雨女

あべせい

雨女



 きょうは私の話です。

 その日は、朝から土砂降りの雨でした。

 私が通勤使っている電車は、いつもにもまして大変な混雑だったのですが、その日はどうしたわけか、立っている私の目の前に腰掛けていた乗客が次の駅で降りたため、好運にも座ることが出来ました。

 降車駅までの間、私は雑誌類を持ち合わせていなかったため、ぼんやりと車内の中吊り広告を見ていましたが、そのとき激しい睡魔に襲われました。

 前の晩、私は、転職と家庭不和の悩みから、一睡もできずに過ごしました。

 配送会社で荷物を仕分ける肉体労働者である私には、睡眠不足は何よりもつらい。私がそのまま座席で眠ろうとしたとき、再び昨晩の不安と興奮が頭をもたげました。

 (冷たい!) 

 私はハッとして顔を上げました。

 と、目の前に、私より5つ、6つ若い20代後半の女性が苦しそうな表情をして立っています。右手で吊り革をしっかり握り、電車の揺れと他の乗客の圧力に抗しているようすです。

 彼女は、ピンク色の蝙蝠傘を緑色のレインコートの袖でしっかり挟みつけています。

 傘は、すぼめてまだ間がないのでしょう。傘の石突きから、雨雫がポタポタと滴り落ち、私のズボンをベットリ濡らしています。

 一言苦情を言おうとして顔をあげた私は、目の前の女性が、職場の未実(みみ)によく似ていることに気づきました。しかし、どうして……。

 未実は、雨女です。雨が似合う女と言うより、彼女の行くところ、困ったことが起きる、妖しい雰囲気を備えた女と言ったほうがいいかも知れません。

「私が行くところ、よくないことが起きるわよ。晴れていたら、雨が降る。笑顔でいたら、涙を流す事件が起きる」

 そう言って、ひとり悦に入っている女です。しかし、その一方で、私が転職を強いられる事件を作った女性でもあります。

 未実は私の愛人でした。

 つきあって、半年。職場の配送ドライバーである未実のトラックの荷台に、私が荷の入ったカートを積み込むという関係から親しくなり、出会いから10日余りで、深い関係に陥ったのです。

 3ヵ月前、妻は私の浮気を知り、6歳の娘を連れ、車で5時間以上かかる実家に戻りました。

 私は妻に抗うように、未実との関係を続けました。

 未実は私に結婚を求めましたが、私には、元々その考えはありません。未実の肉体には魅力を感じていましたが、結婚は論外です。

 未実は金銭にルーズで、ギャンブルと酒に溺れていました。私がはっきりノーといえば、もっと違った展開もあったのでしょうが、私は結婚に対する返事を引き延ばしていました。

 昨日、私がいつものように彼女のトラックの荷台にカートを積んでいたところ、事務所から戻ってきた彼女が、いきなり荷台に乗ってきました。

 運転手が自分のトラックの荷台に入る光景はよくあることですが、昨日は違っていました。

 トラックは2トン。荷台は、アルミのロングボディで、荷を出し入れする後方以外、外から中のようすを覗き見ることは出来ません。しかも、トラックの後部バンパーが接触しているトラックホームには、積み込みを待つ幅1メートル強、高さ2メートル弱のカートがいくつも並んでいて、視界を悪くしています。

 未実はホームからトラックの荷台に乗りこむ際、1台のカートをさりげなく動かし、外部からの視線をより一層遮りました。

 このためホーム側からは、トラックの荷台がカートで遮られ、完全に内部が見えない状態になりました。

 私がそのことに気づいたのは、未実が荷台に入ってきて、いきなり私にキスを迫ったときでした。

 未実は私に体をもたせかけ、強く唇を押し付けます。私は、外から見られないことを確認して、未実のキスに応えました。

 私は結婚の返事を引きのばしていて、この一週間、未実との接触はありませんでした。

 すると未実は、

「ねェ、ケッコンしてくれるンでしょう?」

 私は言葉を失いました。勿論答えはノーです。私は、未実の眼を見ました。

 冷たく光り、侮蔑の色を湛えています。

「ワタシをふったら、大変なことになるわヨ。課長があなたに……」

 課長の京津(きょうづ)が未実に言い寄っていることは知っていました。

 私は、課長と大喧嘩したことがあります。酒の席でしたが、部下を人間以下に見下す日頃の態度が許せなかったからです。

「課長がどうした?」

 未実はそれには答えず、

「ケッコンしたくないのね。奥さんがかわいいのね」

 私は黙りました。

 すると、

「キャー、チカン!」

 未実が私を突き飛ばし、荷台から飛び出します。

「どうした! だれだ、中にいるのは」

 未実と入れ違いに、京津が荷台に入ってきました。

 タイミングがよすぎます。

 未実の訴えで、勤務中、未実に猥褻行為を働いたとして、私はその場で自宅待機を命じられました。

 京津に現場を見られ、申し開きはできません。

 私は退職を申し出ました。しかし、すぐには聞き入れられず、翌日、すなわちこの日処分が下ることになり、私は出社を余儀なくされたのです。

 昨夜、自宅に戻ると、妻から離婚用紙が届いていました。

 妻の欄は記入ずみです。私は考えました。女房は本気かもしれない。仕事はまた探せぱいい。しかし、女房ほどの女はほかにいません。

 気がつくと、電車は、終点でもある私の降車駅に着いていました。

 私は眠っていたようです。満員だった乗客はすでに降り、折り返しになる車内は、閑散としています。

 未実に似た女の姿も見えません。雨が降っていたせいで、私は未実を連想し、目の前の女性を未実に似ていると思い込んだのかも知れません。

 私は雨上がりの道を憂鬱な気分で歩きました。

 私の濡れた傘は、ふだん通り傘袋と一緒にバックの中です。靴はまだ湿り気を帯びていますが、ほかに不快な所はないはずなのに、これからのことを考えると、気分はすぐれません。

 会社まで、20分余り。

 と、目の前を見覚えのある女性が歩いていきます。

 緑色のレインコート、ピンク色の傘……! 私の座席の前に立っていた女性です。

 さらに、ふくらはぎに、ミッキーのかわいいアザが!……

 未実です。間違いありません。作業衣姿の未実からは想像もできない、魅力的な体のライン。

 私は、未実の行く手に立ちはだかりました。

「どうした? きょうはトラックに乗らないのか?」

「アッ、エェ……。私、課長にウソがばれたの。きょうでやめるわ」

 昨日、未実は、私がいい寄ってきて困っていると京津に言い、現場を押さえて欲しいと頼んだそうです。未実がトラックの荷台に入り、叫び声をあげると同時に、京津が乗りこむ手はずで、計画はうまくいきました。

 未実がそのようなことを京津に持ちかけたのは、私を困らせると同時に、京津の誘いに応じるには、私の排除が必要であることをわからせるためだったのです。

 しかし、未実は昨夜、やむなくついていったホテルの一室で、京津を突き飛ばし、

「てめえなんかに抱かれてたまるか!」

 と、罵ったそうです。

 私は、うっすら目に涙を浮かべている未実を路地に連れ込みました。

「おれもきょうでやめる。一緒に、暮らそう」

 私は、未実と熱く長い……。

 待て。おかしい。何かが……。闇の中で、私の思考が軋みをたてています。

 未実は今朝どうして、私と同じ通勤電車に乗っていたのか。私たちは仕事の違いから、出勤時刻が異なります。同じ車両に乗り合わせるなんてことがあるでしょうか。偶然にしては出来過ぎています。

 未実が私の自宅から尾行してきたのか。それなら、その目的は?

 もっとおかしいのは、未実と暮らそうと、私が言ったことです。私がそんな決心をするはずがありません。

 これは夢です。夢の中です。電車のなかで眠りこけ、夢を見ているのです。

 私は意識を集中して、懸命に夢から覚めようとしました。やがて、座席に腰掛け、電車の揺れに合わせ、体を左右に揺らしている自分の姿が見えてきました。

 ピンク色の傘を持った、緑色のレインコートの女性は、途中で降りたのか、姿がありません。代わりに別の女性が立っています……美しい女性ですが、未実ではありません。

 電車の外は相変わらず雨が降り続いています。雨が未実を連想させ、彼女を夢で見させたのでしょう。

 ということは、未実がホテルで課長の京津を突き飛ばしたというのも、夢。未実に対して一緒になろうと私が言ったのも、夢です。私の期待がそのまま夢に現れたのかも知れません。

 電車が終着駅に到着し、満員の乗客が次々、車外に出ていきます。

 会社の最寄駅でもありますから、私も降車しなければいけません。しかし、そのとき、私は座席から動けなくなりました。電車が満員状態のときは見えなかった向かい側の座席に、私と同様に降車せず、まだ腰掛けている男性がいるのです。

 男性は俯き加減で、深く眠っているらしく、顔は見えませんが、体つきは、見覚えのある男性です。

 降車側のドアが閉じられました。まもなく反対側のドアが開かれ、乗客が乗りこんできます。

 そのとき、向かいの男性が不意に顔をあげました。やはり、京津です。

 私と京津は同じ路線で通勤しているのですが、出社時刻が違うせいで、いままでは一度も同じ電車に乗り合わせたことはありません。しかし、きょうは、退職手続きのため、私はふだんより遅い電車に乗っています。そのせいでしょう。

