文字化病
武田囲
上
「縺翫″縺ヲ繝シ」
聞きなれた妻の声で発せられた異音が、覚醒間際の私の鼓膜を揺らした。
私はゆっくりと体を起こし、欠伸を一つ漏らした。そのままベッドから這い降り、扉程の大きさの窓のカーテンをずらした。
ゆったりとした朝日が差し込む窓の外には、都会の喧騒と、それと対照的に咲くラベンダーが広がっていた。このラベンダーは妻である
私は窓から離れ扉へ向かい廊下に出た。
もう夏といえど朝はまだ涼しい。私は少し早足で廊下を渡り、廊下の先にある扉に手をかけた。ドアノブがいやに冷たく感じる。
扉の先には、左手から、リビング、ダイニング、キッチンが順に連なっている。藍は丁度キッチンからダイニングに朝食を運んでいるところだった。
「おはよう」
私は藍に声を掛けた。
藍は私に気づいたようで、私を一瞥し喉を震わせ異音を発する。
「縺翫?繧医≧」
藍が異音を発していることに、今初めて気が付いた。
焦燥が私の全身を駆け巡り芯から冷やす。
どうやら藍は【
扉の前に立ち止まる私を見て、藍はキョトンとしていた。
そんな文字化病の主な症状は言語を失うことだ。
文字化病の罹患者は、日本語及び、世界で飛び交うほとんどの言語での会話および読み書きすることが不可能となり【モジカ語】と呼ばれる特殊な言語を使用し会話するようになる。
モジカ語は現存するどの言語にも類似しない異常な言語だ。だから、文字化病罹患者以外に理解することはできない。つまり、文字化病に罹っただけで、世界から隔離されてしまうのだ。
病気一つで異文化圏に放り出されてしまう恐怖は計り知れない。
しかし、これほどの重篤な症状を齎すこの病は、まだ、世間には広まっていない。理由は単純で、この病が社会に暴露されることで、より拡散することが危惧され、秘匿されているからだ。
なぜ私がその秘匿されていることを知っているか、それは、私が
私が食卓に着き食べ始めた頃には、既に味噌汁から上がる湯気も絶えていた。
「螟ァ荳亥、ォ? 隱ソ蟄先が繧、繝趣シ」
粛々と箸を動かす私に、心配そうな顔で藍がうめいた。
藍は表情が乏しい。だが、私には、藍が心配してくれているとよく分かった。
「心配ないよ」
通じているか分からない言葉を私は咄嗟に吐いた。このような何でもないような言葉も通じないと思うと気が重くなる。
文字化病を直す手段はまだ発見されていない。だが、我々もただ病状を研究していただけではない。研究の末、文字化病翻訳機を開発した。翻訳機は精密であるためまだ1台しかないが、それを借りられれば藍とコミュニケーションをとることができる。
早々と朝食を食べ終えた私は、研究所へ出る準備を始めた。書斎にあったノートパソコンと筆記用具を鞄に詰め、シャツを着てネクタイを結ぶ。
準備を終え、水を一口飲もうと私はキッチンに向かった。キッチンでは藍がドリップマシンを使ってコーヒーをいれているところだった。
藍が首を傾げながら言う。
「鬟イ縺セ縺ェ繧、?」
「行ってきます」
私には藍の言っていることが理解できない。だから、私はいつも通りの言葉を藍に掛けて家をでた。
研究所は千代田区の外れにある。私達が居を構える大田区からは電車で1時間と少しで行くことができる。
電車に揺られながら考えてみる。何故、藍は文字化病に罹ったのか。前述の通り、文字化病の原因となるウイルスはとても弱く、よほど免疫力が下がっていない限り罹ることはない。では、免疫力が低下した原因はなんだろうか。免疫力が低下する原因は一般的に睡眠不足や急性的、慢性的なストレス、ビタミン不足等が挙げられるが、藍に睡眠不足や栄養不足の兆候は認められなかった。となればストレスだろうか。そもそも何処から感染したのだろうか……。などと考えている内に電車は研究所の最寄り駅に到着していた。
研究所の自動ドアを潜り抜けた私は、所員証を機械にかざしてから奥に進んでいく。
北見研究所所長、北見緑三郎は多忙な人だ。だが、彼なら会ってくれるだろう。彼にはそう思わせる人懐っこさのようなものがある。
研究室に入り、実験器具の整理をしている同僚に所長の所在を尋ねた。曰く、所長室にいるらしく、私はそこへ向かうことにした。
扉を3度叩いてから扉を押した。
北見は庶務机の傍に寝そべり本を読んでいた。
「おはよう。水谷君」
北見は私を一瞥したのち私にそう声を掛けた。
「所長。おはようございます」
「どうした?」
「まあ何というか…少し相談がございまして」
北見は立ち上がり興味深そうに言う。
「ほほう。君は優秀な科学者だからな。なんでも言ってみてくれ。なるべく便宜を図ろう」
「ありがとうございます!」
「それで何がほしいんだ?」
「じつは……」
わたしは今朝の経緯を話した。北見は私の話を黙って聞いていた。
「なるほど。文字化病に……か」
話を聞き終えた北見はそう発したきり俯き黙ってしまった。
顔を上げた北見は私の目を見て尋ねる。
「原因に心当たりはあるかい?例えば、最近食欲がなさそうだとか、眠りが浅そうだとか、例えば……」
どうやら北見もストレスによる免疫力の低下を疑っているらしい。
「君も知っての通り、文字化病には治療法がない。だから、治療して欲しいとかそういった類のことはできそうにない。すまないな」
「いえいえ、そうではなくて。その、モジカ語翻訳機を貸してほしくて……」
「なるほど翻訳機か……。貸してやりたいところだが、あれは今は1台しかここにはない。だから貸すことはできない」
ダメもとだったとはいえ落胆してしまう。落胆の色が表情に滲む私を見て北見が続ける。
「翻訳機が欲しいということは、君はそうなってしまった藍さんとコミュニケーションがとりたいということか?」
「はい」
「そうか。それなら一つ手がある。だが、それはまだ一回しか試していない」
「手があるのですか⁉……でも、そんな研究した覚えがないのですが」
「だろうね。君がこの研究所に来る前だったからね」
「そうだったのですか。で、それはどんな方法なのでしょうか?」
縋るような声で私がそう尋ねると、北見はそばにある棚を漁り書類を取り出した。北見はその書類に目を滑らせた後、私に寄越した。私も北見に倣い文字を頭に叩き込んだ。「文字化病適応実験」と書かれた書類に書いてあったのは、弱めた文字化病ウイルスを体内に注入し脳まで巡らせることで、モジカ語を理解できるようにするという方法だった。
書類を読み終えた私は感嘆の声を上げた。
「こんな方法があったのですね!」
これなら……
「ああ、だが、ウイルスを体内に打ち込むんだ。当然リスクもある」
「リスク……?いえ、どんなリスクがあろうと受けたいです」
「まあまあ、待ちなさい。一科学者である以上、私には説明する義務が、君には説明を受けたうえでよく考え判断する義務がある」
「……そうですね」
「これを読みたまえ」
そう言って北見は一枚の書類を差し出した。
「それが悪化した時に予想される症状だ」
そう言われ私はその文章に目を通した。
文字化病ウイルスを体内に入れる。その反作用は予想に難くないものだった。要約すると、急激な負荷が脳にかかると急速に文字化病に侵されてしまう。そういうことらしい。
「まあ、一朝一夕で決断出来ることではないだろう。返事は後日でも良い。仕事も暫く休んでも良い。妻に寄り添ってやれ」
「ありがとうございます」
北見の心遣いに感涙した私はかろうじて感謝の言葉を述べることが精一杯だった。
私まで文字化病に罹ってしまえばそれこそ共倒れが関の山だ。だが、それでも、藍ともう一度言葉を交わしたい。そう思うのは独善的だろうか。
私は一度帰宅して、藍の様子をよく観察してみることにした。
昼に電車に乗って帰ったことなどなかったから人の少なさに驚きつつも私は帰宅した。
特にやましいことなどなかったのだが、私は忍び込むように玄関を通り抜けリビングへ入り込んだ。
この時間、藍は家事をしてくれている。だから、藍はリビングにいた。
私は、リビングの扉に背を向けるように、机に向かって座って俯いている藍に声を掛ける。
「ただいま」
びくりと体を震わせ、藍が振り向く。
「縺医▲窶ヲ窶ヲ縺翫°縺医j」
振り返った拍子に藍の手元が見えた。藍はアルバムを見ていたようだ。
いつまでも思い出を大切にする藍に愛しさを覚える。
私は藍の隣に座ってアルバムを眺めた。藍との一度目の出会い、そして二度目の出会い。その全てがフラッシュバックのように思い出された。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます