ten-don

 牢獄のような2年間が過ぎ、あらゆる面倒ごとから逃れ自由の身となったわたしは、手当たり次第にバスに乗るようになった。行き先なんて確かめない、自分の意思と無関係に流れていく風景を眺める。


 バスのなかではいつも何か事件が起こる。それもまた、わたしの意思とは何の関係もないことだ。誰もが地球の自転を見逃して日々を送るように、誰もがあらゆる事件を見逃して日々を送る。バスに乗るとそれがわかる。バスは、地球の自転に逆らって進む唯一の公共交通機関だから。


「……お墓はどうしようかねえ」


 優先席で隣り合って座っていた女性が言った。他の乗客は後部の若い人たちと、停留所の名前をお経のように読み上げる運転手だけ。彼らに彼女の声は聞こえない、あるいは聞こえないふりをしている。


「……駆け落ちなんかするんじゃなかった。でも、こっちの話なんてこれっぽっちも聞いてくれないしねえ」


 わたしは黙って聞いていた。それでふたりの会話は成立していたし、そのことを確信してか、彼女はどんどん雄弁になっていった。


「50年前にね、あの人と会って、大恋愛ですよ」


「ふたりとも若かったしねえ。あの人は貧乏だったし、わたしは世間知らずだったから」


「わたしらふたりで生きてきたんです。なのに片割れがいなくなって」


 私は黙って聞いていた。あいづちひとつ無しに。


 彼女はブザーを押して、次の停留所で降りた。わたしは今さらのように寝たふりをした。目をつぶりながら、いなくなった人のために、最善手のあいづちを探し求めた。


 終点で、他の乗客とともにわたしも降りた。最寄りの地下鉄に乗り、近所のスーパーでお惣菜を買って帰った。春菊の天ぷら。電子レンジで温めるとしっとりして、めんつゆをかけるとますますしっとりした。


 あのとき、そっと天丼を差し出していたら…。


 春菊の天丼を食べながら、わたしは最善手のあいづちを思いついた。

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