そばえに咲く傘のはな

草乃

Act.00 出会、想起、傘のはな

 雨の気配も匂いもない、からっからの晴れの朝。


 大学への道のりの途中にある林の間を抜ける間、毎日ほんの少しだけ気分が悪くなるのがいやで、まどかは通学路に憂鬱を抱えていた。

 それ以外はわりかし希望通りで念願の一人暮らしである。

 独り暮らしということは、冷蔵庫にプリンやアイスを置き忘れていても食べられてしまうことがないということ。食べたくて購入しても、置き忘れてしまうのが人間の性というもの。

 家事はといえば実家でも将来のためと言うわけではないが、いつかは必要になるスキルだと家事の手伝いをしていたおかげで把握できているからさしあたって困ってもいない。

 一人でお金をやりくりするという点や、疲れて帰った時にご飯が出てくるというありがたさをヒシヒシと日々感じてはいるがその辺りもまどかはわりと楽しんでいる。

 大学に向かう道のりを回り道にして二十分追加してしまう負担を考えると、変更のきかないこの通学路だけが少しばかり問題なのだ。


 そんなちょっと鬱々とした気分のまま大学へ向かう途中におかしな人をみた。

 車道の脇にはガードレールがあり、それを越えた向こうには高さがまちまちの木々が繁っている。いつも気にしないようにしている林の中。視界の端に、林の色からすると少し浮いた青い色がぼんやりと視えたのだ。

 最初はビニールシートでもどこかから飛んできて引っかかったのだろう、と考えたがよく視ればそれは傘だった。それはまるで、大きな青い花が咲いているようにもみえた。

 開いた状態の傘が枝に引っかかっている、にしては傘の向きは人が差すときと同じで単純に人がいるのだろうと考えたのだ。目算ではあるけれど距離は三十メートルも離れていない。視える感じ、背はまどかよりも高いようで、あの傘の高さだと学友の友晴と同じほどにだろうか。傘の下から覗く半身を包むのはスカートにも視えたがどうやら着物だ。それだけでも十分な違和感があるのというのにもっと違和感があるのは。


(晴れてるのに、傘?)


 ブルーシートと見間違えた通り、真っ青。林に差し込む陽光が、風によってときおり枝の間から注いで傘の上を跳ねている。日傘よりも雨傘のような質感で、今時のビニール傘ではなく唐笠お化けと例えられる和傘のようだった。

 雨の気配も匂いさえなく、寧ろ気温がこれから上がっていきそうな予感さえあるというのにまだ顔は視えないおそらく人だろうその陰は傘を差していた。

 まどかは自転車に緩くブレーキをかけて速度を落とした。前後方共に自動車の気配はなかったが気をつけながら林の中をちらちらと覗いた。ゆっくりと通りすぎようとしたことでタイヤの音が変わり気配を察知されたのか、傘がピクッと揺れた。その人が軽く振り返り傘をちょいっと上げてこちらを視た。覗いた人物とばっちりと目が合う。きらっと、金色の光が揺らいだ気がした。ぞわり、背筋に冷たいものが走る。

 びくりとして手に力が入り自転車はキキッと音を立てる。両足を付けて止まり、流して視ていた時よりも注意深く目を凝らす。視力は問題なく裸眼で生活できる数値をキープしている。

 青い傘の影にあるその人は、真っ黒でばっさりと切りそろえられた横髪とその少し下肩につくかつかないかというところで揃えられた髪型だ。ぱっつんというかおかっぱというか。まどかの記憶にはない、出会ったことが無い髪型だった。顔にしても遠目にも整って視えて異様さしか感じない。どうみたって、この辺りに住んでいるという感じではなかった。おかっぱの人も、着物姿も、ここひと月この辺りを通っているけれど今日が初めてだ。


「…………」


 はくはくとその人の口が動いた。当然自分に向けて言われたものだと思ったまどかはハッとして、え? と慌てて声を漏らした。

 聞き返そうと、少しばかり前のめりになったその背後でジュワリと何かが溶け、べチャリと湿った雑巾でも落ちる様な、音を聞いた。びくりと飛び上がり、いっそう強くハンドルを握りしめたまま、恐るおそる振り返るが後ろは車道を挟んでまた鬱蒼とした林が続くだけだ。草はのびのびと方々に生えていて何かが落ちて押しつぶした後もあるようには視えない、もちろんまどかが足元を視ても何も落ちてはいない。明らかに、耳に届いた水音の元になる様なものは、ありはしない。

 それならば、確かに聞こえた、あの水の音はなんだったというのか。

 まどかはもう一度向き直り男をみた。

 まだそこにいた男はうっすらと笑みを浮かべてもう一度、はくはくと口を動かした。



 からかうようなけれど落ち着きがあり、かつはっきりと言い切る声がまどかの耳に聞こえた。確かに声は届いたが、どうにも耳元で囁かれたように錯覚してしまい目の前の男との距離に違和感を覚え、先の事象と合わせてまどかを震え上がらせた。

 小学生低学年の頃の苦い記憶が脳裏をかすめ、まどかはぶんぶんと首を振って掠めた記憶を追い払った。

 それでも男はまだあの場所で静かにまどかを視ていた。

 目はあっていない様子でだから、まどかではない、まどか以外にあった別の気配をみていたのだろうと一層まどかを怖がらせた。

 逡巡して声の通り、戸惑いながらもペダルにかけた足をグッと踏み込む。

 けれど何となくお礼は言わなければならない気がして、足を地面に付けて止まり目を向けたが男の姿はもうそこにはなかった。そのことが余計に薄気味悪く感じてまどかは一層強くペダルを踏みしめた。


 それ以外の鬱々とした気分が、今日はなかった事に気付いたのは少し後のことだった。

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