七番目の彼女がアレな件について

田口善弘

第1話 七番目の彼女

「シン、どうしよう?」

カノンが不安げにシンを見上げた。

「大丈夫、任せて」

 シンがカノンに向かって笑顔で頷いて見せると、カノンが上目遣いで見上げながら心細げにおずおずと頷き返した。シンの大脳にインストールされた自我パーソナルの中ではカノンは最年少だ。シンはいつも不思議に思う。どの自我パーソナルが召喚されていようと、素体は肉体的には寸分変わらないはずなのに、カノンが召喚されているときは一回りは小さくなって見える。カノンが召喚されている素体が身につけているのはカーキ色のホットパンツに無地のグレーのTシャツ。次がフレイアだったら眉を顰めそうな装いだ。少女である素体の外観はいわゆるツインテールの髪型で手足はすらりと細く、スレンダーな体形とハイティーン女子としてはやや高めの身長、と言ったところだろうか。カノン特有のいつもながらの自信なさげな表情がいっそう素体を幼く見せている感じだ。

 それにしても、とシンは思う。よりによってカノンが召喚されている時にこんな場所でインシデントに会ってしまうとは。昼日中からインシデントが出てきたのは初めで、すっかり油断していた。カノンの専門分野は文学。そして、ここは大和市市立図書館の八木沢分館。この場所にはカノンの能力は似つかわしい。何しろそこら中本だらけなのだから。だが、それも戦闘の役には立たない。カノンを喜ばせようとこんなところにつれてきたのだが今となっては裏目に出た感じだった。

 幸いにも、インシデントはまだこっちの存在には気づいていないようだった。八木沢分館も普通の図書館のご多聞に漏れず、本がぎっしりと詰め込まれた本棚がずらりと並んでいて、閲覧室を一目で見通すことはできない。そうでなければとっくにカノンとシンはインシデントに見つかって戦闘を余儀なくされていたところだ。

 シンはスマホを取り出すとケースから外した。ケースの内側にはこんな時のために鏡が貼ってある。用心ぶかく、そっとケースを通路に差し出す。鏡に映った本棚と本棚の間の通路にインシデントが背を向けて立っているのが見えた。このインシデントは爬虫類型だった。二本足で立ち、長い尻尾が蛇の様に閲覧室の床の上でのたうっているのが見えた。周囲の人間の間に騒ぎはなかった。インシデントは普通の人間には見えない。真昼間から出てきたからそれも変わってしまったのかと思ったが、さすがにそこは変わっていないようだった。

 インシデントがゆっくりとこっちを振り返るのが鏡に映った。耳まで裂けたぎっしりと牙が並んだ口の端からぽたぽたとよだれが床に落ちるのが見える。シンは素早くケースをひっこめた。まだ、こっちの場所を把握していないようだが、時間の問題だろう。爬虫類型なら、嗅覚も鋭いはずだ。

「他の自我パーソナルと交代してもいい?」

相変わらず心細げに上目遣いでカノンがきいてくる。さっきからぎゅっとシンの手を握りしめているカノンの手を汗だくだ。微かに震えている。代わればこの恐怖から逃れられる。だが。

「まだ、待って」

シンが返すと、カノンが頷く。だが、それほど長くは待たせられないだろう。と言っても召喚しなおすにしても五分の二の確率に賭けるのは無謀すぎる。レイかフレイアが出て来てくれればこの状況なら楽勝で一発逆転。同じ自我パーソナルが続けて出てくることは無いから、次もカノンの可能性はゼロ。だが、マチルダや、サクラ、セダンヌが出てきたら。状況は悪化しこそすれ改善はしない。

(まったく一日三回回までなんてケチな設定を付けるから)

シンは心の中で毒づいた。六人の少女を召喚できるシステムをくみ上げただけでも恐るべき才能だし、そのための自分の娘を犠牲にしたことを思えば、文句をいう筋合いではない。六人中二名がレイとフレイアというだけでも上出来なのだ。

「カノン、この状況を奪回できる小説を思い出せない?」

カノンが頭を振った。カノンの知識はフィクションに限られている。絶対に役に立たないとは言えないがあまり期待はできないのだ。

(どうする?)

インシデントに気づかれないうちにそっと逃げ出すという手もある。この場を逃げ出すことさえできれば他の相応しい自我パーソナルを召喚済みの素体に引き継げるし、あるいは、最悪、三回の召喚を行ってレイかフレイアが召喚出来たらここに取って返す手もある。どうやらそれ以外、いいアイディアはなさそうだった。

「カノン、来て」

カノンが頷く。カノンの手を引いてそっとインシデントとは逆方向に受かって本棚の間を忍び足で進んだ。爬虫類型は嗅覚だけではなく聴覚も鋭い。音を立てては見つかってしまう。本棚が切れる通路を横切るときは、スマホケースの裏の鏡でしっかり確認してから足早に通り抜ける。

分室の出口が見えてきた。

(よし、なんとか)

