第8話 人魚
歩は全身に疲労と重量を感じながら目覚めた。ひどく息苦しい。
「悪い夢だ……」
自分の就活をそう結論付けた。宝会計事務所の面接を受けてから連続4日、玉麗にいたぶられ、好子に踊らされる夢を見ている。そして見知らぬ天井……。
意識が鮮明になると、天井は潜入した聖オーヴァル学園の寮のものだと思いだした。左手には何やら尻のような柔らかい感触があって……。
「エッ!」
昨日からルームメイトになった福島七恵がベッドの中にいて、歩の胸に頭を乗せていた。息苦しさはそのせいだった。
どうやら異常事態に置かれているらしい。
改めて確認すると、すやすやと寝息を立てる彼女は清純無垢な少女だった。寝顔は80点だ。いつまでも見ていられるような気がする。
頭を持ち上げて見ると、昨晩、引いたはずの仕切りのカーテンが開いていて、向こう側の壁面に並ぶ文学全集が目に留まった。昨夜の彼女のつぶやきを思い出す。「私は、ひとりでいい。ずっと、ひとりだったから」
なるほど。……歩はひとり合点する。七恵は寂しいのだろう。本で守られた自分の世界に閉じこもる彼女には、心から話せる友達がいないのに違いない。そう彼女を理解したつもりでも、自分も、難しいことばかり言う七恵と同じ世界を共有できそうになかった。
それでも今、自分の布団にもぐりこんで眠っている少女に同情を覚える。少しだけ、そう、ほんの少し。それは生意気な子供の言葉に反応した胃のむかつきとは別のものだ。
「まいったな……」
歩の困惑は本能と理性の戦いにあった。無愛想でかわいげのない七恵だが、彼女も少女だ。それでなくても朝なのだ。健康な男性の欲望は一点に集中し、意思に反して戦闘態勢に入っている。
七恵のほうからベッドにもぐりこんで来たのに違いないが、相手は中学2年生。本能のおもむくままに手を出し愛を交換しようものなら、法律に基づき一生を台無しにすることになる。
歩は臆病だった。彼女の柔らかい尻から、涙ながらに手をどけた。
枕元の時計の時刻は午前4時45分。起きるにはまだ早いけれど、自分のベッドの中で七恵が目を覚ますのを待つほど馬鹿ではなかった。彼女の身体をそっと抱き上げた。パンダの着ぐるみのようなデザインのパジャマと恐ろしいほど軽い身体に驚きながら、彼女のベッドに運んだ。
枕元にあった彼女の聖書を何気なく手にする。
「Biblia。イタリア語か、スペイン語か、……まさかラテン語?」
遠目には英語だと思っていたのだが、全く読めない文字だった。思わず七恵の顔に見入ってしまう。
気を取り直し、浴室に入って鏡をのぞく。彼女が目覚める前にしっかり女装しておかなければ……。
髭は伸びていなかったが念のために剃った。すね毛は、……まだない。すべすべだ。シャワーを浴びてから化粧をして鏡の中の自分に問いかける。
「この世で一番美しいのは誰?」
もちろん、返事はない。
世の中には見知らぬ言語の聖書を読む少女がいて、それを教える教師がいる。就職面接でダンスを踊らせる面接官がいれば、女装して女子寮にもぐりこむ新入社員がいる。社会って、こんなに複雑なものなのだろうか?……脳裏を
その日は、ホワイトデーだった。女子高なのに何故か学園はざわついていた。食事中の会話は行儀が悪いとしつけられていても、食堂の少女たちは沸き立つ気持ちを押さえられない。これから帰省する者は、その前にプレゼントを受け取るというミッションを成し遂げなければならなかった。心がざわつかないわけがない。
好きな男子からのプレゼントをもらうために外出する少女がいれば、バレンタインデーにプレゼントを渡したシスターの返事を待つ少女もいる。ひっそりとミッションを遂行する少女もいれば、手にした成果を
ホワイトデーに縁のない七恵と歩は、淡々と食堂に足を運び、静々と席について黙々と食事をとった。ところが……。
「アユミさん。私のキャンディーを受け取って」
咲良の屈託ない一言を皮切りに事態は一変した。少女が歩の周りに群がった。それぞれ可愛らしい包装紙で包んだ小さなプレゼントを手にしている。
「私に?」
ヒャッホー!……歩は胸の内で歓喜の雄たけびを上げた。母親以外の女性からプレゼントをもらうのは初めてだった。女子高、サイコー!
「皆さん、ちょっとどいていただけるかしら」
少女たちを押しのけるようにして香苗が隣の席に座り、高級ブランドチョコの詰め合わせをテーブルに置いた。ほぼ同時にやって来た詩織が七恵を押しのけて腰を下ろし、手作りクッキーを置いた。背後から近づいた朱里は肩越しに手を伸ばし、マシュマロを置いて走りさった。
「まさか、こんなに……。みんな、ありがとう」
歩が長いまつ毛を瞬かせると、少女たちが吐息を漏らした。
「本当にありがとう。私は何の用意もなくて……。こんなことがあるなんて知らなかったから……」
「それじゃ、握手してください」
咲良が言った。
「私は、ハグして」
詩織が求めた。
望むところです!……彼女たちの要望に応えるのはとても気持ちがいい。
香苗の身体の柔らかさを実感した時だった。身体の中心がむず痒くなり、ツーと鼻血が流れた。
「お姉さま大丈夫?」
詩織に差し出されたハンカチは甘い香りがして血の量が増えた。そうして食堂が閉まるころ、歩の前には菓子の山と七恵が残った。
七恵にプレゼントを置いていく友人はなかった。それだけで、学園での彼女の立場が理解できた。そんな彼女に菓子運びを手伝ってもらうのは、気が引けた。
2人で菓子を抱えて階段をのぼる。
「お菓子を食べるのも、手伝ってもらえるかしら?」
訊いても彼女は返事をしなかった。質問を重ねる。
「七恵さんは、帰省しないの?」
「図書委員の仕事がありますから」
「そう、……たいへんね」
帰省できないほど、図書委員の仕事がハードワークなのだろうか?……七恵に対する同情が深まった。
部屋に戻り、詩織のハンカチを洗った。それから七恵の案内で学園の建物や敷地の周りを調べ歩いた。
「3月3日は残雪があったので、この辺りから敷地を出るのは難しかったと思います」
北向きのフェンスの前で、七恵が盗難事件があった日のことを説明した。
「積み重ねられた雪山を足掛かりにして、フェンスを乗り越えたとは考えられない?」
正門や裏門には防犯カメラがあって、不審者は映っていなかった。それは理事長がそう説明した。すると犯人は、フェンスを乗り越えて侵入したか、学園内部の人物ということになる。関係者の大方の見方は、犯人は内部の人間ということなのだけれど、外部の人間であってほしいという淡い希望がにじみでていた。歩は関係者の、何よりも美魔女の学園長の望みどおりの結果が出ることを最優先に、ひとつずつ可能性をつぶし、真犯人にたどり着こうと考えていた。
「それほどの高さはありませんでした」
七恵の説明を聞いてスチール製の古いフェンスに手をかける。多少は揺れるが壊れてはいない。高さは十分あって簡単には乗り越えられそうになかった。外側から紐を垂らしておけば乗り越えることは出来るだろうが、紐がくくられたような痕跡はなかった。
「そもそも……」
歩は振り返って七恵を見下ろした。
「人魚なんて、この世にいるの?」
人魚の鱗が、探す価値のないものであればいい、と思う。
「さあ」と、七恵は首を傾げて見せた。
「七恵さんは、その鱗を見たことがあるの?」
確認すると、彼女は少し間をおいてから、コクリとうなずいた。
「どんなものだった?」
「金色の綺麗な鱗です」
「普通の魚の鱗じゃないのかな?」
「さあ」
七恵は再び首を傾げた。
「例えば金色の
「鯉の鱗より、何倍も大きなものです」
彼女は断言した。
「そうなんだ。……理事長や学園長は、不老不死とか呪いとか話していたけれど、具体的にはどんな話なの?」
質問すると、彼女は周囲を見回して人気のないのを確認してから口を開いた。
「昔、人魚の肉を食べて800歳まで生きたという
「比丘尼というのは、尼さんのことね?」
「ハイ」
「その比丘尼は八百歳で死んだから、不老不死とは言えないわよね?」
「比丘尼は死んだのではなく、
「入定って、山形の
歩は写真で見た僧侶のミイラを思い出した。それは人々の幸福を願って命をささげた高貴な僧侶の姿なのだろうけれど、正直に言えば、気持ちが悪いと思っていた。
「ハイ」
「七恵さんは、いろいろ知っているのね」
「本を読むからです」
相変わらず嫌味な中学生だ、と歩は思う。
