2-3 喪失

 チセが姿を消して5日、フロレンツィアは姉の行動を注視し続けていた。その中で分かったのは姉がほとんどある一つの場所に留まっているということであった。それは彼女たちの父が院長を務める病院であった。父が院長を務めているといっても、その実務のほとんどはエルヴィラがになっている状態となっており、実質的には彼女がその病院のトップにあった。そのため、エルヴィラがそこに居ること自体はおかしなことではなかったが、滞在時間が長すぎる。

 フロレンツィアは姉がチセの失踪に何らかの形で関わっていると怪しんでいた。そして彼女はその病院にチセが居るのではないかと疑った。ただ、もしチセがそこに居るとしても、姉が彼女をそこに留める理由が分からない。魔法際の日にチセが負傷したのかとも考えたが、それだけなら姉があの日の出来事を隠す理由が分からない。全て馬鹿げた妄想だと切り捨ててしまおうとも考えたが、フロレンツィアにはそれができなかった。あの日襲撃があったことは間違いない事実である上に、姉がそれをひた隠しにしている。なによりチセが消えている明らかな事実が存在する。

 馬鹿げた妄想かそうでないか、フロレンツィアはそれを確かめるためにも病院に行くことにした。しかし、姉にそのことを気取られては、また有耶無耶にされることが目に見えていたため、決してばれないように細心の注意を払い、彼女が病院にいない時間にこっそりとその中に忍び込む計画をたてた。フロレンツィアは姉の行動を密かに監視し、好機を待った。

 チャンスが訪れたのはチセが姿を消してちょうど1週間経った頃である。エルヴィラが病院の外に出たのはその日の夜であった。すでに救急以外の来訪者は認められない時間帯であったが、フロレンツィアは密かに侵入を試みた。

 彼女は周りに人がいないことを確認すると、裏口の扉の前まで駆けた。扉に鍵が掛かっているのではないかという心配があったが、扉を引くと呆気なく開いた。

 フロレンツィアは、現在の景色を映し取る幻影魔法を、廊下に備え付けられた個々の監視カメラに展開させつつ進んで行く。監視カメラの位置は隠されるように設置されてある物も含めて全て把握してある為に、姿を捉えられる前に細工する事は、特段難しい事ではなかった。

 3階にたどり着いた時であった。

「フロレンツィア」

俄かに名前が呼ばれ、フロレンツィアは慌てて声のした方向を見た。電灯の明かりに照らされた廊下の端に、探していた友人の姿があった。

 フロレンツィアは彼女に駆け寄る。

「チセ……」

 チセは病衣を着ており、その姿は入院中の患者さながらであった。

 聞きたいことが山ほどあったが、いざ対面するとそれらを上手く言葉にすることができない。二の句を告げようと再度口を開こうとした時、フロレンツィアは友人の表情がどこか強張って見える事に気がついた。

「無事で良かった」

 フロレンツィアは自身と彼女の緊張とを和らげるように小さく息を吐くように言った。

「なぜここに居るのですか?」

「知っていて来たのではないのだな」

そう言ったチセの声には安堵を含んだような柔らかい響きがあった。

「いえ、ここに来たのは姉さんの行動を見て怪しいと思ったからです。やはり姉さんがチセをここに連れて来たのですか?」

「そうなるな」

「どうして?」

「いざこざに巻き込まれて。かくまってもらっている」

チセはフロレンツィアから目を逸らすように僅かに視線を下げて言った。

「巻き込まれたって……一体何が……?」

「それは……エルヴィラさんから聞いてくれ」

「姉さんは話してくれない」

僅かな緊張を含んだ沈黙が二人の間に流れる。

 その沈黙を最初に破ったのはチセであった。

「ナノはどうしている?」

「……ナノは、学校を辞めました」

「学校を辞める前に何か言っていたか?」

「いえ、突然何の前触れなく辞めてしまったので」

「そうか」

「……驚かないのですか?」

「驚いてい……」

言いかけた言葉は途切れ、チセの目が大きく見開かれた。

 刹那、フロレンツィアは 背後からカチッとなにかが嵌るような小さな音を聞いた。チセが彼女の手を素早く取り、強く自分の背後へと引っ張る。

 フロレンツィアはよろめきながらも、チセの視線の先を見た。そこには真っ白い仮面をした男が拳銃を構えて立っていた。

 銃口は明らかにフロレンツィアへと向けられていた。

「チセ、こっちに来い」

 男の重々しい声が静かな廊下に響いた。チセはフロレンツィアを振り返ることなく、男へと歩き出す。

 友人の背がどんどん離れていく。その光景はフロレンツィアのうちに魔法祭の日の後悔を呼び覚ました。

 恐怖に震えながらも、彼女は魔法の発動を試みた。

「妙なことを考えるな」

 男の声にフロレンツィアの心臓は大きくドクンと脈打った。息がうまくできず、汗が止めどなく出てくる。

「私は大丈夫だ」

チセはフロレンツィアを振り返り、落ち着いた調子で言った。

「あの人を知っているんだ。だから大丈夫」

「え?」

フロレンツィアの声は自分でも驚くほど震えていた。「どういうこと?」

 チセはその質問には答えず、男のところまで足早に向かった。

「銃を下ろして」

 感情を押し殺したようなチセの声に従って、仮面の男が銃を下ろそうとしたその瞬間、男とフロレンツィアのちょうど中間地点にある窓が俄かに割れ、そこから人影が突入してきた。ガラスが床に散乱し砕ける音と発砲音とが重なる。

 男は一切の躊躇いなく、その影に向かって引き金を引いた。

 しかし弾丸は狙った相手に直撃することはなく、その手前で時が止まったかのように静止した。

 宙に浮いていた弾丸がポトリと落下し、ガラスが散乱する床に転がる。突如として現れた乱入者の鋭い薄紅色の目が男を捉える。

 乱入者――エルヴィラは後ろにいる妹を一瞥することなく、眼前の敵だけを見ていた。

「フローラ、そこの部屋に入っていなさい」

 エルヴィラは言い終わると同時に、無数の半透明の剣を一瞬にして宙に生成した。それらは電灯の光を吸収し、神秘的な虹色の輝きを所々に帯びていた。

 背後で扉が開く音にエルヴィラの顔に安堵が浮かぶ。しかし、次の瞬間、それは驚駭へと変わった。

 二つの悲鳴と叫び声とが同時に廊下に響いた。

 一つはフロレンツィアの悲鳴、もう一つはチセの叫び声であった。

「エリザ!」

チセの声に呼応するようにエルヴィラは後ろを振り向く。

 そこには、フロレンツィアに馬乗りになっているエリザの姿があった。チセに与えていた部屋の扉が開いているのを見て、エルヴィラは何が起こったのかを瞬時に察した。

 エリザが手元に転がっているガラス片を握りしめ、それをフロレンツィアに突き立てるように大きく振りかぶる。

「エリザ!」「フローラ!」

チセとエルヴィラの叫声が重なる。

「チセを……」

 エリザはピタリと振りかぶった手を止め、エルヴィラの方を向こうとした。

 エルヴィラがエリザのその行動が単なる脅しと気づいたのは、先に生成していた剣の全てを彼女に向かって放った後であった。

 放たれた剣はエリザの全身を貫き、四肢を引き裂く。

 肉塊が宙に弾け飛ぶ。バラバラになった頭や腕が転がり、黒々とした血溜まりを作る。

「ぁぅあああああ…ああ…..ああああ!」

 全身が血で赤黒く染まったフロレンツィアの絶叫がこだまする。半身を失ったエリザの下半身がポトリと彼女の腹に横たわる。

「ぅあああ…ああ」

息すらまともにできていないような凄惨な悲鳴を上げながら、フロレンツィアはその死肉をはらいのける。

 血の海に彼女の吐瀉物が混ざる。

 転がった死体の顔がエルヴィラを向いていた。その開いたまま固まった目がじっと彼女を見つめている。

「ちが……」

 エルヴィラはチセを振り向いた。刹那、額に何かがのめり込む感覚と共にパンという乾いた破裂音を聞いた。消えゆく意識の中、彼女は仮面の男の拳銃から僅かに漏れる硝煙とチセの凍りついたような顔を見た。

