迷い込んだ世界

 上羽 玲こと私は、元の世界では営業職をしていたしがないアラサーOLで。

 深夜残業を終えて終電に乗っていたのに、気づけば真夜中の森の中にいたのだった。


 もう少し正確に言うと、電車を降りたら、この世界にいたのだ。

 

(今日は朝から散々だわ。いったい、何が起こっているの?)

 

 どうも昨日からツイていない。


 前日は、五年間付き合っていた彼氏の浮気がわかって別れたばかりで。

 悲しくて悔しくてやるせない気持ちでいっぱいだったけれど、重要な会議が近いから、その気持ちを抑え込んで出社した。


 ――不幸というものは、何故か重なるものらしい。

 

 同じチームの同僚が私以外全員辞めてしまって、仕事が一気に私のもとに舞い込んできたのだ。

 その中には、未対応のままずるずると引きずっていた案件もあったから、その尻拭いに追われた。


「上羽さんって、いつもニコニコしているよね。余裕があっていいよなぁ。俺だったら、そんな状況になったら笑っていられないよ」


 別の部署の同僚にそう言われて、じくりと胸が痛んだ。


 私だって、好きで笑っているわけではない。

 だからといって、泣いても怒っても何も変わらないから、しかたがなく笑っているだけ。


 そんな出来事の繰り返しで、いつの間にか辛くても笑うようになってしまった。


 結局その日は、終電ギリギリまで仕事をして。

 飲み会帰りで酔っぱらっているサラリーマンたちを恨めしく思いながら終電に揺られていたはずなんだけど――。


「ここは……どこ?」


 いつの間にか私は、森の中で立ち尽くしている。

 通勤用のライトグレーのスーツに黒色のパンプス、そしてグレージュの合皮のバックを持ったまま。


「夢の中……なのよね?」

 

 非現実的な光景が目の前に広がっているのだから、誰だってそう考えるはずっだ。

 

 というのも、私の目の前には十階建てビルくらいの、背丈の大きな木が聳えていて。

 その木は白く、仄かに光っている。

 

 幻想的な木にしばらく見入っていたけれど、風が吹いて森の木々が揺れると、不意に不気味さを感じた。

 

 元の世界にはない、不可思議な気配を感じ取って、どうも心がざわついてしかたがなかったのだ。


「どこかに家や街があるといいんだけど……」


 身を竦ませながら森を横切ると、森を縦断する道のようなものを見つける。

 そこには木や草が生えていなくて、剥き出しの地面にはいくつもの轍がついていた。


「これを辿っていくと、街に着くのかな?」


 どこへ向かう道なのかわからないが、知らない世界で右も左もわからない私は、この轍を頼りに森の中を歩いた。


 そうしてしばらく歩いていると、大きな幌馬車が見えた。

 御者をしている男性は二人で、どちらも西洋人らしい容姿だ。

 

 英語を話すべきかと構えていると、意外にも彼らは日本語で話しかけてくれた。

 

「おや、こんな森の中でお嬢さん一人でいるなんて、ワケありなのかい?」

「珍しい目と髪色だな。それに、見たこともない服を着ているぞ」


 二人は優しい笑みを浮かべて、私に手を差し伸べてくれた。


「森の中を一人で歩くのは大変だろう? ここは魔物も出るから危険だ」

「ま、魔物……ですか?」


 あまりにもファンタジーなワードに、思わず聞き返した。

 私はいったい、どこに迷い込んでしまったのだろうか。


(まるで、ファンタジーゲームの世界に迷い込んだみたいなんだけど……)


 困惑していると、男性たちは私が怯えていると思ったのか、手を差し伸べてくれた。

 まあ、事実、魔物に怯えているのだけれど。

 

「ああ、人を喰う恐ろしい魔物が出るから、一人で歩かない方がいい。ちょうど俺たちは王都へ行く途中だから、乗せて行ってやるよ」

「ありがとうございます!」


 魔物が出る森を一人で歩くのはさすがに不安だ。

 夢の中とはいえ、怖い思いや痛い思いはしたくない。


 そう考えた私は、二人の手を取った。

 この人たちが奴隷商人だということも知らずに――。

 

 王都と呼ばれる、昔の西洋風の街並みの場所に着いた私は、彼らが奴隷商人で、自分を売ろうとしていることを悟った。

 奴隷にされると、何をされるかわからない。


 恐怖に慄いて、無我夢中で逃げたのだった。


「――おい! 商品がそっちに行ったぞ! 捕まえろ!」

「くそっ、逃げ足が速いな」


 二人の声がどんどん迫ってくる。

 渾身の力で走っても、デスクワーク中心で休日も家に引きこもりがちなこの体では、大男たちの足よりも遥かに遅くて。


「うっ――」

「捕まえたぞ! 手と足を縛っておけ!」

「おう、売り物だから痕が残らないようにしないとな」


 私はすぐに、彼らに捕まってしまった。

 手で口を覆われた私は、とにかく暴れた。

 

「だ、誰か! 助けて!」

「静かにしろ!」

「人に聞かれたらまずい。口を塞いでおけ」


 じたばたと藻掻いても、成人男性の力には敵わなくて。

 

 締め上げられた手首に感じる痛みが、徐々に恐怖へと変換されていく。

 

(夢の中なのに、どうして痛みを感じるの?)


 もしもこれが夢ではなく、私がこの知らない世界に迷い込んでしまっているのなら。

 奴隷として売られた私はどうなってしまうのだろうか。


 ――グルルルルッ。

 

 さあっと血の気が引いて震えていると、犬の唸り声のようなものが聞こえてきた。

 声がした方に顔を向けると、そこには月の光に輝く、大きな白い狼がいて。


(背中にいるのは――道化師?)


 その背には、黒色のアイメイクと青い口紅で化粧を施した、白銀の髪の道化師がいて。

 彼の赤色の目と、一瞬だけ視線がかち合った。

 

(うわぁ、綺麗な人……)

 

 道化師ならではの奇抜な化粧を施しているのに、その人はとても美しくて。

 もはや人外めいた雰囲気さえ持つその道化師に魅了されて、彼から目が離せなくなった。


 年齢は、私と同じくらいなのかもしれない。

 ファンタジー感がある白銀色の髪は緩くウェーブがかかっていて、風に靡いて優美に揺れている。

 

 彼は燕尾服風の黒い衣装の裾を翻しながら、狼を操って近づいてくる。

 

(あっ、手が離れた!)


 狼に気を取られた奴隷商人が私から手を離したその瞬間、私の体はふわりと宙を浮かんだ。


「えっ?」


 驚いていると、耳元に声が落ちてくる。

 

「お嬢さん、大丈夫か?」

 

 顔を上げると、道化師よりも少し年上のような見目の男性が、私の顔を覗き込んでいた。

 いつの間にか私は、屈強な体格の男性に抱きかかえられていたのだった。


 その男性もまた西洋系の顔立ちで、鳶色の髪を頭の後ろで一つに纏めていて、ワイルドな印象の人だ。

 大柄だけど、やや下がり気味の目尻と緑色の目が柔らかな雰囲気があって、どことなく頼もしさがある。

 

「安心しろ。俺たちは奴隷商人じゃねぇよ。通りすがりの、銀狼リリコス魔導旅芸人一座さ」

銀狼リリコス……魔導旅芸人一座? 魔導って……あの、魔法……ですか?」

「ああ、うちの団員たちはみんな、魔法を使える奴らばっかりなんだ。俺たちはカルディア王国中を旅して、人々に夢と笑顔を届けるのが仕事さ。ちなみに俺は団長のエヴァンダーだ。よろしくな」

 

 そう言い、エヴァンダーさんは歯を見せてニカッと笑った。


「おい、アイザック! その二人を捕まえて憲兵団に引き渡せ!」

「了解~」

 

 アイザックと呼ばれた銀髪の男性は軽い調子で返事をして、ひらりと手を振る。

 狼の首元をとんとんと叩いて、何かを囁くと、狼は奴隷商人たちを捕まえた。


 そうして二人を捕らえた狼は、異国情緒溢れる街中を駆け抜けて、憲兵団へと向かったのだった。

 

     *** 


 エヴァンダーさんとアイザックさんは、元の世界で言うサーカス団のようだ。

 元の世界と違うのは、彼らの公演では魔法が使われたり、猛獣の代わりに飛翔竜ワイバーン大魔狼フェンリルといった魔獣が登場するということ。


 彼らが私を助けに来てくれたのは、彼らが飼っている狼こと大魔狼フェンリルを散歩させている時に私の声が聞こえたから、らしい。


「ここが俺たちの天幕だ。遠慮せずに入ってくれ」

「お、お邪魔します」

 

 奴隷商人たちから助けてもらった私は、エヴァンダーさん率いる銀狼リリコス魔導旅芸人一座の天幕に連れて行ってもらった。

 彼らは上演用の一際大きな天幕の後ろに、宿泊用の小さな天幕をいくつも張っているのだ。

 宿泊用の天幕は、個別で与えられているらしい。

 

 そこにはなんと、魔法のお風呂があったから、ありがたく使わせてもらった。

 奴隷商人から逃げている間にダラダラと汗をかいていたから、その汗を洗い流せるのは嬉しい。

 

 お風呂の後は、用意されていた服に袖を通す。

 銀狼リリコス魔導旅芸人一座の踊り子さんが私物を貸してくれたらしい。

 

 その踊り子さん――アレクサンドラさんは燃えるように真っ赤な髪が印象的なセクシー系美人だ。

 気さくで優しい人で、私が着ていた服が珍しくて目立つから着替えるようにと言って、服を渡してくれた。


 白のブラウスと黒色のシックなワンピースに着替えて宿の食堂へ行くと、エヴァンダーさんを始めとした銀狼リリコス魔導旅芸人一座のみなさんが揃っていた。


「黒髪に黒い目なんて珍しいわね」

「着ていた服も変わっていたぞ。大陸中を探しても、あんな形の服はないんじゃないかな。どこの国から来たんだ?」

「でも、俺たちと同じ言葉を話しているよな。もしかして、どこかの貴族が異国から攫ってきて、囲っていたんじゃないか?」


 よほど私が珍しいようで、好奇心いっぱいの眼差しで見つめてくる。

 

 私からすると、赤色や青色やピンク色の髪を持つ皆さんの方が何十万倍も珍しいのだけれど。

 それはまあ、お互いさまということか。


「おい、お前ら。ジロジロと見るんじゃない。見世物じゃねぇんだぞ」

 

 エヴァンダーさんが私を庇うように前に立ち、みんなを追い払った。

 

「あの、助けてくださってありがとうございました。自己紹介が遅れましたが、私は上羽 玲と言います」

「ウェーバー……が名前か?」

「いいえ、玲が名前です。あと、ウェーバーではなく、上羽です」

「ううむ……名前が後ろにあるとは変わった文化だな。レイ……と呼んでいいか? 俺のことはエヴァンダーと呼んでくれ。あと、堅苦しい言葉遣いは不要だ」

「え、あ、はいっ!」


 パッと見たところ私より年上のようだから呼び捨てにするのも敬語を止めるのも気が引けるけれど、本人が望まないのならしかたがない。


 私は思い切って、彼をエヴァンダーと呼んだ。

 

「あの、私は日本から来たんだけど、どうやったら帰れるの?」

「ニホン……聞いたことがない場所だな。街の名前か?」

「ううん、国の名前だよ」

「……ふむ。それがレイのいた国の名前か……なるほどな」


 エヴァンダーはどこか緊張した面持ちで、思案している。


 それから私は、エヴァンダーからいくつか質問をされて、それに答えた。

 もとにいた世界でどのような仕事をしていたのか、そしてどんな生活をしていたのかといった質問に、できるだけ丁寧に答えた。

 

「レイが生まれた国はこの世界にはないし、その国はカルディア王国より遥かに発展している。……レイはきっと、<彼岸の客人>なのだろう」

「彼岸の客人……? どういう意味なの?」

「別の世界から来た人間、と言った方がわかりやすいかもしれないな。この世界には稀に、女神様が別の世界から遣いを送ってくださるという言い伝えがある。その遣わされてきた者のことを<彼岸の客人>と呼ぶんだよ。……かれこれ、もう三百年は現れていないようだが、今こうして俺たちの現れるとは……女神様は本当に存在するんだな」


 含みのある言い方をしたエヴァンダーさんが、その緑色の目を動かして、アイザックさんを盗み見た。


 道化師のメイクを落としたアイザックさんは破壊力抜群の美形だ。

 白いシャツと黒のトラウザーズに黒のレースアップのブーツといった質素な服装をラフに気崩しているのに、絵本に出てくる王子様みたいな高貴な雰囲気を漂わせている。


(だけど、ちょっと苦手なんだよなぁ……)


 アイザックさんはデフォルトのように人好きのする笑顔を浮かべていて、それがなんとなく胡散臭い。

 彼と目が合うと、思わず身構えてしまう。


(命の恩人に対して無礼なのは百も承知なのだけれど、警戒するのは本能的なことだから、しかたがないよね……?)


