第18話 摩訶不思議な事象

 部屋に一瞬の静寂が訪れる。行雲は更に言葉を続けた。


「そこの嘘つき女は顔も見たくない」


 レイの顔が引き攣ったのが行雲の背中越しに見える。

 これまで余裕そうだったお義母様が、お膳をひっくり返しそうな勢いで立ち上がった。


「どういうことだい!?」


 名前が挙がった蒼葉本人も予想外の出来事に思わず「どういうことですか!?」と言ってしまう。


「言葉の通りだ」

「よりにもよって出来損ないの娘を選ぶとは!! お前はきっと悪いものにでも憑かれているんだよ!」


 お義母様は真っ赤な顔でわなわな唇を震わせている。

 頑なに結婚しないと言っていた息子が取引先の娘さんをないがしろにし、急に出来の悪い娘と結婚すると言い出したのだから当然だろう。


 話をろくに聞かず蒼葉を追い出したことには納得していないが、お義母様の気持ちを考えると少し気の毒に思えてくる。


「俺は出来損ないだとは思わない」


 行雲はさらりと言ってのける。こちらからは見えないが、きっといつも通り冷たい顔をしているに違いない。


(あああ、また炎上させるようなことを!)


 謝りに来たはずなのにむしろ怒らせているではないか。

 レイは唇を噛み、今までになく醜い形相で蒼葉を睨んでいた。まるで絵に描かれる怨霊のようだ。


「蒼葉、行くぞ」

「は、はい!?」

 

 蒼葉は部屋に向かってなんとなく会釈をし、廊下を歩いていく行雲の後を慌てて追った。




「あ、あの……私はどうすれば?」


 行雲の部屋までついてきてしまった蒼葉は、物の少ない和室を見回す。


 狸として上がりこんだことは二度ほどあるが、人間姿のまま個室で二人きりになるのは初めてのことだ。


 いつもと異なる状況にどう振る舞えば良いのか分からなくなってしまう。唐突な結婚宣言を聞いた直後なので尚更だ。


「家のことを手伝う必要はない。ここにいろ」

(ここにいろってこの部屋に?)


 どうしたものかと立ち尽くしていると、行雲は蒼葉のことなどお構いなしに軍服を脱ぎ始める。

 蒼葉は見てはならないものを見ているような気がして急いで背を向けた。


 しばらくすると、畳に布団を敷く音が聞こえてくる。軍の施設を出る時に行雲から石鹸の匂いがしていたので、夜に活動していた分、これから眠るつもりなのだろう。


「今日この後はお休みですか?」


 蒼葉はそっと振り返る。ゆったりとした和装に着替えた彼は、掛け布団を整えていた。


「惣田がしばらく動けそうにない。明日の午後には一度登営するが、今日のところは休みだ」

「あの。先ほどの、私を嫁にするというのはどういうことでしょう?」


 行雲は手を止め、真っすぐ蒼葉を見る。

 以前より顔色は随分良くなったが、光を映さない虚ろな目がどことなく憂いを感じさせる。


「ここへはとついできたんだろ」

「そう、ですね?」

「なら問題ない」

(確かに……でもあんなに結婚を拒んでいた旦那様が、急に何故?)


 もしやお義母様の言う通り、山で何か悪いものに取り憑かれたのではないか。

 布団に転がった行雲をじっと見つめるが、おかしなところは見当たらない。


 まだ甘辛い卵焼きは上手に作れないのだが、いつの間に気に入られていたのだろう。


 蒼葉は小首を傾げた後、ハッとする。


(ということは、旦那様と正式な夫婦になって憧れのすろーらいふ!?)


 蒼葉は内心歓喜の声を上げる。

 そうこうしているうちに、健やかな寝息が聞こえ始めた。


(……あれ、もう寝てる。疲れてたのかな)


 行雲はいつもよりあどけない顔をして、無防備にも蒼葉の前で眠っている。


 彼は恐らく蒼葉よりも年上だが、そうは言ってもまだ二十くらいだろう。子どもではないが、大人と呼ぶにはまだ不安定な歳だ。

 命の危険にさらされる仕事をして、疲れないわけがない。


(おやすみなさい、旦那様。何だか私も眠くなってきました……)


 大きな欠伸をひとつして、蒼葉は畳の上に横たわる。

 本当は柔らかな布団の上で眠りたかったが、流石に人間姿でずけずけ行雲の隣に入り込むことは躊躇われた。


◆◆◆


 昼過ぎに一度目覚めた行雲は畳に転がる娘の様子を確認する。

 彼女は頰に畳の跡をつけ、健やかに眠っていた。


 今のところしっかり人の形を保っているが、この娘は恐らく狸のポン太が化けた姿だろう。

 名前はポン太と聞いて雄だと思っていたが、まさか雌だったとは。


 確かめるためには惣田に見せるべきだが、行雲は九割がた正しい推測だと思っている。


(あれで隠し通せているつもりなのか? ……心配で仕方ない)


 ポン太についていたものと同じひっつき虫が髪についていたり、耳と尻尾の有無を確認する動作をしたり。

 かなりのボロが出ているのにも拘らず、彼女はまだ気づかれていないと思っているようだ。


(ふっ……)


 蒼葉のこれまでの行いを振り返ると、自然と笑みが溢れる。きっと化け狸だと気づかれないよう、一生懸命人間らしく振る舞っていたのだろう。

 

 これまでの嫁候補とは様子が異なると思ったが、それもそのはず。彼女を見てふと狸を思い出すことの謎も解けた。


 正体に気づいていることを蒼葉に言うべきか。言わざるべきか――。


 彼女自身は悟られないよう一生懸命頑張っているようなので、もうしばらくは知らないふりをしてやりたい。


 せめて事情を把握するまでは結婚すると言ってそばに置き、彼女を追い出そうとする者たちから護ってやろう。

 

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