 全身の力が一気に抜けたようにエルヴィラの体がどさりと床に横たわる。頭から赤黒い液体がゆっくりと広がっていく。

「え…あ」

 フロレンツィアの震えた声が廊下の底を打つ。

「姉さん……」

彼女はほとんど這うような形で姉のもとまで向かった。

「姉さん、姉さん!」

妹の必死の呼びかけは虚しく、答える声はない。

 フロレンツィアは姉の体を弱々しく揺する。

 ことりと首が回り、その顔が彼女に向く。その目は大きく見開かれた状態で固まっていた。ゾッと冷たいものが背を這うのを感じるとともに、フロレンツィアは姉を殺した者に対する憎悪に支配された。

 フロレンツィアは、瞬時に薄緑の長細い光の刃を生成し、仮面の男の喉元に向かって放射した。

 男もまた彼女に向かって発砲しようとしていた。しかしチセがすかさず蹴り倒した。彼の喉元に向かって放たれた光の刃は、仰け反った彼の仮面を掠った。

 仮面に亀裂が入り、その素顔が露わになる。

 眉間に深い皺があり、目つきは鋭い。年は50ほど。その顔に恐怖の色はなく、冷徹な目をしていた。

 フロレンツィアは尻餅をついたその男の顔を脳に焼き付けるように見つめる。それを遮るように男の前にチセが立った。

「なぜそいつを庇う」

 フロレンツィアはチセを睨む。全身が赤黒く染まる中、憎悪に満ちた瞳だけが光っていた。

「どいて」

 フロレンツィアの体から床へと、ぽたりぽたりとエリザの血が落ちていく。

 男が再び銃を構えようとする。しかし、チセがその拳銃を蹴り飛ばした。その隙をついて、フロレンツィアは再度魔法を発動させようとした。が、刹那、目に見えない何かに背後から引っ張られ、体勢を崩し、倒れ込んだ。

 フロレンツィアは後ろを振り向いた。

 そこには誰もいなかった。

 ただ、ふたつの死体が大きな血溜まりを作っていた。赤黒い血の池とそこに転がるグロテスクな肉塊を視界に入れた瞬間、彼女は再び気持ちの悪いものが腹の底から迫り上がってくるのを感じた。酸っぱいものが口いっぱいに広がる。堪らず口を抑えるが、その手についた血の感触と匂いとをより強く感じ、一瞬にして体全体にどうしようもない悪寒が走った。

「…ぅあ」

白い吐瀉物が手についた血と混じり、薄紅色の液体となって床に落ちていく。

 あまりの気持ち悪さに彼女は体を丸め、なんとか息をする。だんだんと意識が遠くなっていく。

 最後の力を振り絞るようにフロレンツィアはチセと男の方へと目を向ける。そして、ぼやけた視界の中、声も表情すらもなく涙を流すチセを見た。


・ ・ ・・・・・・………─────────────────………・・・・・・ ・ ・


 フロレンツィアが次に目を覚ましたのは病室のベッドの上だった。周りには護衛と思われる人間が3人いた。そのうちの一人が彼女の目覚めに気付き、医師を呼ぶ。

 暫くして医師が来ると、彼女は幾つかの質問をされた。程なくして次に警官がやって来た。彼らからもまた質問をされた。質問を受けている間も、警官が退室した後も、彼女の思考や感情が明確な形を持つ一つに定まる事はなかった。

 様々な思考が入り混じる。あの日の記憶が入れ替わり立ち替わり浮かんでは消えていく。姉を殺した男、その男を守るチセ。頭の中がぐちゃぐちゃにかき乱される。血溜まりの中の肉塊を思い出し、その匂いさえも鮮明に蘇って来る。俄かに悪寒と吐き気に襲われ、慌てて口を抑えるとともに、彼女は別のことに思考を向けようとした。しかし代わりに脳裏に蘇ったのは、最後に見た姉の顔だった。人形のように冷たく、大きく見開いたまま凍ってしまったかのように固まった目がこちらを見ている。

「……許さない」

 フロレンツィアは頭の中で処理しきれない感情を噛み殺すかのようにベッドシーツを握る。幼さを残したその顔は憎悪に歪んでいた。


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