パペット使いの相良くん
綾呑
なんともいえない空気感
4月7日。
遅刻しないよう、けれど早く着きすぎないように時計を何度も確認しながら家を出る時間を調整する。千花はそわそわとする心を落ち着かせるため、玄関に置かれた姿見の前に立った。
肩まで伸びた黒髪はうなじのところで一くくりに、姫毛は顔のラインに合わせて緩くカールしている。
自然な形で整えられた眉の下、ぱっちりとした目は大きい。ピンク色の唇が白くて透き通った肌によく映えている。
「うん、ばっちり」
千花は最後に淡黄のセーターをぱっと払った。
千花の通う高校の制服はブレザーを採用している。
寒さの厳しい季節はブレザーを羽織り、暖かな季節はシャツとセーターで過ごす。シャツも半袖と長袖があり、体温の調節がしやすい。
「千花ー。そろそろ時間なんじゃない?」
リビングのほうから母の声が聞こえた。スマホで時間を確認し、千花はローファーを履く。
どたどたと二つの足音が響き、それは自分の後ろでぴたりと止まった。
「いってらっしゃーい」
「いってらっしゃい!」
間延びした声と元気な声。
年の離れた双子の弟妹たちだ。今年で七歳、小学二年生になるが、どちらもまだまだ甘えん坊だ。
おっとりとした男の子が兄の
「お姉ちゃん、行ってくるね」
ぽんぽんと二人の頭を撫でると、二人は頬を綻ばせた。
通学手段は徒歩だ。だいたい二十分くらいで着く。
昇降口でばったり会った友人と話をしながら、教室へと向かう。彼女は残念ながら別のクラスだったため、教室には一人で入らなくてはならない。
「……ふぅ」
小さく深呼吸し、千花は教室へと入った。
クラスメイトの半分ほどが登校しており、すでにグループもできつつある。だからというわけではないが、千花は不安を覚えた。
少し、教室の雰囲気がおかしいのだ。ほとんどの人が教室の後方に訝しむような視線を向けていて、ひそひそと話し合っている。
千花はクラスメイトたちの視線を追う。ぽつん、と一人の男子が遠巻きにされていた。
そうして顔を向けた千花もまた、クラスメイトと同じように目を奪われた。
「――」
清潔感のある整えられた黒髪、横顔から窺える目は垂れていて、柔らかい雰囲気の男の子だ。
座り姿勢が猫背気味なため、いささか小柄に見える。実際、成長前とはいえ平均身長を下回っているだろう。
距離を置かれるほどでもないと思いながら千花はぱっと黒板を見る。黒板には白いチョークで席を模した四角と、その中には名前が書かれていた。各座席だ。
窓際、一番後ろの席。最高の場所に千花の名前が書かれている。そしてその隣、周りから異様な視線を向けられている男子は、
「ちー、おはよー」
ぽん、と肩に手を置かれ、千花はびくりと体を震わせた。
「あ……ゆづ。おはよう。同じクラスでよかったー」
彼女は
さらさらの黒髪はボブに整えられ、少し上がった形の目が印象的だ。
鼻筋が通った綺麗な顔立ちで、さらにスタイルもいい。女子の中では一、二を争うほど背が高く、モデルをしていると言われてもすんなりと納得できるほどだ。
「こんなとこに立ってどしたの。席わかんない?」
柚月は小さく首を傾げた。
「あ、いや……そうじゃなくて。席は、わかってるんだけど……」
なんと説明すればいいかわからず、ごにょごにょとしてしまう。ちら、と千花が叶人に顔を向けると、柚月もそちらに目をやる。
「え」
ざわ、と教室が騒めいた。
二人が顔を向けたのと同時、叶人がリュックから、本来ならば学校に持ってくるはずのないものを取り出していた。
ふわふわとカールした茶色の毛。真っ黒で真ん丸な目。人の頭とほぼ同じ大きさの――、
「……ぬいぐるみ?」
誰かが疑問を呈した途端、「うわ」とか「ほんとだったんだ」とか、もはやひそひそ話を隠す気も失せたクラスメイトたちが一斉に声を上げた。
もしかしてこれはなにかのドッキリで、今、試されているのではなかろうか。そんなことを考える。
千花もクラスメイトたちと似たような反応をする。目を丸くして、思わず凝視してしまった。
けれどすぐに、「葵や茜が見たら、喜ぶだろうな」と戸惑いつつも心が躍っていた。
「あっぶねー!」
間に合った、とざわつく空気を上書きするように大きな声を発して教室に飛び込んできた男子生徒。いつの間にか彼が注目をかっさらっていた。
「初日から遅刻とかやばいだろ!」
「してないから! まだセーフ! ほら時計見てみ!?」
続いて担任と副担任の教師が挨拶に来たことにより、教室の空気はうやむやになった。
どこかそわそわとした空気も残っているが、始業式には出なくてはならない。叶人はあのぬいぐるみを持っていくのかと誰もが注目した。
けれど、ぬいぐるみはそっと椅子に座らされ、背もたれにぐったりともたれかかっていた。さすがに始業式には出ないようだ。
「……かわいい」
千花はぽつりと呟く。
「ちーはああいうの好きそうだよね」
「んー、うん。わりと好きかも」
「クマだしね」
言われて気づく。
「はーい、移動するよー」
担任の声が廊下に響き、ぞろぞろと移動を開始する。
体育館は窓が開け放たれ、暖かな日差しと爽やかな風が吹き込んでいる。眠気を誘うほどに気持ちよくて、心地いい。
始業式は滞りなく進み、校長も程よい長さのスピーチで終わった。
再び教室に戻り、席についていく。
千花は内心どきどきしながら、叶人の隣に座った。ちらちらと叶人に向けられる視線に巻き込まれているようで、なんとも落ち着かない。
全員の着席を確認した担任が一息ついたところで口を開く。
「まずはみなさん、入学おめでとう! これから一年間よろしくお願いします。中学が同じ子もいるだろうけど、ほとんどが初めましてだから、恒例の自己紹介していこうか。名前や入りたい部活、あとは趣味とか教えてね」
出席番号が一桁の千花は比較的、早く順番が回ってくる。
「熊谷千花です。部活は手芸部に入ろうと思っています。趣味は、弟や妹と遊ぶことです。よろしくお願いします」
前の人たちの紹介を参考にしながら、手短にまとめる。
千花から五、六人が過ぎ、ある意味、最も期待値の高い人物の自己紹介の番が来た。やけに静寂が目立つ中、相良叶人が立ち上がる。
誰もが固唾を飲んでいた。
「――」
叶人の左手にはクマのぬいぐるみ――ではなく、形的におそらくパペットと呼ぶであろうそれがはめられている。
クマは手と手を合わせたあと、ぱっと腕を広げ、今度はぺこりと頭を下げた。
「それで終わりかよ!」
まさかの、一言も発することなく、叶人は座ってしまった。
なぜか担任も静かに拍手をするだけで、特に苦言を呈することもない。
「えー……俺、この流れで自己紹介すんの……? 最悪なんだけど……」
絶妙な空気の中、自己紹介が再開される。その後は滞りなく進んでいった。
「中野柚月、バスケ部希望です。趣味はカフェでお茶して、甘いものを食べることかなー。お節介ってよく言われるから、もし気に障ることしちゃったらごめんねって先に謝っておきます。よろしくお願いしまーす」
柚月は顔がいい。一部の男子からざわめきが起こっていた。
「
今までで一番大きな声で高らかに宣言したのは、先ほども空気を塗り替えたあの男子だった。
茶色がかった黒髪は短く、目の色も焦げ茶色だ。身長も高く、運動部希望ということもあってガタイのいい体格をしている。
長袖のシャツは肘まで捲られ、そこから伸びる腕は日に焼けて筋肉質だ。はきはきとしていて、名を体現するように太陽が似合うと言っても過言ではない。
体格と声量から少し圧があるが、性格の明るさでカバーされている。
「……っふ」
無意識のうちに見ないようにしていたのか、気づかなかった。
叶人は自己紹介が終わるたび、パペットの腕を動かしてとんとんと拍手していた。そのシュールさと可愛さに思わず顔を逸らして笑ってしまう。
「えっ」
呼吸を整えて顔を戻すと、クマが覗き込んでいた。器用に首を傾けている。
ちらりと叶人を見る。目が合うと、ふわりと微笑まれた。
俯きがちで知らなかったが、叶人の顔は非常に整っている。いわゆるイケメンの部類に入るだろう。
細められた黒い目に引き込まれそうになり、どきりと心臓が跳ねた。どう反応していいかわからず、千花はとりあえず小さく頭を下げる。
すると、クマもぺこりとお辞儀をしてくれた。
「かわいい……っ」
子供心がくすぐられる。弟妹たちの影響で千花はおもちゃや人形など、子どもが欲しそうなおもちゃが好きだ。
特にぬいぐるみはそこにあるだけで目の保養になり、癒しをくれる。
「はーい、みんな素敵な自己紹介をありがとう。それじゃあ明日からの説明をするから、よーく聞いてね。配られたプリントも忘れずに親御さんに渡すように」
担任は授業の時間割や親に向けたプリントなどを配っていく。早めに提出しなければならない書類もあり、妙な緊張感が張り詰めていた。
「ねえ、このプリントって折っていいやつ?」
「わからん。でもファイル入んないよね」
「折らなかったら鞄の中でぐちゃぐちゃになりそう」
千花は前のほうで交わされる会話に耳をそばだてた。
ファイルよりもサイズの大きいプリントは折ってもいいのか。
毎年、重要なプリントが配布されるたびに浮かぶ永遠の疑問だ。
「せんせー、このプリントって折ってもいいんですかー?」
「大丈夫だよー」
その返事を聞き、角と角をきっちり合わせて丁寧に折る。何枚も折ってきた折り紙のおかげでお茶の子さいさいだ。
「なにか質問がある人はいる? ……なさそうだね。ちょっと早いけど今日はこれで終わり、時間になるまで廊下には出ないようにねー」
学期の始まりである今日は午前中で終わりだ。
担任は「しー」と唇の前に人差し指を添えた。それを合図に、一人、また一人と席を立つ。
「ちー、一緒に帰ろ」
柚月が窓台にもたれかかった。窓から差し込む光と風、舞い散る桜を背後に背負い、美しい画になっている。
「叶人」
千花と柚月はよく通る声に顔を向けた。たしか、日向和臣だ。叶人は彼にもクマで答えている。
「大丈夫か?」
クマはこくりと小さく頷く。
「一緒に帰ろうぜ」
クマが同じ動作をする。
「日向って相良と仲いいの?」
「ん? そういえば中野も同じクラスか。中学から知ってるやついてよかった!」
「いや質問無視か」
「あ、悪い悪い」
呆れる柚月に和臣は軽い調子で笑った。
「叶人とは中学でも同じクラスだったんだよ。多分あれは先生たちに操作されてるとみた! だからもちろん仲いいよ。ちなみにこれ、パペットっていうやつ」
クマも控えめに頷いている。
「なるほどね。あ、ちーに教えとくと日向とは同じ塾だったんだよね。この子は同じ中学の千花。あたしはちーって呼んでる」
「よ、よろしくね」
「おー、よろしく! 俺もちーって呼んでいい?」
「あ、うん。大丈夫」
距離の詰め方が尋常ではない。悪い気はしないが、わりと圧があるため緊張してしまう。
「こいつは相良叶人。最初は驚くかもしれないけど、いいやつだからさ。二人も仲よくしてくれ」
「あたしは別に気にならないけど。日向がいれば意思疎通できるんでしょ?」
「多分な! わからなかったら筆談でいけるから」
柚月と和臣とで会話が進んでしまったため、『仲よくしてくれ』に答えることができなかった。
「二人って通学手段なに? 帰りどっち?」
「あたしは電車。駅まで行く」
「私は徒歩だけど、ゆづと駅まで行って解散って感じかな」
「お、同じだ。俺が自転車で、叶人が電車。だから一緒に帰る日はいつも駅で解散してる。一緒に帰ろうぜ」
和臣の提案により、四人で帰ることとなった。
登下校の際はクマをリュックにしまうようで、叶人は大事そうに入れていた。
それから四人は教室をあとにする。まだ微妙な距離感があるが、ひとまずは友人ができたことに安堵した。これでグループを作るときに困らない。
他愛ない話をしながら駅で解散し、それぞれの帰路につく。
「クマ、可愛かったな……」
高い日の下、千花は可愛いくて器用に動かされるクマを思い出していた。
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