無限②

「なあ、やっぱあの点数じゃ怒られたろ?」


僕はニヤニヤとなぜか期待するように返答を待つ友達を見やった。


「当たり前だろ」


僕は楽しそうな顔の友達を軽くにらむ。

どこか抜けたところのある僕の母さんは、テストの一つや二つ持って帰らなかったところできっと気づかない。だからこそ僕は海に投げ捨てるという暴挙に出かかったのだ。それを昨日のあいつが―。あのおっさんのせいで僕は捨てるはずだった十点の答案用紙を家まで持って帰ってしまった。

破いてゴミ箱に捨てればきっとばれなかったが、なぜか僕は彼のすました顔を思い出してしまった。


 ―やっぱ捨てるだろうと思ったよ、クソガキ。


そんな声が聞こえる。あいつの思惑通りになるのは何となく癪だった。


だから母さんにやけくそ気味に突き付けた。怒声が飛ぶかと身構える。実際、母さんは「何このひどい点数!」と反射条件のように声を張った。


「だけど、今思い返せばそこまででもなかったわ」


「なんか言われたん?」


「まあでも、普段はそんなに悪くないもんね。たまにはそんな日もあるよ―だってさ」


「よかったじゃん。命拾いしたな」


ははは、と友達は豪快に笑う。

「ああ」僕は、昨日のあいつを思い返した。

あいつのおかげなわけがない。だから感謝はしない。


ただ、「おっさん」と呼ぶのはやめてやろうと思った。









「なんだよ、おっさん。何見てんだよ」


「会って早々なんだ、チンピラみてえに。それに俺はおっさんじゃない。お兄さん、だ」


開口一番「おっさん」呼びをした僕に、釣り糸を青い水面に垂らした彼が意味のない訂正をする。僕はそれを無視して、「なあ」と声をかけた。


「釣れてんの?」


「あ?まあ、ボチボチってとこかな」


あれから一週間。僕は、水曜日の今日を狙ってまた海へ来ていた。

行けば会えるなんて確かな根拠も自信もないが、行ってみなければわからないだろうと思ったのだ。なんで会おうと思ったのかは自分でも分からない。


「何が釣れんの?」


「ウミタナゴ。あとはカサゴ」


「なにそれ」


聞いたこともない名前だった。けど、彼の言うには海釣り初心者が釣るような種類らしい。つまらなさそうに説明した後、独り言のように「百聞は一見に如かず、ってわけで見てけ」と呟いた。

僕はうんともううんともつかない返事をして、そのまま突っ立っていた。大して用事もないが、初めて聞く魚たちを見たい気もしていた。


「おっさん」


そう呼ばれることに慣れたのか、はたまた諦めたのか、おっさんは「なんだ」と竿を大きく煽りながら聞いた。こうすれば魚が寄ってくるのか、と僕は勝手に推測する。


「おっさんの働いてる飲食店ってどこだ」


「ん、ああ。『無限』だ」


「―え」


目を見開く。「うそ、マジ?」言葉がするりと抜け落ちた。

『無限』っていえば、あの店じゃないか。暖簾がかかった狭い手動の扉、古びているがきれいに保たれた外観。改めて、この町を狭いと思った。

僕の父さんは飲食店、もといラーメン店に勤務している。それが、今彼の口から出た『無限』だ。「無限、っていい響きだよなあ」と日に焼けて黒い顔をくしゃくしゃにして笑う父さんの顔を思い出した。


僕は彼を見返し、にやりと笑った。


「なあ、山田俊之って知ってる?」


「え……何でお前、」


「僕の父さんの名前。『無限』で働いてるだろ」


「え、まじかよ」


その時、ぐいと彼の右手が引っ張られた。


「引っかかったの?」


「ああ」


彼は慣れた手つきでリールを巻いた。こうなったら父さんの話はお預けだろう。すがすがしいほどの青を覗き込む。僕の目は、だんだんと姿を現してきた鮮やかな赤に釘付けだった。


「はあ、疲れんなこれ。電動リールにすりゃあよかったな」


一人でぶつぶつ呟きながら、彼は釣り上げた赤色の魚を網ですくいあげた。背中がとげとげしていて、こんなのが海にいるのかと目を疑う。


「おっさん、この魚は?」


「これか?オニカサゴだ」


オニカサゴ。やっぱり初めて聞く名前だ。そういえばさっき、ウミなんちゃらとカサゴが釣れるって言ってたっけ。つまりカサゴの一種だろうなと推測していると、「気をつけろよ」と彼が何やら忠告した。


「なにが」


「これ、毒あるぞ」


「えっ」僕は思わず後ずさった。確かに見た目からして毒がありそうだ。そんな僕に彼は苦笑いをしながら、「おい」と引き留めた。


「といっても身は旨いし、これでも高級魚なんだぜ。毒があんのはこの針だけだ。そこにあるペンチとハサミ拾え」


「え、これ?」


 僕は彼の目線の先をたどって、クーラーボックスの隣に放ってあったペンチとキッチンバサミを発見した。拾い上げ、二つとも彼に渡す。すると彼はペンチでオニカサゴの口をはさみー背中の毒針を豪快に切り始めた。もちろんオニカサゴは暴れている。それでも彼は手を放すことなく、丁寧に、すばやくカットした。


 僕はその手つきにひたすら感心していた。僕の彼に対する第一印象など、とうに頭から吹っ飛んでいた。

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