第五章 扇家と堕ちた龍神
第33話 諦めの悪い狸なんです
「はぁ……、お腹いっぱい。もう動けない」
蒼葉は大きく膨らんだ自身のお腹をぽんぽん叩き、満腹の幸せを噛みしめる。
行雲が支払いを済ませると、店主は「好きなだけ食べていきな」と言ってくれたので、ついその言葉に甘えてしまった。
(はっ、でも今は動けないくらい食べたらいけないんだった!)
行雲たちはすぐにでも扇家の酒蔵に乗り込みそうな勢いだった。
あと丸一日は変化を続けるだけの力を手に入れたので、手伝いなら任せてほしい。
意気込んで店の外に出る蒼葉だったが、そこに二人の姿は見当たらなかった。その代わり、黒塗りの馬車が少し離れたところに停まっている。
華美なものではなく、ここへ来るまでにも乗った軍が所有する質素な馬車だ。
馬車の方から駆けてきた軍服姿の青年は、確か御者の役をしていた人物である。
「蒼葉さん、こちらへ」
「扇家までの距離くらい歩きますよ」
「貴女を案内するよう命じられているので、歩かせたと知られたら行雲さんに怒られます」
青年が必死の形相で言うので、蒼葉は不思議に思いながらも、促されるまま馬車に乗り込む。
「旦那様って普段はやっぱり怖いんですね……」
「怖いです。幼い娘のためにも軍を追われるわけにいかないので、どうか大人しくしていてくださいね。お願いですよ」
彼が念入りに懇願する意味は、馬車が発ってからすぐに分かった。進行方向が扇家とは真逆なのである。
「あの、扇家とは反対方向に進んでいませんか?」
「危ないので到着するまで座っていてください。貴女に怪我をさせたら僕の首が飛びます!」
馬車はぐんぐん走り、郊外を抜ける。方角からしてどうやら百鬼の屋敷に向かっているらしい。
(旦那様、さては足手まといだと思って私だけ帰しましたね!?)
賑やかな帝都の中心に差し掛かり、速度が緩んだところで蒼葉は馬車から飛び降りようとも考えたが、「娘のため」と怯える青年の顔が頭をよぎってできなかった。
馬車は予想通り豪華なお屋敷が立ち並ぶ通りに入り、百鬼家の門を目掛けて減速する。
「あの、旦那様は扇家に行ったんですか?」
青年は手綱を引きながら答えた。
「僕も詳しいことは聞かされていません。貴女を何があっても必ず、無事、家に送り届けるよう命じられただけです」
「それなら任務は達成ですね」
一度家まで送り届けた後なら、蒼葉がどうなったとしても彼が責められることはない。
蒼葉は荷台からひょいと降り、引き返す馬車を見送りながらどのように扇家まで戻ろうかと考える。
自力で向かう場合、到着するのは夜遅くなってしまうだろう。
軍の馬車を追って荷台に潜むにしても、あの馬車が行雲たちを迎えに行くのかは分からない。
かたたん、かたたん、と門の中から自動車の音が聞こえてきた。
蒼葉が振り返ると、車窓から顔を覗かせた男と目が合う。
「蒼葉ちゃん? これまた可愛らしい格好で。一人でどうしたの?」
レイにずたぼろにされた振袖をまね、一生懸命化けた姿を誉めてくれたのは今のところ耕雨だけだった。
◇◆◇
急ぎの用ではないので送ろうかと申し出てくれた耕雨に「八滝山なんですけど……」とお願いすると、彼は一瞬複雑な表情を浮かべた。
しかし、すぐに扇家に用があると思い至ったらしい。
耕雨は蒼葉を隣の席に招き入れ、八滝山に向かうよう運転手に指示を出した。
「耕雨さんはお仕事ですか?」
「いや、今日は休み。命日に行けなかったから兄さんの墓参りに行く予定だったんだけど、死人は何時になっても構わないだろうからさ」
そう言って耕雨は手にした黄色と白の花束を軽く振る。先程まで蒼葉の席に置かれていた花だ。
「お義母様は行かないんですね」
「ああ、義姉さんは未だに兄さんの死を受け入れられていないから……」
命日の近くは毎年部屋にこもってしまうのだという。どうやらお義母様の元気がない理由は、レイの他にもあったらしい。
外に目を向けると丁度、路面電車から降りてきた仲睦まじい親子の姿が視界に入って流れて去っていく。
行雲も、お義母様も、お義父様が生きていた頃は無邪気に笑っていたのだろうか。
「お義父様……確か、山で亡くなられたんですよね?」
「そう。それが奇しくも八滝山なんだよね」
「えっ!?」
蒼葉は驚き、瞬きを繰り返す。
(確か前に、お義父様は旦那様と一緒に山に入って、それっきりだって……)
感傷に浸っている場合ではなくなってきた。
「あの、お義父様は山で熊に襲われたんでしたっけ?」
「正確なことは分かってないんだ。ただ、行雲がうわごとのように黒いものに襲われたって言うから、熊じゃないかって」
「黒い……もの……」
山で行雲が戦った妖は黒かった。
いつか屋敷までつけてきていた妖のように、全身が黒い泥のようなもので覆われていた記憶がある。
(あれが、堕ちた龍神?)
縦に長い形状は確かに熊というよりは龍だろう。想像上の龍よりも小さかったが。
「耕雨さんは、旦那様――行雲様の仕事をご存知ですか?」
「軍の特殊部隊に属していることは知ってるけど、それ以上のことは機密だろうから聞いてないよ」
「そうですか」
行雲は山の妖に異様に執着しているように見えた。
もしかしたらそれは、あの黒い妖こそが父親の仇だからではないだろうか――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます