんななのに、一方で幸せそうな家族がいて、なんかムカついて腹が立ってしょうがなかったんだ。高級車とか幸せそうな家とか、クソくらえ!そう思ったら、悪戯で憂さ晴らしするくらいいいじゃんって思ったんだ」


 そんな大雅を見ながら、貴兄は遠慮なく言った。


「お子様ですね」


 バッサリ斬られた大雅は言葉に詰まっている。


「うっ、そうかも知れねぇけど…っ」


「器物損壊は立派な犯罪ですよ。どうされますか?自首しますか?妹さんが一人になるようなことがないといいですね」


「それは困る!妹は俺が守ってやらないと!!頼む、花堂のアニキ!なんでもするから許してくれ。姐さんも、頼む!」


最後は泣き落としに入った大雅に、貴兄は静かに言った。


「子供は生まれて来る環境を選べない。当然、辛いことも沢山あるし、もっとこうだったらいいな、とか考えたらキリがありませんね。自分にはどうしようもできない局面にもぶち当たる。運命を恨みたいこともあるでしょう。自分の親がクソなんて、本当にやりきれない」


貴兄はそこで一旦言葉を止めて、大雅の目をまっすぐに見た。


「だけど、誰かに八つ当たりをしたり人を憎んだりして今自分ができることをしないのは、自分の命に対してもったいない、そう思いませんか?」


大雅は急に静かになって、目を見開いて貴兄を見ていた。


「そのエネルギーを、自分や自分の大切なもののために使って下さい。僕はそうしてきましたよ」


貴兄は、静かに微笑んだ。


「アニキ……!」


大雅が泣きながら貴兄に抱きついてきた。


「ちょっと、それは遠慮したいですが…」


貴兄は困ったようにあたしを振り返った。貴兄と目が合ったあたしは、感謝を込めてにっこり笑った。


ありがとう、貴兄はいつもそうやって、あたしにエネルギーを注いでくれてきたんだね。


大団円になりかけたところで、中田さんが声を上げた。


「あれ、ちょっと待ってよ、マスター。じゃああの表札の○印は一体誰が犯人なわけ?」


「それは、町内会のパトロール部隊か警察にお任せしていいですか?」

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