「それで、その伝説と学園の人魚の鱗は関係があるの?」
「それはありません」
七恵にからかわれていると感じてむっとした。が、自分は社会人になったのだ。向きになってどうする。と、自制して穏やかな声をつくった。
「ここの人魚の鱗の由来を知っている?」
七恵が、コクンとうなずく。
「聞かせて」
「鱗は飛鳥時代に現れた人魚のものです。この辺りが大和朝廷の支配下に入ったばかりの話です」
「こんな盆地に、人魚が現れたの?」
「聖徳太子が海のない滋賀県で人魚に会った話も残っています。人魚は、海にも川にもいるのです」
「なるほどねぇ」
「この辺りでは、人魚は毎年、海から川をさかのぼって来ていたそうです」
「鮭みたいね」
つい、冷やかすような言葉が漏れた。実際、彼女の話を信じていない。
「ハイ」
「何のためにさかのぼって来たの?」
「子供を作るためだそうです」
「本当に鮭と同じだ」
「そこは違います」
「どう違うの?」
「鮭はオスとメスが海から
「アマゾネスみたい」
歩は映画で観た女性だけの部族の話を思い出していた。
「その通りです」
七恵が唇を結んだ。じっと歩を見つめている。
「ごめんなさい。余計なことを言ったわ。人魚の話を続けて」
「人魚は川をさかのぼり、苦労して男を探すのです。そうしてみつけても、人間の男には容易に相手にされません。人魚は妖怪みたいなものですから」
「それはそうよね。見るだけならいいけれど、セ……いや、いい」
「セックスのことですか? 私のことなら、お気遣い無用です。美しさにひかれて寄って来た男でも、
「なるほど。ボッ……ねぇ」
中学生なのに話が妙に生々しい。大人びた彼女にどう接したらいいのだろう?……吐息がもれた。
「私の話、おかしいですか?……どう思われてもかまいません。慣れていますから。でも、伝承は事実なのです」
ほらきた。結局、彼女も学園長と同じ信者だ。……歩はこぼれ落ちそうになる冷笑を押し隠した。
「ごめんね。そんなつもりはないのよ。続きを話して」
「ハイ。人魚は川をさかのぼりながら男を探して声をかけます。男に相手にされないと、次の男を探す。そうして2カ月ほど男を探し、声をかけて泳ぐそうです。それでも相手が見つからないと、あきらめて帰ってしまう。そして翌年になると、再び川をさかのぼってくる」
「辛抱強いわね」
強い共感を覚える。就職のために100枚のエントリーシートを作り、面接を受けて回った自分が重なっていた。女装してこうしているのも、その就職のためなのだ。
「子孫を残すために、生き物は頑張るのです」
七恵が大人のように言った。
「そ、そうね」
「人魚が子供を産むのは100年に1度だそうです」
「2か月間、毎日ひとりの男に声をかけるとして60人。100年間、同じことを繰り返せば6000千人。恋愛成就は6千分の1の確立。人魚の子孫を残そうとする気持ちは、もう、執念といえるわね。その執念深さがあれば、今でも人魚は世界のどこかで、まだ生きているかもしれないわね」
思わず、口調が嫌味っぽくなった。
「間違いなく生きています」
彼女は嫌味をことも無げにいなした。
「人魚の鱗は、この街に人魚が現れた証なのね」
「ハイ。人魚はセックスのために鱗を1枚だけはがすのです。そこに男を受け入れる場所があるそうです」
七恵の口からセックスという言葉がポンポンと飛び出すので呆れた。
「生々しい話ね」
「交尾と言ったほうがいいですか?」
「えっ……、いいわ、セックスで」
頭がくらくらした。
「鱗はただの鱗ではないのです。命をつなぐための犠牲という特別な意味があるのです」
「意味……、ねぇ」
いつの間にか話を聞くのに夢中になっていて、足が止まっていた。
「鱗は生命の象徴なのです。人間と結ばれるために、人魚自らはぎ取ったものだからです。人魚の生への執着心を感じませんか?」
「感じるわよ。とってもリアルに。だけど、古文書か何かに書いてあるの?」
「言い伝えです。文字がすべてではありません」
七恵が薄い唇を、キッと結んだ。
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