第6話 旦那様は動物好き、たぶん
「よく人に慣れているな。誰かが餌付けをしているのか」
意外なことに行雲は動物好きらしい。
彼は腹を見せて転がった狸姿の蒼葉を撫でまわし、「柔らかい」と呟いて少しばかり穏やかな表情を見せる。
撫で方もなかなか達者で心地良く、蒼葉はうっとり目を細めた。
身の毛のよだつ禍々しい気配を感じなければ、そのままうっとり眠っていたかもしれない。
(これは、妖の気配!!)
それも、敵意に満ちている。
蒼葉はさっと身を起こし、四つん這いになって行雲の背後を睨む。毛を逆立て、ぐーっと唸り声を上げた。
「痛かったか?」
自分に向けられた威嚇と勘違いしたらしい行雲は僅かに眉を顰める。
(旦那様優しい――じゃなくて、後ろ!! 後ろに殺気を纏った妖がいるんです!)
どうやら彼は、暗闇の中をひたひた迫りくる、人ならざるものの存在に気づいていないらしい。
仕方ないことだろう。何故なら人が妖を認識することは滅多にない。それは妖たちが人に化けたり、気配を消したりして姿を隠しているからだ。
しかしながら、この妖は怯むことなく人に近づき、ついには姿を現した。
(黒い、塊……?)
泥を纏ったようにも見える異形の妖を前に、蒼葉は怖気付く。
大きさは人と同じくらいだが、まるで話が通じなさそうだ。こんな妖は見たことも、聞いたこともない。
流石の行雲も異変に気づいたようだ。刀を抜き、切っ先を黒い塊に向ける。
人ならざるものとの邂逅に普通なら叫んでもおかしくないところ、彼は相変わらず無表情に見える。
「ついてきていたか」
行雲はそう呟くと、飛び掛かってきた黒い影を引きつけてから横にかわし、背後に回る。
躊躇いも、恐れも見せず、彼はすっと刀を振り下ろした。
オオオオォォ――黒い塊はビリビリと辺りを揺らすような呻き声を上げ、のたうち回る。
それが蒼葉の方に向かってきたので、慌てて走った。
(うわわわわっ!)
ぐるりと大きな円を描くようにして逃げた蒼葉は、行雲の後ろへ逃げ込んでほっと一息つく。
「ォォォォ……ォォ……」
呻き声は次第に小さくなり、夜のしじまに消えていった。
行雲が「もう大丈夫だ」と言い、刀をパチンと鞘に戻したので、蒼葉は恐る恐る彼の足元から顔を出す。
(あれは……、
黒い影があったところに、乾いてやつれた緑の妖が立っている。
河童と思わしきその妖は、虚な目でこちらを見ると、一瞬ふっと表情を緩め、さらさら塵になって散っていった。
蒼葉は「あれは一体何だったのでしょう?」と旦那様を見つめる。
河童なら蒼葉の生まれ故郷の池にもいたが、姿形がまるで違う。少なくともあんな風に黒い塊ではなかった。
「驚いただろう。あれは妖だ」
(それは知っています)
行雲が絶妙の間で呟いたので、心が通じたのかと思ったが、どうやら偶然のようだ。
知りたいことへの回答はなく、彼は目の前にいる狸が妖の種であることにも気づいていないらしい。
「俺は、ああいうのを狩るのが仕事だ。仕留め損ねたのがついてきたのだろう」
(なるほど、旦那様は妖狩りなのですね)
そういえば、昔残飯を取り合った妖狐から、軍には秘密裏に妖狩りをする部隊があると聞いたことがある。
狸を馬鹿にするいけすかない奴だったが、どうやら情報は本当だったらしい。
あの時、生意気な狐は何と言ったか――。
(そうだ! 鈍臭いお前は、妖狩りには絶対近づくなって言われたんだ!)
幸いにも気づかれていないようだが、化け狸であることを彼に知られれば、問答無用で切り捨てられるのではないか。
ぞっとした蒼葉はじりじり後ずさるが、行雲の精悍な顔に滲む疲れに気づいて足を止める。
夜遅くまで仕事が大変だったのだろうか。
(旦那様、大丈夫ですか?)
「まだ餌が欲しいか」
(いえ、そうではなく。いや、もっと欲しいですけど!)
狸姿だと言葉が伝わらないのがもどかしい。かといって、妖狩りの前で変化の様子を見せるわけにもいかない。
どうしたものかとその場でぐるぐる回っていたところ、行雲にひょいと抱き上げられ、体が宙に浮いた。
蒼葉は「え!?」と叫ぶが、人間には狸が「ぎゅっ」と鳴いたようにしか聞こえていないだろう。
降りようと慌てるが、彼は狸の脇の下をがっちり固定して離さない。
「怯えなくて良い。部屋にある菓子をやる」
(お菓子!?)
甘味にありつけるのは久しぶりだ。『かふぇー』でつまみ食いをした『けーき』は思い出しただけでも頰が蕩けそうになる。
蒼葉はうっとり頬っぺたを揉んだ。
行雲が部屋で出してくれたのは洋のものではなく、確か『きんつば』という名のお菓子だったが、口いっぱいに広がる甘い味に蒼葉は転げ回って喜んだ。
◆◆◆
(随分人に慣れた獣だな)
隣で大胆に眠る狸を見て、行雲は不思議に思う。
獣というのは普通、丸まって眠るのではないだろうか。ところがどうだ、この狸は人間のように腹を見せ、大の字で眠っている。
動物に嫌われがちな行雲にも物おじすることなく近づき、それどころか体まで撫でさせてくれた。
初めて堪能する柔らかな感触を思い出すと、少しばかり気持ちが和らいだ。
もしかしたら化け狸の類なのかもしれないが、行雲に真偽は分からない。
妖狩りなどしているが、行雲は妖の気配を全く察知できないのだった。
(いずれにせよ、害はなさそうだ)
真っ黒になるまで堕ちた妖ならそれと分かるが、人里に紛れて暮らしているものを見抜くことは難しい。
軍に入り早三年。目的のためにがむしゃらに任務をこなしているうちに、いつの間にか鬼神と呼ばれるようになっていた。
昨年ようやく念願の
(仇は必ず)
行雲は誓う。そのために軍に入ったのだ。
目の前で黒い塊に飲み込まれていった父親の姿が、脳裏に焼き付いて離れない。
残像を振り払おうと、行雲はもふっとした狸の尻尾に手を伸ばす。
ふかふかな感触に集中していると、次第に気持ちは落ち着いてくる。
(そういえば、昼間出会ったあの女も、珍しく俺に怯えなかったな)
ふと緑の袴を着た少女のことを思い出す。
どうせまた母親が連れてきた嫁候補だろうが、これまでの女性とは随分雰囲気が異なるようだ。
そんなことを考えているうちに、行雲はいつの間にか眠りについていた。
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