 京津は私を見ると、ニヤリッと笑ったような気がしました。

 私は思わず、膝の上に置いていたカバンの中に手を入れて立ちあがりました。

 手には、昨晩考えに考えた末に用意した、中学の頃から大切にしているコンパスが握られています。

 退職手続きの際、京津の机の上に力いっぱい突き刺し、彼をびっくりさせようと思って忍ばせてきたものです。

 反対側のドアが開くのと、私が京津に体当たりしたのが同時でした。京津のような男に負けないという意志表示が私には必要なのです。

 そのとき、私の背後を人影が走りました。しかし、私にはそれに構っている余裕などありません。

 乗り込んできた乗客の間から悲鳴があがります。車内の床におびただしい血が滴り落ちていきます。

 私は、激しい痛みを覚えて、崩れ落ちました。

 京津は私の恋敵です。冷静に考えれば、馬鹿げた話です。どちらも、妻がいるにもかかわらず、若い愛人を取り合っているのですから。

 しかし、それにしても、どうして、こんなことになるのか。薄れていく意識のなかで、その疑問ばかりがぐるぐると回っています。


 私は病院にいます。

 京津は亡くなりました。私に付き添っている警察官が、そう知らせてくれました。

 私は、昨晩、

「突然、ナイフをつきつけられ、無我夢中でナイフを奪い、あとのことは何も覚えていません」

 と、事情を聞きに来た刑事に訴えました。

 京津の死を知ったのは、その後です。

 病室の窓ガラスに、雨が吹きつけています。

 私が刑事に言ったウソがうまく通用すればいいのですが。成功するのか、どうか、まだわかりません。

 私は、腹部を刺されましたが、傷が浅く、あと1週間で退院できるそうです。

 しかし、どうして、私まで刺されたのか、よくわかりません。私は手に大型のカッターナイフを握っていたそうです。コンパスは勿論、消えていました。

 私には、なぜそうなったのか、記憶がありません。

 京津は格闘技の心得があると聞いたことがあります。その自信が却って、彼に災いしたのかも知れません。

 病室のドアが開く音がします。振り向くと、未実です。

 彼女は、京津が私を襲ったと思い込んでいます。

 病床の私を見下ろしながら、

「昨日、課長は、あなたに恨まれているだろうな、とかなり深刻に心配していたわ。あの人、見かけに寄らず臆病だから、ナイフくらい持ち歩きそうね」

 私は、未実に会いたかった。でも、それを知られたくありません。

「しかし、ぼくが、あの電車に乗る、ってことはわからなかったンじゃないか?」

「そうでもないわ。出社時刻は決められていたでしょう。急行は1時間に3本。そうすると、あの電車以外にあなたが乗る電車はないってことになるから」

 私に怒りがこみ上げてきました。

「キミはその話を、京津とどこでしたンだ?」

 未実は、口ごもります。ホテルなのでしょう。その点は夢と同じだったようです。

「課長はしつこいから。私も、会社をやめることにしたわ。きょう、これから、退職届けを出しに行く」

「寝覚めが悪いということか。しかし、キミは何も、責任を感じることはないだろう」

「でも、私が課長に、事件の前に、あなたがいなくなったら、と話していたら?」

「キミも、あの電車に乗っていたのか」

「私は課長と出社時刻が同じだから……」

 未実はそう言って、横になっている私をじっと見つめます。

 やはり、あのレインコートの女は未実だったのです。そう考えると、符号します。

 窓を叩く雨の勢いが一層激しくなっています。

「キミは、男を競わせることがおもしろいのか?」

 未実は私の耳元に口を近付け、ささやきます。

「私は雨女よ。私が行くと、よくないことが起きるの。そのとき、どんなにみんなが気持ちよく過ごしていても、私がそこに現れるだけで、よくないことが……」

「キミは雨女でいることが楽しいのか?」

「ンなわけないでしょうが。でも、日照りが続くと、人は雨が欲しがるように、すてきな奥さんがいるのに、雨女を欲しがる男性もいる、ってこと」

 私は、どう答えていいのか、わかりません。

「そんなつもりは……」

「私と結婚できる?」

「このキズが治ったら、考えてもいい……」

「ホント? じゃ、今夜は、ここまで……」

 未実はそう言って私の体を起こそうとします。

 私は、彼女の体を引き寄せました。彼女は抵抗せず、体を私に預けながら、言います。

「あなたは大切なことを忘れている。あなたが持っていたのは、文房具の古びたコンパス。でも、課長は、配送で荷を解体するのに使う大型のカッターナイフを握っていた。私はあなたからコンパスを取り上げ、課長を止めようとしたの。それなのに、あなたが課長に体当たりして……、だから仕方なかった。あれは事故なの」

「あのとき、キミも現場にいた。いま思い出したよ」

 私は、未実の体を押しやり、ベッドの上に体を起こしました。

 私が京津に体当たりしようとした直後、背後に現れた人影は未実です。

「キミはいきなりぼくの後ろに現れ、京津をかばおうとした。そのとき、京津は腰の高さにカッターナイフを構えていた。あれは脅しだ。あの男に、ナイフを振り回す度胸はない。それなのに、ナイフは京津の腹を抉り、ぼくの太ももを切り裂いた。だれかの意志でナイフが動いたとしか考えられない」

 未実は、うるさそうに私を見ています。

「もういいでしょう。だれにだって、間違いはあるわ。ナイフを取り上げようとしたのに、抵抗されて、そのナイフが相手の内臓を切り裂くことだって……」

「でも、わからない。どうして、ぼくがそのナイフを握らされ、キミは他の乗客の目をかすめて、たちまち姿を消すことができたのか」

「私は雨女よ。雪女は雪とともに現れて、雪とともに消えるでしょ。雨女も同じ」

「何が同じだ。キミは、怖い女だ。血の雨を降らせる雨女……」

「私が課長を刺したと思っているの? だったら、そうしておけばいいわ。だれにも証明はできないのだから」

「あのとき電車に乗り込んできた乗客の中に、キミを目撃した人がいるはずだ」

「それを捜そうというの。そんなことをして、あなたにどんな得があるの?」

「得なンか、ない。でも、その秘密を握っておけば……」

 未実が、真っ赤な唇で、私の口をふさごうとします。

「握っておけば……いつまでもこうしていられる、って……」

 私は、恐ろしい女とわかっていながら、雨女を拒むことができません。

「こんなことをいつまでもしていていいわけがない。そのうち、きっと……」

 私は理性をなくしています。

「わたしは雨女。でも、降っている雨はいつかやむわ。それだけでいいでしょう……」

                      (了)

          

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雨女 あべせい @abesei

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