そうして一歩、近付くと裾を抑えながらまどかのすぐ傍にしゃがみこんだ。まどかは驚いて後ろに身体を引いたけれど何が起こるのか分からなくて彼から目が離せないでいた。

 彼もまどかをみつめながら、掌をまどかに向けて少々前のめりになる。

 至近距離でありながら、彼のぽそぽそといった呟きは聞き取れなかった。まるで歌のようにも聞こえたそれが、終わると彼はまどかの首にすっと左手を這わした。


「あっ」


 変な声が出たことに恥ずかしさを感じるも、その感覚がすぐに別のものに変わる。鏡越しに見せてもらったあの筋のようなものが、ぞわぞわと生を得たように動き出した感覚にぞっとして腰が抜けてしまう。ぺたんとへたり込んでも、彼の手はまどかの首から離れなかった。

 後ろについていた手も力が抜けて、いよいよまどかは後ろに倒れると思ったが、そうはならなかった。後ろで何かがまどかを支えてくれていた。


「ねー、瑞枝。それは俺の方が良かったんでないの?」


 そんな声が背後からする。その声はさっき飛び跳ねていたあの青い傘だ。

 ひょっこひょっこと跳ねながら彼の背後に寄って来ていた。


「まあ、応急処置というのは誰にでもできますよ。それに、うら若い乙女の咽喉にあなたを突き刺すわけにもいかないでしょう?」

「誰にでもではないでしょうヨ。……ま、絵面を考えりゃそりゃそうだけどサー」


 まどかの上で交わされる会話の内容はとても不穏だがそれが実行されることはなかったようでほっとする。


「とりあえず、半分だけ」


 きゅっ、と何かが締まる気配がして違和感はまだ残ったままだ。まどかは後ろに倒れかけていたのを彼に引き上げられて元に戻される。それにしても、まだ力が抜けて身体がふにゃふにゃな気がする。

 ともかく、彼が何かをしてくれたことは変わりない。変わりがない、のだが、如何せん違和感が残っている。これはなんだろうかと首を傾げる。

 口にしないでいると彼はうんと頷くと、顔をあげてまどかをみた。


「応急処置はこのくらいでいいでしょう。ああそうだ、約束は約束ですからね?」

「え、あ、はい……」


 急な呼びかけに心臓がキュッと締まる気持ちになりながらまどかが顔を上げた。彼が思い出したと言わんばかりの表情で、まどかの目の前に小指を立てた手を出して軽く揺らして見せた。


「そうだ。人の世に、嘘付いたら針千本のますってあるのは、さすがにご存知ですよね?」

「あ、ありますね? ゆびきりのあれですね」

「今日からの私との約束を反故にしようものなら、そんなものではすみませんので、覚悟しておいてくださいね。まあ、あなたなら破るなんてこと、しないとは思いますが」


 わざとらしい口調でいう彼にまどかはカチンと来た。さっきはそんなことを言わなかっただろうと反感を込めて見上げる。愉快だと言わんばかりに口元と目元を緩めながら、手を後ろで組みひょいっと歩み出てまどかの横を通り、廊下へと抜け出ていく。それを追ってまどかも振り向いた。


「……」

「騙しはしていませんよ。そんなことは一言も言っていませんし」

「騙すつもりではあるんですね?」

「あのですね、他人の甘い言葉はすぐに信用しないようにって言われてきたのでは?」

「えっ、どうして、それ……」

「……さあ。私は長く生きている分たくさん知ってることがあるし、反対に知らないこともたくさんありますので」


 いやぁ、これから楽しくなりそうです、とまどかを置いて去ろうとしている。カーンカーンと跳ねて進む傘の音が途切れる。

 ああそうだ、という声が廊下に響く。もちろんその声は単なる独り言ではなく、まどかに向けられていた。


「言い忘れていますが。呪いのあと半分はあなたの中にまだ残ってますからね」

「……うえっ!?」

「誰も先に全部解くとは言っていませんよ。私、言ってました?」

「い、言ってない、です、けど! じゃあ半分はどうなるんですか!?」


 弾かれたように身体が動く。慌てて廊下に出ると、彼は五歩ほど歩いた場所で立ち止まっていた。

 掴みかかる勢いで、まどかは彼に尋ねた。この半分残った呪いは予想外だ。手伝いの際に不利になることはないのだろうか。約束を破るなんてことはしないつもりだが、彼にそんな保険を掛けられるとは思っていなかった。


「それは、あなた次第ということで。私の願いを叶えて下さるまでは一緒に居るので、術で誤魔化してあげますよ」

「先に解いてもらえるわけじゃないんですね!?」

「人の世にあるでしょう、成功報酬って言葉が」

「あ、ありますけど、それ、命にかかわることには使わないのでは……」

「時と場合、内容に因りますよ。はーい、あなたはまず辞書を携帯してください。その板でもいいですが、分らなければ調べてください。そうして、軽々と他者の口車に乗ってはいけませんよ? ね、お勉強、大事でしょう」


 まどかは目を白黒させながら、彼の事を信用できないわけじゃないと思ったことを後悔した。そうして、もう少し疑ってかかる事にしようと決意した。

 再び傘がカーンカーンと階段を下りていく。まどかはその音を聞きつつ、これから自分はどうなるのかと不安を抱きながら少しばかり興奮していることに気付いて慌てて首を振って考えを追いやり、そう言えばと講義室内のペンケースを取りに戻る。

 先程の彼が侵入したと思われた窓は空いておらず、なんとも不思議な体験をしたものだといまだふわふわとした感覚から抜け出せない。

 そして思い出した置き忘れたペンケースを取りに机に脚を向ける。まどかが使っていた机にペンケースはなく、替わりにまるで枯れた葉っぱが小山を作っていた。

 とてもじゃないが、こわくて触れられない。けれど、その葉の山は蔓があり大きな葉があり、そうして瓢箪のような実もあった。凝視してしまうほどには、気になって仕方がなかった。

 ペンケースと中のペンを思い、ため息をつくとどっと疲れが押し寄せる。予習と復習に割く時間、その他の勉強にまわす時間と夕飯を作る時間など、やることは目白押しであるが一先ず無くなったペンとペンケースを買いに行こう、と講義室を後にした。

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