第40話 すろーらいふには程遠い

 蒼葉が部屋に入ると、姫花は体を起こして茶を飲んでいた。

 痩せ細ってはいるものの顔には生気が戻り、変な咳もしていない。

 

「姫様!!」

「ポン太」

 

 蒼葉は嬉しくて名前を呼んだ。

 彼女も蒼葉に気づくとパッと顔を輝かせ、名前を呼んでくれる。

 

 ぽんっ、と狸の姿に戻って姫花のもとへと駆けていく。

 彼女は湯呑をお盆に戻すと、蒼葉を膝の上に招いた。

 

(姫様~、目が覚めて良かったです~)

「心配かけてごめんね。でももう大丈夫。不思議と体が軽くなったみたい」

 

 擦り寄る蒼葉の頭を姫花は優しく撫でた。

 

(確かに、顔色が随分良くなりましたね)

 

 骨が浮き出るほど痩せているのに、声に張りがあり、血色も良い。

 病弱で、いつも辛そうに眉を寄せていた姫花とは違って見える。

 

 姫花の母は部屋の隅で「良かった……」と言って泣き、そんな彼女を姫花の父が黙って支えていた。

 

「水を差すようですみませんが、姫花さん。もしかすると狸の言葉が分かりますか?」

 

 布団の横に控えていた女医が、突然声をかける。

 蒼葉は傍に人がいると思っていなかったのでびくりとした。

 

 ぼさぼさの黒髪を雑に結んだこの人は、以前レイを診に百鬼家にも来てくれていた妖専門の軍医のはずだ。

 行雲に似て、感情を表に出さず淡々と喋る人だと思った記憶がある。

 

「ええ、ぼんやり言葉が聞こえます」

「こういうことは普段から?」

 

 姫花は少し悩んでから神妙な顔で頷く。

 

「そういえば……変な声が聞こえたり、人ではないものが見えたりすることは時々ありました」

「そうですか。どうやら貴女は霊力が強く、妖や霊の類に好かれやすい人間のようです。そこにいる彼とは真逆ですね」

 

 女医が指をさしたのは壁にもたれかかって傍観している行雲だった。

 

「妖に嫌われているつもりはないが」

「自覚がないだけで嫌われています」

 

 彼女は抗議した行雲をばっさり切り捨てる。

 何か日頃の恨みでも溜まっているのだろうか。

 

(私は好きですけどね)

 

 蒼葉は行雲に慰めの視線を送っておいた。

 

「体が弱いというのも、負の気を知らずのうちに集めてしまっていることが影響しているかもしれません」

「それは治るのでしょうか」

「魔除けを身につければ恐らくは」

 

 女医は用意しておくと言い、姫花の母に容態を説明した後、龍神の瘴気にあてられた人の診察に向かうと出て行った。

 

「蒼葉、俺もそろそろ引き上げようと思うがどうする。残りたいのならその人のもとに残れば良い」

(ええっと……)

 

 蒼葉は行雲と姫花を交互に見る。

 行雲について百鬼家に戻りたいが、蒼葉が目の前で行雲を選んだら姫花が寂しがるのではないか。

 

「私は大丈夫だから行きなさい。今は百鬼の子でしょう」

 

 蒼葉の迷いを察した姫花は穏やかに笑い、狸を膝から下ろした。

 それでも少し迷ったが、ここに留まったとしても蒼葉にできることはあまりない。

 

「ポン太、旦那様と仲良くね」

(はい! また遊びに来ます)

 

 蒼葉は行雲の足元に向かってトテトテ歩く。

 

「良かったのか」

(旦那様こそ、私を追い出さなくて本当に良いのですか?)

 

 言葉は届いていないはずだが、肯定を示すように行雲は蒼葉を抱き上げた。

 

◇◆◇

 

(はぁ……極楽、極楽……)

 

 耕雨、行雲と一緒に百鬼家に帰ってきた蒼葉は、和館の中に備え付けられた上等な風呂に入らせてもらっていた。

 

 思ったよりも疲れが溜まっていたらしい。

 人の姿を保つことが煩わしくなった蒼葉は狸に戻り、腹を上にしてぷっかり湯船に浮いている。


 温かくて柔らかなお湯に全身を包まれ、気持ち良さにこのまま蕩けてしまいそうだ。

 

 うとうとしていた蒼葉だったが、脱衣所の物音で目が覚める。

 

「蒼葉様、お着替えを持っていきましたかー?」


 気がきく使用人はわざわざ聞きに来てくれたらしい。

 着替えは持ってきていないが、葉っぱなら一枚拾ってきた。蒼葉にはそれで十分なのだ。


「あれ、脱いだ服もないですね」


 夏帆がこちらに近づいてくる気配がする。


(まずい!)

 

 風呂から上がろうと湯船に手をかけた蒼葉だったが、慌てていたせいで滑ってどぼんと湯に落ちた。


 今度こそ。

 蒼葉は縁をよじ登る。


「蒼葉様ー? 大丈夫ですか?」

(あ……)

 

 湯船から顔を出した狸は丁度、風呂場に入ってきた夏帆と目を合わせてしまった。

 

「狸め!!」

(ぎゃー!!)

 

 夏帆はそこらにあった掃除道具を手に取り、狸を打ちのめさんと迫ってくる。

 蒼葉は火事場の馬鹿力で湯船から脱出し、攻撃をかわして外へと逃げた。


「こんのぉぉぉぉ!! 人様の風呂に入りよってー!!」

(怖い! 怖すぎる!!)


 全身びしょ濡れのまま和館の廊下を疾走する。


「何だ、うるさいよ!!」


 がらりと襖が開き、鬼婆が姿を現した。

 元気が戻って何より……など思っている場合ではない。


「菖蒲様、狸が風呂に! 捕まえて狸汁にしてやります!」


 正体を知った行雲にも耕雨にも出ていけとは言われなかった。

 山の妖も倒して全て解決した気になっていたが、この家は男性陣よりも女性陣の方が厄介なのだ。


「レイ様! そこの狸を止めてください!!」

「嫌よ、穢らわしい!」


 蒼葉はレイの横をすり抜けて洋館の外に飛び出す。


(すろーらいふには程遠い……!)


 この家で暮らしていくにはまだ問題が山積みのようである。

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