第六章 ふつつかな狸ですが
第41話 父の形見と母の涙
行雲は八滝山の一件で一ヶ月の謹慎処分をくらった。
土居大佐からは「このまま妖狩りの仕事を続けるのかを考えろ。新婚旅行にも行ってこい」と命じられている。
後者はともかく、確かに前者はよく考えなければならないことだろう。
父を亡くしてからの人生、仇討ちだけが行雲の生きる意味だった。
軍に入ったのも、妖討部隊への所属を望んだのも、全ては父を奪った異形を討つためだ。
目的が果たされた今、行雲が軍に所属し続ける理由はどこにもない。
(俺は仇討ちをして、どうするつもりだったのか……)
触れただけで封印の札がぼろぼろに破れたというのは嘘ではない。
ただ、遅かれ早かれ行雲は堕ちた龍に無謀な勝負を挑み、蒼葉がいなければ命を落としていただろう。
死ぬことになったとしてもそれで良いと思っていた。もしかしたらずっと、自分はただ現実から逃れて死にたかったのかもしれない。
行雲は枕元の動かない懐中時計を眺めて溜め息をつく。
蒼葉が黒い池で拾ったというガラクタの一つだが、行雲はこれに見覚えがあった。
生前父が身につけていたものと装飾が同じ。時刻も山で妖に襲われた黄昏時で止まっている。
(これは贈り主に返すべきだろう)
行雲は鉛のように重たい体を起こし、懐中時計を持って母親の部屋を訪れた。
母が行雲の部屋に乗り込んでくることはままあれど、行雲から訪ねていくことはほとんどない。
うっすら開いた襖から、母は不思議そうに行雲を見上げていた。
「何だい」
「話がある」
部屋に上がり込んだ行雲は勝手に座椅子に腰を下ろすと、机に例の懐中時計を置く。
「これを」
「……」
母は口と目を開いたまま、じっと錆びた時計を見つめている。
「見覚えは?」
「これは……一体、どこで……」
知らないはずがないだろう。確かこれは母が父に贈ったものだ。
針仕事で一生懸命お金を貯めて買ってくれたものなのだと、酒を飲みながら嬉しそうに語る父を覚えている。
「山で見つけた。父さんが行方不明になった山だ」
父親の死について、面と向かって母と話したことはなかった。
母は父の死を受け入れられておらず、海外へ仕事に行ったまま戻らないだけだと未だに思い込んでいる節があると耕雨から聞いている。
真実を突きつけるのは酷だろう。しかし、このままでは行雲も母も前に進めない気がした。
深呼吸をしてから一息に言う。
「母さん、父さんはもう戻ってこないよ。俺の目の前で、俺を庇って死んだんだ」
行雲も心のどこかで、異形に飲み込まれたまま父は生きているかもしれないと思っていた。 だが、人間の体は妖に取り込まれて生きていられるほど頑丈にはできていない。
かろうじて魂や念のようなものだけが残っていたのだろう。それも行雲の目の前で逝ってしまった。
母親はしばらく俯き黙っていたが、嗚咽の混じった震える声で話し始める。
「……分かってる。分かってるんだ。でもどこか遠くに出かけているだけのような気がして」
行雲は何も言えず、黙って聞いていた。
泣きじゃくる母を見るのは初めてのことだ。鬼のような人の弱い一面を目の当たりにして心苦しく思う。
「あの人が帰って来た時に恥ずかしくないようお前を一人前にしなくてはと思うのに、お前まで離れていったらと思うと……」
行雲はこれまで母の気持ちに寄り添ってこなかった。
父がいればこんなことにはならなかったと悔やむのではなく、父がいなくても自分が母を何とかしようと思っていれば、もう少し違ったのかもしれない。
要するに行雲は母の言う通り、自分本位な子どもだったのだ。
「母さんが望むのなら家業を継いでも良い。その代わり結婚だけは自由にさせてくれ」
行雲は一度生きる意味を失った。けれど、今は一生をかけて蒼葉を幸せにしてやりたいと思う。
そのために自分は大人にならなければならない。
「好きにしなさい。仕事のことも」
「……ありがとう」
行雲はそっと部屋を後にした。――長くいたら、母の涙が自分にまで移りそうだったから。
気分転換に少し歩こうかと洋館のエントランスを抜けたところ、草むしりをしていた蒼葉と目が合った。
彼女は満面の笑みを浮かべ、行雲のもとへと駆け寄ってくる。
「旦那様!! 今日の夕食は
「そうだな」
まだ夕方にもなっていないというのに、蒼葉は鰤の味を想像したのかうっとり顔を緩めている。
呑気な化け狸だ。けれど、そこが良い。
愛おしくて、癒される。
母の許可もとったことだ。あとは叔父が上手いこと戸籍を捏――取得してくれれば書類上も婚姻関係を結ぶことができる。
大佐の言うことに従うつもりはないが、行雲はどうせ暇を持て余している。二人で旅行に出かけるのも悪くないかもしれない。
「どこか行きたいところはあるか?」
行雲の問いに蒼葉はしばらく考え込む。
「うーん……あ! あいすくりーむを食べに行きたいです」
「そうではなく、旅の目的地の話だ」
「旅?」
蒼葉は首を捻った。まさか言葉の意味を理解していないわけではあるまい。
「最近は新婚旅行というのが流行りらしい。二人で行ってみないか?」
「旦那様と、二人で?」
喜ぶかと思いきや、彼女は眉間に皺を寄せている。
「嫌か?」
「いえ、びっくりしただけで嬉しいです! それなら美味しいものがたくさん食べれて、温泉に入れるところが良いですね!」
蒼葉は興奮気味に言う。また『美味しいもの』だ。
もしや、この化け狸は夫になる男のことよりも、『美味しいもの』の方が好きなのではないだろうか。
「考えておく」
そもそも結婚して夫婦になるというのがどういうことなのか、蒼葉が理解しているかも怪しいということに行雲はようやく気づくのだった。
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