第10話 おそようございます
「旦那様、おは……おそようございます!」
蒼葉は大きな声で挨拶をする。
只今時刻は昼前だ。おはようございますと言うには遅すぎる時間帯だろう。
行雲がいつもの軍服姿ではなく、和服をゆったり身に纏っていることからして、深夜に帰ってきてこの時間まで寝ていたのかもしれない。
「……」
行雲は口を固く結んだまま、拾ったものを蒼葉が抱える洗濯物の山に乗せてくれる。
彼といい、お義母様といい、あまり口数の多い人ではないようだ。
「数日ぶりですね、いつ戻られたんですか? 今日はお休みですか? もうお昼は食べましたか?」
「……」
「私、今お料理を勉強しているんです。まだ全然駄目で毎日お義母様に怒られてますが……いつか旦那様に召し上がっていただけるよう頑張ります!」
蒼葉がそう言うと、短いながらも答えが返ってくる。
「そうか」
たったひと言なのに初めて会話が成立したような気がして、喜びがむずむず込み上げた。
仮にも夫婦となる間柄なのだから、もっと仲良くなりたい。蒼葉は会話を続けようと試みる。
「そういえば私に何か用でしたか?」
声をかけてくれたのは行雲の方だ。不思議に思って尋ねると、彼は少し間を置いたのち呟くように言った。
「狸を見なかったか?」
狸という言葉にどきりとする。何故そのことを蒼葉に聞くのだろう。今度こそ化け狸だと気づかれたのだろうか。
「た、狸ですか……見たような、見てないような……夜、美味しいものでも置いたら来るんじゃないですかね」
「……そうだな、そうしてみよう」
行雲は無表情のまま小さく頷いた。
(なーんだ、ただ狸のことが気になってただけか。旦那様って本当に動物好きなんだなぁ)
蒼葉は胸を撫で下ろす。
今日はこの前よりも顔色は良いが、きっと仕事で疲れて動物に癒されたいのだろう。
お義母様の目を盗んでそのうち行きますと蒼葉は心のうちで言う。もしかしたらまた美味しいものにありつけるかもしれない。
変化に体力を奪われ常にお腹が空いているせいか、想像しただけで口内に唾液が溢れてくる。
「名前は何といった?」
(うーん、狸の名も蒼葉ですとは言えないな……)
てっきり狸の名前を聞かれていると思い、正体がバレぬよう姫花にもらった名を答える。
「ポン太です」
「ポン太? それは人の名前か?」
「えっ」
蒼葉は目を丸くして行雲を見つめる。
抱えていた洗濯物が再びばさばさ床へと落ちていった。
狸の話を持ち出された時点で動揺していたが、今のはとどめの一撃だ。
嫁としてやって来た――それも一度名乗ったことのある蒼葉の名前をまさか覚えていないとは思わなかった。
「ポン太は狸の名前です! そうそう、この前炊事場で見かけて名前をつけたんですよ! 私は扇蒼葉です。蒼葉とお呼びください」
慌てて苦しい言い訳をした蒼葉は緊張の面持ちで行雲の反応を窺う。
「蒼葉」
「はい!」
「卵焼きは甘辛いのが好きだ」
「なるほど、練習します!」
「洗濯物は今度から何かに入れて運べ」
「はい!」
行雲に手伝ってもらい、蒼葉は落ちた洗濯物を再び抱えるが、心はここに在らずだ。
(旦那様に名前を呼んでもらえた……相変わらず冷たい雰囲気だけど、最初より少し優しいような?)
宙に浮きそうなほわほわした気分で井戸の方まで歩いていくと、大きなたらいの横に仁王立ちで待ち構えているお義母様が見え、ハッと現実に引き戻される。
「遅い!! どこで油を売ってたんだい!」
「すみません!!」
「昨日みたいに泡まみれにしたら物置に閉じ込めるからね!!」
◇◆◇
(結局!!!!)
蒼葉は物置小屋の柱に縄で括り付けられていた。
今日は石鹸を泡だてすぎることなく洗濯をしたのに、油汚れが落ちていないことでお義母様の機嫌を損ねてしまったらしい。
口先だけの脅しだと思っていたが、まさか本当に実行するとは。
お義母様は歳の割に蒼葉を物置まで引きずってくる力もあり、本当に逞しい人で感心する。
数刻ほど大人しく縛り付けられていた蒼葉だが、誰かが助けに来る気配は一向にない。きっともう、外は日が暮れている頃だろう。
腹が減り、喉が渇き、変化を保つのも限界だ。ぐったりした蒼葉はぽんっと狸姿に戻ってしまった。
おかげで縄から簡単に抜け出すことができる。蒼葉は耳を澄ませ、外に人の気配がないことを確かめて、そっと物置小屋の押し戸に体重をかけた。
幸い錠はされておらず、蒼葉は脱走に成功する。ここへはどこかで飢えを満たした後、こっそり戻ってこれば良い。
残飯を狙って炊事場裏のごみ捨て場に行くのが良いか、それとも森の中に食料を探しに行くのが良いか。迷ったところでふと思い出す。
(旦那様のお部屋に行けば、もしかして美味しいものが置いてあるかも!)
まん丸な月の下、一匹の狸は走り出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます