無限
さとぅん
無限①
つくづく今日はついていない。
重石のようなリュックを背負い、自分の通う中学校の制服を身にまとったまま、僕は砂浜の手前までやってきた。
目の前に広がるのは、憎いほどに青く光る水面だ。
僕の家はここから約十五分、二階建てのアパートだ。そして、海の見える街に住んでいる。学校もスーパーも薬局も徒歩圏内にある、ド田舎以上都会未満の街。僕の住むⅠ県は悪い評判こそあまりないといわれているが、特段目立つような魅力もない。
平凡な街。いつだったか、八歳年上のお兄ちゃんはそう言っていた。そんな彼は四年前、大学進学を理由にそそくさと逃げるようにして上京していった。
そんなことより、これ、どうしようか。僕は右手に握りしめた、もうくしゃくしゃになった紙をちらりと見やった。
どうするも何も、やっぱり、捨てるしかないよな。
原因不明の罪悪感を覚えながらも、決意は揺らがなかった。ちらり。あたりをさっと見渡す。セーラー服を着た女子高生二人が海水を掛け合っている以外に人はいない。いける。
いやいや、でも。どうせ捨てるのならばこんな誰が海に入るかわからない場所より、もっと見つかりにくい所がいいだろう。それに、もっといい場所を僕は知っている。海沿いに歩いて行った。だんだんと景色が変わっていく。やがて、グレーの岩が無視できないほどに視界を陣取ってきた。磯だ。
ここなら見つからないだろうと安堵する。僕は汗ばんだ右手を広げ、泥団子を固めるようにして両手で紙をさらにくしゃくしゃにした。赤いペンで十、と殴り書きされた箇所は外から見えないようにしっかりと折り込むことも忘れなかった。小さな野球ボールにも満たないサイズになったそれを持ち、五歩ほど下がる。
そして助走をつけ―
「こら、やめろ!」
スロー直前に発せられた怒号が耳を打つ。おかげで紙は僕の後ろで手から滑り落ちたし、僕自身が海に落ちそうになった。ここから落ちたんじゃ、ひとたまりもない。
危ねえな。なんてことしてくれてんだ。僕はいら立ちをそのままぶつけるようにして後ろを振り返った。
「なに、おっさん」
「俺はおっさんじゃない。お兄さん、だ」
僕は男を睨みつけた。年は三十代半ばといったところか。それなのに、こいつはこんな平日の真昼間から釣り道具を肩にかけてクーラーボックスを左手で持っている。ああ、そういうこと。口の端をあげた。
「わざわざ邪魔なんかして、暇なの?もしや無職?」
「あ?んなわけあるか。チゲえよ」
「チゲくないね」
思わず変な言葉使いをしてしまう。
「だっておかしいだろ。まだ昼だぜ」
「あほ。平日休みって知ってっか」
「平日休み?」
あほみたいに反芻してしまう。痛恨のミスだ。案の定、彼はさっき僕がしたようにニヤリと僕を見た。
「ははあ、知らねえのな。クソガキ、この世には平日に休める職種がたくさんあるんだよ。例えば俺の働いてる飲食店とかもその代表例だ」
「へえ、そんなに口悪くても飲食店で働けるんだ」
さっきやらかした分も取り返そうと、僕は精いっぱいの憎まれ口をたたく。しかし彼には全く響いてないみたいだった。
「まあ、お前みたいなクソガキとは格が違うからな」
「クソガキってなんだよ。僕はクソガキじゃねえし」
僕はイライラしながらも紙を拾う。彼は僕のそのしぐさに、今初めて会ったかのように「なあ」と声を上げた。顔はもう笑っていない。
「なんなの?それ」
「今日会ったばかりのおっさんに言うわけねえだろ」
必死に捨てようとした自分がばからしく思えてきた。右手に紙―もといテストの答案用紙を握りしめたまま、無言で彼の横をすり抜ける。肩がぶつかったが、無視だ。「あ……おいっ」背中に刺さる声も無視して、僕は走った。家に着くまで、一度も後ろを振り返らなかった。やはり、今日はつくづくついていない。
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