 彼の笑顔はどことなく、昨日別れたばかりの元彼に似ている。

 

 にこやかで、誰にでも親切な笑顔を浮かべていた彼。

 優しくていい人だと思っていた私は、彼の本性を知らなかった。


(まさか、付き合ってからずっと浮気していたなんて知らなかった……)


 そうとは知らず、彼と結婚することさえ考えていたなんて。

 我ながら、呆れるほど鈍くてちょろい女だったと思う。


(アイザックさんは軽い口調だし、見るからに女慣れしていそう……)

 

 ちらっと横目でアイザックさんを見ると、ちょうど私を見ていたのか、彼と視線が交わってしまった。

 

 アイザックさんは口元で弧を描いて、作り物のような笑みを浮かべた。

 その表情が本当に胡散臭くて、ますますアイザックさんへの警戒心が高まる。

 

「<彼岸の客人>はこの世界に祝福を与えて、安寧と発展をもたらしてくれると言われているんだよ。過去に現れた<彼岸の客人>は王族に保護されて、そのほとんどが王族もしくは王族に並ぶ上位貴族と婚姻を結んで、死ぬまでこの国を支えたらしい」

「死ぬまで? 元の世界に帰った人は、いないんですか?」

「いないね。何人かは元の世界に帰ろうとしたけれど、方法が見つからなくて断念したようだ」

「そ、そんな……!」


 助けを求めるようにエヴァンダーやアレクサンドラさんに視線を送っても、彼らは表情を曇らして、首を横に振るだけ。

 少しの希望もない状況に、胸を抉られる。


 言葉を失った私を、アレクサンドラさんが痛ましげな眼差しで見つめる。


「彼岸の世界から人を転移させるなんて、それこそ神の御業だから、人間がそれを成し得る方法がないのよ。それに……あなたが現れたと知ったら、王族は何が何でもあなたを囲って、この国に留まらせようとするはずよ。彼岸の客人は、この国に祝福を与えてくれる特別な存在だから」

「――っ」

 

 私が何をしたというのだろうか。

 いきなり知らない世界に連れて来られて、帰れないだなんて、そんなのあんまりだ。

 

 元の世界では散々な目に遭ってきて、嫌な思いをいっぱいしたけれど。

 それでも大切な家族や友だちがいる世界で、愛着がある。

 

 こんなことになるなら、最後に会った時に、ちゃんとした別れの言葉を交わしていたのに――。

 

(もう、みんなに会えないの……?)

 

 あまりにもどうしようもない状況に、どうしてとも、なぜとも、考えていられる余地がなくて。

 目の前が真っ暗になって、その場にしゃがみ込んだ。

 

 すると、エヴァンダーの大きな掌が、私の頭を撫でた。

 

「……レイ、お前はどうしたい? 酷な話だが、元の世界に戻れない以上、この世界でどう生きていくのかを決めた方がいい」

「どんな選択肢があるの?」

「王宮へ行くか、平民としてひっそりと生きるかの二択だ。王宮へ行けば手厚く保護してくれるだろうが、お前が望まなくとも王族との婚姻を求められるだろう。平民として生きるのであれば、この世界で慣れるまで俺たちについてくるといい」

「王宮には……行きたくない。<彼岸の客人>のことはまだあまりよくわかっていないけど、過度に期待をされそうで、怖いから……」


 昔は、仕事で期待されると嬉しかった。

 それだけ自分の実力が認められているのだと思っていたし、その期待に応えらえると達成感があったから。


 しかし期待はいつか「当り前」へと変わって、私を圧迫するようになった。

 これまで少しずつ無理を重ねて期待に応えていた私は、ハードルがどんどん高くなるのを感じて、途方に暮れていた。


 期待に応えたいのに上手くいかないというジレンマと、無理をしてきた体が悲鳴を上げ始めていて、心と体がボロボロになっているのがわかった。

 それでも止め時がわからなかった私は、肩の力を抜けないまま、惰性で自分に鞭を打ってきたのだ。

 

(だけど、もう無理だ)


 いきなり知らない世界に連れて来られて、もう戻れないと言われて、心がポキリと折れた。

 

 正直に言って、もう疲れた。

 こんなにあっけなく、どうしようもないことで努力が全て水の泡になるのなら、これからは楽に生きたい。

 

 となると、<彼岸の客人>という立場はかなり重荷そうだから、お断りしたいところだ。

 

「それなら、レイにいい仕事があるぞ。三食昼寝付きで住み込みの仕事がある。過酷な仕事ではないし、特別な能力も不要だ」

「それってどんな仕事?」


 私の質問に、エヴァンダーはにんまりと笑って。

 

「うちの道化師の世話係だ」

 

 親指でアイザックさんを指したのだった。

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