#8「夜食」


「……ね、眠れない」


 樹里先輩が部屋を出ていった後、ジャージに着替えた俺はすぐさまベッドに沈み込んだ。


 なんだかドッと疲れた感じがして、今日は早めに寝ようと思ったのだ。


 しかし、すっかり目が冴えてしまって全然寝付けなかった。


 思えば風呂に入る前に寝てしまったせいか、はたまた風呂で遭遇したトラブルのせいか、それともさっきまでこのベッドに樹里じゅり先輩が寝転がっていたことを意識してしまうせいか。


 そんなこんなで、気付けば深夜一時を回っていた。


 いつのまにか隣の花火の部屋から聞こえていた話し声も静まり、静寂に包まれている。


 何度か寝返りを打って、どうにか寝付こうとしていたが、不意にぐぅぅぅ……と腹の虫が鳴ってからは完全に目が覚めてしまった。


 何か食べないと、とても眠れそうにない。


 今日は花火の友達が泊りに来るからと晩ご飯を早めに食べたせいで、こんな時間に腹が減ってきてしまったのかもしれない。


 そういえば、多めにカレーを作っておいたとはいえ、まさか三人も泊りに来るとは思っていなかったから、あれで四人分足りたか心配になってきた。


 俺はあわよくばカレー残ってねぇかな……と淡い期待を抱きながら部屋を出て一階に降りる。


 リビングに入ってキッチンの方に来ると、カレーを作った鍋がきれいに洗われて水切りラックに立てかけられていた。


 まさか、二日目を食す前になくなってしまうとは……。


 キッチンを見る限り、他になにか作った形跡もないし、ちゃんと四人分足りたのかもしれない。


 俺は空腹をどうにかするため戸棚を漁る。


 だが、カップ麺のひとつも見当たらなかった。


 ちょうど切らしてしまっていたらしい。


 冷蔵庫の中を覗くと、卵、長ネギ、ベーコンが目に入る。


 炊飯器に白米が残っていることを確認すると、俺はまな板を取り出して長ネギを刻み始めた。


 トントントン……。


 包丁でまな板を叩く小気味の良い音がキッチンに響く。


 ボウルに刻んだ長ネギを入れ、醤油、米酢、ごま油、しょうがチューブなどを入れて、カタカタとかき混ぜていたときだった。


 不意に廊下の方から足音が聞こえ、振り向くと――そこには色素の薄い灰色がかった黒髪のミディアムヘアをおさげに結わえ、ひらひらの装飾があしらわれた涼しげなパジャマを着た夏目なつめ 凪紗なぎさ先輩の姿があった。


 凪紗先輩はリビングの戸口から、明かりの点いたキッチンの方を覗き込んでくる。


「旭さん? こんな時間にお料理ですか?」

「あっ、すいません。うるさかったですか……?」

「いえ、大丈夫です。廊下から明かりが見えたので気になって」

「すいません、お腹空いちゃって炒飯でも作ろうと思って。凪紗先輩はどうかしましたか?」

「えっと、眠れなくて……」


 凪紗先輩が俯きがちに言う。


 まぁ、初めて訪れた家だとなかなか寝付けないというのはよくあることだ。


「よかったら凪紗先輩も食べ……って、いや、すいません」


 よく考えたらこんな時間に食べるわけないか。


 女性に対する配慮が少し足りなかった……。


 軽く反省していると、不意に凪紗先輩がキッチンの方まで歩いてくる。


 そのまま俺の横に立つと、ボソッと小さく呟いた。


「その、私も少しだけいただいてもいいですか……?」

「も、もちろんです」


 普段から表情が乏しいせいで分かりにくいが、少し恥ずかしそうにも見える。


 もしかしたら、やっぱり夕飯のカレーが四人分には少なかったのかもしれない。


 俺は凪紗先輩を待たせまいと、手早くボウルに米をすくい、その中にさっき作ったタレを八割ほど入れてかき混ぜる。


 いい感じにご飯がほぐれてくると、フライパンに油を垂らし、卵を割る。


 フライパンの上で卵をかき混ぜ、その上にタレで和えた米を投下した。


 しばらく強火でいためていると、ごま油のいい香りが漂ってくる。


「あの、すごく今更ですけど……私に手伝えることありますか?」

「いや――」


 大丈夫です、と断りかけて……ふと、こういう場合は逆になにか手伝ってもらった方が気を遣わせなくて済むのではないかと思い至った。


 俺は凪紗先輩にフライパンの取っ手を預ける。


「じゃあ、炒飯を炒めてもらいますか?」

「はい、分かりました」


 凪紗先輩に炒飯を炒めてもらっている間に、俺はステンレスの鍋を取り出し、余った長ネギで中華スープを作り始める。


 夜食にしてはちょっと豪華だけど。


「んっしょ……あれ……?」


 不意に隣からガチャガチャとフライパンの擦れる音が聞こえて視線を向けると、凪紗先輩が両手でフライパンを振ろうとして苦戦しているようだった。


 米を多く取りすぎてフライパンが重いんだ。


「俺、やりますよ」

「あっ……」


 言って、凪紗先輩の背後から取っ手を掴み、フライパンを振る。


 パラパラとフライパンの上で炒飯が躍った。


「どうですか、得意なんです」


 少し自慢げになって凪紗先輩の顔を見下ろすと、なぜか先輩が体を縮こまらせて顔を赤く染めていた。


 その様子を見て、自分がいつの間にか凪紗先輩を後ろから抱きしめるような体勢になってしまっていることに気付いた。


 シャンプーのフローラル系の香りが鼻腔をくすぐる。


 いつもウチで使っているなじみのあるシャンプーだが、凪紗先輩が使うとなぜかすごくいい匂いに感じる。


 ドクドクと心臓の音が加速していくのがわかった。


 不意に凪紗先輩が俺の腕の中で小さく身じろぎして、俺はそこでようやく我に返った。


「あっ、す、すいません……!」


 慌てて凪紗先輩から離れる。


「い、いえ、だ、大丈夫、です……」


 凪紗先輩はすーはーすーはー、と何度か小さな深呼吸をして顔を上げた。


 そこにはいつもの無表情が張り付いている。


 先輩はコホンと軽く咳払いをした後、何事もなかったかのように食器棚の方へ視線をずらした。


「お皿、取ってもらってもいいですか?」

「は、はい……」


 言われた通り、食器棚から皿を取り出し、炒飯を丸く盛りつける。


 仕上げに炒飯の上に残ったタレをかけて、スープも用意したら完成だ。


 俺たちはキッチンからダイニングテーブルに移動し、皿を並べる。


 そして向かい合うように椅子に座り、キッチンの電気で照らされた薄暗い食卓で同時に手を合わせた。


「「いただきます」」

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