第7話 それは誤解です、お義母様
「……んん……。んぁ?」
蒼葉のぼやけた視界に、和室と思わしき天井が映る。
朝夕はまだ冷え込む今日この頃、ふかふかの羽毛布団が心地よい。もうしばらく眠りたいと狸姿の蒼葉はのびのび寝返りを打った。
「朝は日の出前に起きて朝食の準備と洗濯をすること。いいかい?」
頭の中にお義母様の刺々しい声がふと蘇る。
(あああああっ!! 朝ごはんとお洗濯!!!!)
昨夜言われたことを思い出した蒼葉は、跳ねるようにして起き上がった。
すっかり忘れて眠りこけていた。廊下を仕切る障子は朝日に明るく照らされている。日が昇っている時点で絶望的だ。
折檻される未来が見えて、流石の蒼葉も動悸がおさまらない。
既に行雲の姿はどこにもないことからして、早朝のうちに出て行ったのだろうか。
蒼葉は部屋に人がいないことを確かめると、屑籠から鼻紙を一枚拾い、人の姿にぽんと化ける。
普段変化する時は木の葉を衣服に見立てるが、薄っぺらいものなら紙屑でも、果物の皮でも大抵は成功するのだ。
(変化は……たぶん大丈夫! 一秒でも早く行かないと!!)
もしかしたらまだお義母様は蒼葉の失態に気づいていないかもしれない。一縷の望みを抱き、廊下側の障子戸を勢いよく開ける。
丁度その時、廊下に面する他の戸も開いた。
迂闊だった。
どうして部屋の中だけでなく、外のことまで気を配らなかったのだろう。
「お……お義母様……おはよう、ございます……」
蒼葉は精一杯の笑顔を作り、隣の隣くらいの部屋から出てきた人物に朝の挨拶をした。
彼女はゆっくりこちらを向くと、大きく目を見開いた。そして、驚きはすぐに怒りへと変わる。
「お前、今、どこから出てきた?」
お義母様はわなわなと声を震わせて言う。顔は真っ赤に染まり、目は釣り上がって、本当に鬼のようだ。
彼女がただの人間であることは気配で分かっているが、それでも昨晩、得体の知れない妖を前にした時のような恐怖を感じた。
蒼葉は気まずく視線を彷徨わせ、それから何とか声を絞り出す。
「えっと……、見ての通り、です」
「まだ正式に認められてもいない嫁が、勝手に主人の部屋に入り込むなど言語両断、汚らわしい! 全くと言っていいほど百鬼の嫁に相応しくないね! 荷物をまとめてとっとと出ていきな!!」
お義母様の怒号が響き渡った。圧倒的な声量に、蒼葉は思わず耳を塞ぎそうになる。
けれど、人里に紛れて暮らす狸の蒼葉は、悲しいかな怒鳴られることには慣れている。
こんなことで怯んでは駄目だと心のうちで言い聞かせ、相手と同じくらいの声量で叫んだ。
「誤解です、勝手に入り込んだわけではありません!!」
「行雲が招き入れたって!? そんなことあるはずがないだろう!」
「そうですけど、そうなんです!! これには深い訳が……」
「言い訳は無用だよ! 朝の仕事もせず、なんてこった。初めて見た時から、頭の弱そうな娘だと思ったが、本当にその通りだった」
お義母はそう吐き捨てる。どうやら話を聞いてくれそうにない。聞いてくれたところで、実は化け狸だなんて説明もできないのだが。
「この家から今すぐ出て行きな!!」
ぴりぴりとした空気の中、蒼葉は考える。
経験上、怒った人間の言う「出ていけ」は「反省しろ」の意味で、本当に摘み出されるまでは何とかなってきた。
今回も、そういうことだろう。
「お嫁さんとして正式に? 認めてもらえるよう頑張ります!! だからもう少しここに置いてください!」
「何だって?」
「お願いします!!」
蒼葉は床にひざまずいて頭を下げる。困った時はこれに限ると、実の親が一番に教えてくれた人間の仕草だ。
「……そんなことで私が許すとでも思っているのかい?」
お義母様の言葉は変わらず刺々しいが、少し怯んだように感じられる。もう一押し、と思ったところで思わぬ救いの手が差し伸べられた。
「そのくらいにしておきなよ、義姉さん。外まで丸聞こえだよ」
苦笑いを浮かべた男――耕雨が、洋館と繋がる廊下から現れ、こちらに向かって歩いてくる。
よそ行きの洋服を着こなす彼は、昨晩よりも立派に見えた。
「耕雨さん……今日は早いんですね」
「朝一、重要な商談があるんだ。そのまま地方を回るから、伝えてある通りしばらく戻らない。そうだ、荷物を積むのにちょっとこの子を借りても良いかな?」
お義母様も義弟である耕雨には厳しく言えないようで、溜め息一つ漏らすと、何も言わずに去っていった。
「じゃあ、行こうか」
耕雨はぱちりと片目をつぶって合図をする。
蒼葉は歩き出した彼の後を追った。
「えっと……耕雨様、先程はありがとうございました!」
「こちらこそ、嫌な思いをさせてごめんね」
「いえ、ここには美味しいご飯も温かい寝床もあって、十分快適ですよ」
外で暮らす時間のほうが長かった蒼葉にとって、人の暮らしができるというのは幸せなことだ。
まさかまだ正式な嫁として認められていないとは思わなかったが、扇家の名誉のためにも、自分のためにもどうにかここに留まりたい。
「そうか、それなら良かった。これまでのお嫁さんは義姉さんに厳しくされてすぐ逃げ出してしまったけれど、君は強いね」
「なんだ。今までの人たちは鬼に食べられたわけではないのですね」
「そんな噂、どこで聞いたの」
耕雨はひとしきり笑ってから、言葉を続けた。
「義姉さんは、昔はあんな風じゃなかったんだ。面倒見が良くて、優しい人だった」
「そうですか。想像できません」
「兄さんの失踪をきっかけに変わってしまったんだよ」
「先代のことですか? お亡くなりになられたと聞きましたが……」
てっきり、病気か何かで亡くなったのだと思っていたが、耕雨の口振りからすると違うらしい。
「行雲と二人で山に入ってそれっきり。遺体は見つかってないけど、死んでるだろうし、死んだことになってる」
同行していた行雲だけが山を降り、その証言からして熊にでもやられたのだろうと結論づけられたそうだ。
「義姉さんにはもう行雲しかいないから……。嫁をあてがおうとするわりに、やって来た子たちに厳しくするんだろう」
「なるほど、人間って難しいですね」
「女ってのは特にね」
耕雨は苦笑する。不貞を働き逃げたという嫁のことでも思い出しているのだろうか。
洋館の玄関に着くと、彼は足を止めた。くるっと蒼葉の方に振り返り、微かな笑みを浮かべて彼は問う。
「ところで君は、一体誰なのかな?」
「へっ!?」
優しい焦茶の目は、真っ直ぐ蒼葉を見つめていた。
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