3-2 再会

 翌日、チセが孤児院の外に出そうだという連絡を受け、ウルリヒは彼女のもとに走った。チセは寄宿舎を出て、曇天の下、出入り口の門の方向へ向かって歩いていた。

「なにをしているんだ?」

 ウルリヒが背後から声をかけると、彼女は足を止め、振り返ることなく答えた。

「ナノを探している」

「彼女は今ここには居ない」

「どこにいるの?」

「今は所用で出ている」

 チセの刷り込みが終わるまで、ナノとチセを会わせるべきではないという判断から、彼女は一時的にデニスの自宅に移されている。ウルリヒはそのことをチセに教えようとはしなかった。それを伝えるということは、今のナノがどうなっているのかを教えることと同義であるためだ。

 チセはウルリヒを振り返った。振り返りざまの表情は泣きそうな程に弱々しく見えたが、彼女はすぐにそれを取り繕うような笑顔を作っていた。

「そっか、いつ帰って来る?」

「それは私にも分からないが、そう長くはない」

「そっか」

チセは仕方ないといった風に呟くと、ウルリヒの手を取って、職員寮の方へと歩き始めた。

「またピアノ教えて」

 ウルリヒは歩きながら、彼女に握られている左手に視線を落とした。チセの手は白く綺麗だが、その見た目に反して手のひらの皮は厚い。

「もうナノとは会えない」

ウルリヒが小さく言った。チセは彼の手を離し、足を止めた。ウルリヒも立ち止まる。

「そう言ったら、チセはここを出て彼女に会いに行くか?」

「そんなことしない」

チセはウルリヒの方を向いていたが、その視線は地面にあった。

「何故だ?」

「ウルリヒさんを困らせたくない」

「私のことを考える必要はない」

「それでも、行かない方が良い、と思う」

「どうしてそう思う?」

「ナノに会いたいというのは私の望みでしかないから。そんなので誰かが不幸になるのは嫌だ」

「不幸になるとは限らない」

「なるよ。いつも私が私の望みを優先させたら、誰かがその分の代償を払うように不幸になってきた」

「偶然が重なることはある。チセが自分の望みを優先させたことなんて数えられる程度しかないはずだ。そんなことで自分を抑えつけて、欺き続けると、本当の自分が分からなくなる」

 ウルリヒは自らの発言に俄かに苦笑を漏らし、そしてその唾棄すべき発言を打ち消すように独りごちた。

「なにを言っているんだ、俺は……。自分を抑えつけ、欺く、俺がやらせてきたことじゃないか」

 チセはウルリヒを見上げた。彼は片手で隠すように顔を覆っていた。

「私が逃げ出したらウルリヒさんは困るでしょ?どうしてそんなことを言うの?」

「……疲れているのかもしれない。お前は植え付けられた愛で私を慕い、笑顔を向ける。私も空虚な笑顔を返す。日々、欺瞞と罪悪と共に水を飲み、虚偽と共にパンを食う。そんな日々に疲れてしまったんだ」

ウルリヒは顔を覆っていた手を下げ、腰を落とし、両の手でチセの肩を掴んだ。

「ここに居れば、チセも、そしてナノも兵器として殺される。連れ戻すべきではなかった……。私のことなどどうでも良い。チセの本当の願いはなんだ」


・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・


 デニスが自宅で夕食の支度をしている時であった。彼は玄関の扉が開く音を聞いた。ナノが外に出てしまったのかと考え、廊下の明かりもつけずに急いで玄関へと向かう。

 玄関に続く廊下へと出た瞬間、大人と子どもの二つの人影が目に入り、デニスは壁にあるシーリングライトのスイッチを押した。

 そこにはウルリヒとチセが立っていた。

 二人が来るという連絡は受けていない。そもそもチセの刷り込みが終わるまで、彼女とナノの接触を避けるためにナノをこの場に移している。チセがそこに居ること自体がおかしい。

「どういうことですか?」

 デニスはウルリヒに問いかけた。ウルリヒは答えなかった。

 彼が口を開くより前に二階に居たナノが、玄関の正面に位置している階段に姿を見せた。

 全員の視線が彼女へと集まる。その視線の中、突如としてナノは大きく後ろに跳び上がった。なにもないはずの空間に何か危険を見たかのような反応であった。彼女は睨むように先刻まで自分が立っていた場所を確認すると同時に、そこを避けるように壁へと向かって跳び上がり、壁面を蹴って一気にデニスの背後の床へと着地するなり、彼の腕を引いて居間へと走った。

 デニスは居間へと入って行く直前、チセの周囲の床から無数の半透明の腕が生え、彼らに向かって一斉に襲い掛かって来ているのを見た。

「下がっていて」

 ナノは落ち着いた調子で言いながら、そのまま前方へと駆けていく。チセが生み出した“腕”は扉の前で止まったままそれ以上追ってくる様子はなかった。

 ナノは両手を壁につけた。その壁の反対側にはチセとウルリヒが居た。

 チセがナノを追うために一歩踏み出した直後、床から天井程まである巨大で鋭利な刃が彼女たちに向かって突き出した。

 チセは刃を目で捉えるよりも先に、初撃で生成していた無数の腕をもって、瞬時に自分とウルリヒを取り囲むような半球を作り上げていた。

 衝突した刃が砕け散る。

「ここにいて」

チセは首筋の冷や汗を服の袖で拭い、ウルリヒを見上げて言う。そしてウルリヒの返事を待たずして居間へと入っていった。

 チセが居間に足を踏み入れた直後、ナノの拳が彼女の顔めがけてとんできた。チセは体勢を落としてその拳を避けると同時に、ナノの顎先に向かって蹴りを放った。が、ナノが体を低くしたことで、空を切る。

 二人は互いに警戒し、僅かに距離を置いて拳を構えた。

「ナノ」

そこで初めてチセがナノに声をかけた。「一緒に逃げよう」

「逃げる?」

ナノは警戒を解かないまでも、彼女の言葉に応じた。「どうして?」

「ここに居たら、兵器の動力源として殺されるんだ」

「それが私たちの役割でしょ?」

 チセは唇を噛んだ。その目には憤怒の陰があった。

「無理やりにでも連れていく」

 チセの周囲に先刻と同様の半透明の腕が生み出されていく。しかし、その魔法が完全に発動しきる前に、ナノが大きく踏み込み、拳を放った。チセは半身になって躱し、放たれたナノの腕を掴むと、その勢いを利用して彼女を背負い投げた。

 低い衝撃音がこだまする。ナノは受け身をとってはあったが、その衝撃に瞬時体を強ばらせた。

 チセが拳を振り上げる。

 しかし、ほんの一瞬、その拳を振り下ろすのを躊躇った。

 その隙を捉えて、ナノが右足を勢いよく蹴り上げた。蹴りはチセの股間を直撃し、彼女の体を僅かに宙に浮かせる。

「いっ!」

 チセが股を押さえて蹲る。

「ぅ……あ……」

 チセは蹲ったまま、動けずに、ただ呻き声を漏らしていた。

 ナノは立ち上がると、チセに触れることなく、彼女の両手と両足を魔法による光の輪で縛り上げた。チセは意識を保ってはいたが、拘束があろうとなかろうと、あまりの痛みに股を強く押さえ、蹲ったままの格好を続けることしかできなかった。

「そのまま拘束をとくなよ」

 部屋の奥から俄かにデニスが声を上げた。

 彼は懐から小さな箱を取り出し、その箱の中の注射器を手にする。

 チセは痛みに耐えながら、近くに居るはずのゴーストの存在を探っていた。現状を打開する策をゴーストに求めたのである。しかし同時に、ナノが視認できないまでもゴーストの存在を感知したために強い危機感を抱いたもいた。それまでゴーストの存在が僅かにでも他者に気取られることは一度としてなかった。にも関わらず、ゴーストがナノに触れようとした瞬間、彼女は危険を察知したように後ろに退いた。

 チセは希薄な意識の中、必死にゴーストの気配を探る。ゴーストがナノに仕掛ける際、そのことに気取らねないように彼女の気を散らさなくてはならない。ナノさえ無力化できればあとはなんとかなる。チセはその希望のために朦朧とした意識を失わずにいた。そして次の瞬間、彼女はウルリヒの声を聞いた。

「動くな」

「……アルトナーさん」

デニスが足を止め、ウルリヒに顔を向ける。

 チセはウルリヒの声に、なんとか首を動かし、そちらを見た。そして、デニスに向かって拳銃を構えるウルリヒと、その背後に居るゴーストを認めた。しかし彼女の表情は些かも明転しなかった。

 ゴーストがどこか苦しそうに見えたためである。 

 ゴーストは片足を半ば引きずるようなおぼつかない足取りでチセへと近づいてくる。その様はまるでチセが感じている痛みを共有しているかのようであった。

 ナノはデニスの危機を察して、短刀を瞬時に作り出し、それをウルリヒに向かって放った。 

 ナノが短刀を投擲する直前、チセはそれを防ごうと両手両足を縛られたまま、丸まっていた体をバネのように伸ばして、ナノの右足の向こう脛に頭突きを加えた。

「っ!」

ナノが右足の向こう脛を押さえて蹲る。

 チセは勢いよく床に体を打ち付けるのも構わず、ウルリヒを見た。

 ナノが放った刀はウルリヒの右肩を貫いており、彼は膝をつき、右肩を押さえるように蹲っていた。

 血が床に垂れる。

「ダメだ…!ダメ……」

 チセの目にはウルリヒのその姿しか映っていなかった。自分のためにウルリヒが死ぬ。不意に彼女の脳裏にエリザの死の瞬間が過ぎる。彼女の心は転倒し、崩れ掛かった。しかし心が崩れるよりも早く、ナノに顔を掴まれ、頭部を勢いよく床に叩きつけられた。

 意識が途絶える直前、チセはナノの背後にゴーストを見た。ゴーストもまた気を失いかけているかのように、今まさに倒れかかっていた。

 ゴーストがナノの肩に僅かに触れるのを見て、チセは意識を失った。


・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・


「私、なんで……」

 唐突にナノの小さく震えた声が静まった部屋に響いた。

「チセ……なんで……私……」

その顔はひどく青ざめていた。彼女の目は倒れたチセだけを捉えていた。しかし、そこにある現実にたじろいているようで、まるで自分が行った行為を認めることを拒み、その事実を明確に排そうとしているかのようであった。

「私がチセを……」

 ナノは蹲った。そして腹の底から突如として湧き上がってきた不快なものを押さえ込むように口を覆った。手の隙間から、生暖かい液体が垂れる。

「うっ……」

白い吐瀉物が床にこぼれる。ナノは暗闇の中で光を求めるようにチセへと手を伸ばした。とその時、首筋にちくりとした痛みを感じた。事態を把握するよりも先に、意識が朦朧とし始める。ナノは抗えず意識を手放した。

 デニスはナノが完全に倒れる前に彼女の体を支え、側のソファに横たわらせた。それから空の注射器を箱に戻し、横目でウルリヒを見た。彼の肩に突き刺さっていた刀は消えていた。

「愚かなことを。なぜこんなこと……」

「自分自身を生きながらえさせるだけの行為に意味などない」

苦しげにそれだけ答えると、ウルリヒもまた意識を失った。

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