希望が見えて来たことで緊張がゆるんだ。顔面蒼白だったカノンの顔にも赤みが戻って来た。そして、出口にむかって最後の通路をよぎった時だった。

突然、そいつが目の前にいた。

(なぜ?)という想いが先に立つ。やはり聴覚か嗅覚で検知されてしまったのか。だが、逡巡している暇はない。少なくともカノンはそう考えた。

「いきますっ!」

「あ、待て!」

シンが止める間もなくカノンが爬虫類型インシデントに立ち向かった。カノンとインシデントが半球状の光芒に包まれ戦闘空間が起動した。

インシデントのクエリーが響く。

【浮動小数点について述べよ】

カノンの専門は文学だ。答えられるわけがない。

「うっ」

カノンのライフが削られ、顔面の造作が欠落する。おどろおどろしい見た目に反して、インシデントとの戦いは情報戦なのだ。問いを発し答えられなければライフが削られる。だが、専門外の問いに答えられなくてもライフはさほど削られない。カノンがクエリーを返す。

【嵐が丘の登場人物を三名あげろ】

技術が専門の爬虫類型インシデントは答えられない。ライフが削られ、インシデントの腕が吹き飛んで血が飛び散った。一見、幸先良い滑り出しに見えるが。

(まずい)

シンはむしろ焦っていた。専門がずれているインシデントと自我パーソナルの戦闘になると互いに致命傷が与えられず、持久戦・体力勝負になってしまう。となったら今のカノンの素体ではインシデントと先にどっちが体力が尽きるかは火を見るより明らかだった。

(くそ、どうすれば)

一か八か他の自我パーソナルを呼び出すことに賭ける手はある。だが、どの自我パーソナルを呼び出すかは、時の運。そして召喚は日に三回まで。それを越えると・・・。

隙を見て逃げを打つしかないとシンは判断した。何度目かのカノンのクエリーでインシデントのダメージがことさら多い瞬間があった。

(今だ)

「カノン、逃げるぞ!」

カノンはちらっとシンをみると頷き、素早く戦闘空間を畳みシンの方に駆け出した。差し出されたカノンの手をとって駆け出すシン。

(なんとかなった)

とシンが思い、逃げ出せそうと息をついた瞬間、目の前にそいつがいた。

「なっ」

そんなバカな、という気持ちが湧きあがった。日中インシデントが出て来ることさえ初めてなのに、二体同時に同じ場所に出現するなんて。人型のインシデントだ。人型、と言っても、造形が人間に似ているだけだ。二本足で立ち、日本の腕を持ち、顔の正面に目が二つ付いている以外は人間とは似ても似つかない姿だ。全身がうろこ状の甲羅に覆われ、黒光りしている。なにより、面倒なのは人型にはそれなりの知能があることだった。そいつはカノンとシンを見ても全く驚くそぶりを見せなかった。明らかに待ち伏せしていたに違いない。そいつは手に持った長刀を二人に向かって振り下ろした。

カノンが握っていた手を放し、振り向きざまに強引に唇を重ねてきた。

「ちょっ」

シンが避ける暇さえない素早さ。だが、他に方法は無かったろう。人型のインシデントの専門は文学ではない。専門外のインシデントと自我パーソナルの二対一の戦いでは、自我パーソナルの負けは避けられない。

目の前がいつものようにホワイトアウトする。カノンを始めとする六つの自我は、その肉体に宿っているわけでなく、シンの大脳に書き込まれているのだ。そして、唇を重ねることで呼び出される。すでに具現している一人を除いた残りの五つの自我のうちの一つが。ランダムに。

 シンは力が抜けて床にへたり込んだ。自我パーソナルが読みだされる時はいつもそうなる。シンの大脳にはその瞬間、とてつもない負荷がかかっているのだ。床に倒れながらシンは必死にさっきまでカノンだった少女の方を見やった。

(誰が出てきたんだ?フレイア?レイ?)

さっきまでおずおずとシンの手を握っていた少女の姿はすでにそこには無かった。代わりに背筋を伸ばし胸を張って人型のインシデントの前に仁王立ちする少女の姿が。

(誰?)

フレイアではない。フレイアならとっくに自分をファインチューニングする体制に入っているはずだし、レイだったら生成系AIモジュールを召喚しているはずだ。マチルダにもサクラにもセザンヌにもインシデントの前に仁王立ちする度胸などないはずだった。突然、少女の口から言葉が発せられた。

「●☆※××△」

まったくシンが一度も聞いたことが無い言葉だった。だが、もっと驚いたことに、インシデントが振り上げた刀をぴたりと止めた。

「●☆※××△!」

少女は更に右手を挙げてインシデントを指さしながら、前についと出ると畳みかけた。人型のインシデントはゆっくりと刀を持った腕を下した。コトン、と音を立てて刀の先が床に落ちた。

少女が振り返った。

「何をしている!行くぞ!」

そのままシンの手を握って走り始めた。

シンはよろよろとひきづられながらやっとの想いで尋ねた。

「だ、誰?」

少女は振り返らず、まったくたじろぐこともなく、シンの手を握って走りながら答えた。

「デザイア。この世の語学の全てを司るものだ」

シンは驚いて聞き返した。

「ってまさか?」

デザイアが頷いた。

「そのまさかだ。わたしは七番目の自我パーソナルになる。よろしく頼む」

シンは茫然自失のまま走るしかない。今日は本当に初めてのことは多すぎた。



 

 

 

 

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