隔絶した世界の小さな箱の中で3
つかさないつかさない、と言って私は沖田くんに枕を渡した。けれど沖田君はそれを断って、自分の右手を枕にして、ベッドに上がるのではなく、床に座ったままもたれるようにして目を閉じた。
その形のいい唇が、小さく動く。
「人前で寝ることなんてほとんどないのに、衿ノ宮とだと気を許しちゃうな…………」
「え? そうなの?」
沖田くんがちらりと瞼を開けた。
「あんな仕事してるのに、か?」
「ち、違うよ!? そうじゃなくて――」
本当はまさにその通りだったんだけど、
「――ほ、ほら、沖田くんてなんだかこう、隙がない感じがするじゃない!? だから……」
沖田くんがくすくすと笑う。
「客の前で寝入ったことはないよ。衿ノ宮、学校とかで言わないでくれよな。この人うちに上がり込んで寝出したのよ、とか」
「言いませんっ」
「うん。そうだと思うだからおれ、衿ノ宮といるの好きだよ……」
なんの気なく出てきたその言葉へ、私がなんと答えていいのか分からず口をぱくぱくさせている間に、沖田くんの呼吸は寝息に変わっていった。
私は胸を手のひらで押さえて、頭の中を整理する。
今さっき、考えをまとめたいことがあると言ったのは本当だった。
沖田くんの「仕事」を考えると、どうしても繊細に考えざるを得ない、私の趣味。
先天的に苦手だという人はたくさんいる。後天的に嫌いになったという人だってたくさんいる。
そうした人たちに、無理に認めてほしいとまでは思わない。むしろなるべく目に触れさせず、不愉快な気持ちにさせずに、でも私だけは大好きでいたい。
沖田くんが仕事で男の人の相手をしていても、BLというジャンルが好きだっていう保証はない。むしろ、だからこそ嫌悪していてもおかしくないと思う。
でも、黙っているのは今の私にはつらかった。沖田くんの方が、ずっと打ち明けるのに勇気のいることを私に教えてくれた。私も、後ろ指を指す人はいても、後ろめたいとは思っていない大切な趣味を、沖田くんに伝えたい。。
もちろん、受け入れてくれた方が嬉しい。そのためには、どう伝えたらいいんだろう。
それを考えていたら、十五分はすぐに経ってしまった。
沖田くんのスマートフォンのアラームが鳴り、軽く首を振っただけで、沖田くんがすっかり覚醒する。
「そ、そんなにすぐに起きられるんだ。凄いね」
「むしろこれくらいの短さの方が寝覚めがいいんだ。……で?」
「え?」
「おれになにか、話したいことがあるんだろう? まとまった?」
よく覚えておいでで、と呟くと、沖田くんがそりゃそうだろうと笑った。
入れ直しておいた麦茶を、沖田くんがお礼を言いながら口に含んで、グラスを置いた。
そこで、私は覚悟を決める。
「沖田くん。実は、私、特定のジャンルの漫画や小説……的なものを読んだり、……書いたりすることがあって」
結果的に私が選んだ伝え方は、あけすけに、そのまま口にすることだった。
「BLって、沖田くん分かる?」
「分かるよ。結構いい歳の男の人が、男子高生のキラキラのBL漫画持ってきて、このシーンやりたいってリクエストしてきたりするし。……つまり?」
「つまり、……私は、BLを読んだり……」
「読ん
「書いたりするのが……好きなのです」
沈黙。
いつの間にかうつ向いていた私の顔を、沖田くんが覗き込んできた。
「わっ」
「え、そんだけ? 衿ノ宮」
「そ、そんだけ」
沖田くんは大きく息をついて上体を反らせると、両手を後ろについた。
「なんだよ。おれ、もう今の短時間で凄いこと色々想像しちゃったのに。あ、いや、なんだってことないよな。女子にとっては勇気いる告白だよな」
「……色々って?」
「あー。……一瞬頭をよぎったのは、実は、衿ノ宮が実はおれと同じ仕事をしてたとか」
「それは……ないかな」
「じゃ、読ませてくれるのか?」
返事をしようとして、質問の内容を処理しきれずに、固まる。
なにを?
「いやだから、読ませてくれる気になったから、そんなこと教えてくれたんだろう?」
ぶわっ、と顔が火照る。
「む、無理無理無理! それは無理!」
「なんだ、違うのか。……絶対いや?」
「ぜ……ぜったい、では――」
本当のことを言えば、心のどこかで、期待してはいた。
私が好きなものを、私が作ったものを、沖田くんにも見てもらいたい。
そういう、絶対に秘密だと言いながら手の中に隠した宝物を、ほんの少しだけ指を開いて、大切な人にだけこっそり見せたいような、そういう欲望が確かにあった。
「――ない……けど」
「あの中?」
沖田くんが指で示した先には、私のノートパソコンがある。
火照ったままの顔で、こくりとうなずいた。
「見ていい?」
私は熱い頬を指先でなでながら立ち上がった。
パソコンの電源を入れて、BL小説の投稿サイトを開く。ネット上に上げているのは、私が書いたものの中でも特にプラトニックなものばかりなのでハードルが低く、割合気負わずに見せることができた。
「ど……どうぞ」
沖田くんが私の椅子に座った。
「ほかに、衿ノ宮の小説のこと知ってるやついるの?」
「い、いない。お母さんにも言ってないから」
「誰にも言わない方がいいよな?」
「できれば」
「分かった。絶対言わない」
さっきこんなやり取りをしたっけ、と思い返して、その時とは立場が逆だなと気づく。
私も、沖田くんといるのは心地いい。
沖田くんがマウスのホイールをスクロールさせる。
「思ったよりたくさんあるんだな……これは今全部は読めないな」
「目の前でそんなにしっかり読まなくていいよ!? て、ていうかそもそも、読まなくても」
「いや。サイト名とハンドルネームは覚えたから、また家でじっくり読む」
「い、いいよ読まなくて!」
「絶対いや?」
そう言われると、また、うっとひるんでしまう。
「……沖田くん、わざとそういう言い方してるでしょう」
「ちょっとだけな。だってこれ、衿ノ宮が頑張って書いたんだろ? おれだって丁寧に読んでみたいよ」
沖田くんのことだから、茶化したり、嗤ったりはしないと思っていたけど。
そんな風に言われると、頬の熱が、目元に集まってきてしまう。
そこでようやく私は、大事なことを言い忘れていたのに気づいた。
「あ、あのね沖田くん。私、こんな風にBLが好きで、漫画や小説も読むし、自分でも書いたりするんだけど」
うん? と沖田くんが振り向いた。
「誤解しないでほしいの。あの、私が、沖田くんと、……沖田くんのことを、BLの」
今すぐに伝えたいのに、うまく言葉にできない。
私は。
BLは好きなんだけど、それは決して、
「衿ノ宮はBLが好きだけど、それが理由でおれに興味持って仲良くしてくれてる、ってわけじゃないんだろ? 分るよ、それくらい。衿ノ宮見てれば」
沖田くんが、そう言って画面の方へ向き直った。
唇が震えた。
今すぐ、その肩口にしがみつきたかった。彼の白いうなじにすがりついて、ありがとうと言いたかった。
でも、それより先に、私の口をついて出たのは。
「言いたかったのは、それだけじゃないの」
え? と沖田くんが振り向く。
「私、……昔、友達とけんかしたことがあって」
なぜそれを言おうと思ったのかと訊かれれば、沖田くんのプライベートだけを聞いて、私の方は隠し事をしたままでいたくなかったというのはある。
でも、もっと根源的な気持ちとして、沖田くんに聞いてほしくて仕方なかった。
「中一の時、小学校から仲がよかった子が、同じクラスの男子を好きになったの。私にも協力してって言われて、なにをすればいいのか分からないって言ったら、連絡先を聞いてきてほしいって言われて。そうしたら、私がその男子を好きらしいって噂が立っちゃって、……それで、なんていうか」
「こじれた?」
沖田くんが首だけでなく、体ごと私の方を向いた。
「それまで、私とその女子の子は、一緒によく遊んでたりしてたの。親友ってほどじゃなかったけど、大事な友達。私はもちろんすぐに否定したんだけど、……」
私が言いよどむと、沖田くんがあっさりと、
「その男子の方が、衿ノ宮を好きになったのか」
「なんで分かるのっ!?」
「小中学生の男子には、女子から好きになられると、自分もその子を好きになるっていう習性を持つタイプのやつが一定数いるんだよ。でもなるほど、それはこじれるな。……告白までされた?」
「……された。……みんなの見てる前で」
「それはまた。例の友達もその場にいた?」
かくん、とうなずく。
私はお腹の前で指を組んで、ベッドに座った。
「起こったこと自体は、そんなに大したことじゃないと思ってるんだよ。そもそもは誤解だし。でも私が、……ちょっと、その時、友達の子に言われたことが……」
今でも覚えている。
その女友達は、朝比奈さんといった。
放課後の、西日になる前の日差しが差し込む、中学校の明るい教室。日に日に冷たくなる視線を私に向ける朝比奈さんを尻目に、彼は私のクラスまでやってきた。
まさか、そんなわけがない、と胸中で叫ぶ私の前で、彼はそのまさか、自信満々に、つき合おうと言ってきた。
クラスの全員が私たちを見ていた。あの時のみんなの表情は、死ぬまで忘れられない気がする。最高の見ものが始まった、と無邪気に沸き立つ含み笑いの群れ。
告白をされてからのほんの数秒の間に、膨大な思考が私の頭を通り過ぎ、その中でひときわ鮮やかに明滅したのは、「私が彼を好きだという誤解だけは肯定したくない」という意志だった。
――ごめんなさい。
彼は告白の成功を確信していた顔を硬直させて、棒立ちになった。
私はその横を駆け抜けて、家に帰った。
翌朝に昇降口で会った朝比奈さんは、見たこともないほど顔をゆがめて、涙を浮かべながら、本当に軽蔑しきった相手にだけ向ける視線と共に、一晩中唱え続けたのだろう言葉を私に吐いた。
――嘘つき。裏切り者。
それは、卒業までに彼女が私に向けた、最後の言葉だった。
なんとか関係を修復しようと、胸襟を開ききって彼女と向き合おうとしていた私は、その敵意に対してあまりにも無防備だった。
子供ながらに、心からの憎しみを湛えて吐かれたその言葉は、私の胸に深く突き刺さった。
朝比奈さんはクラスの人気者だった。それなりにいた私の友達は、無責任な周囲が私を悪役に仕立てた噂が広まると、波が引くように私の周りから遠ざかっていった。
噂は、浅薄だけど、悪質だった。
いつも地味で目立たない襟ノ宮燈は、かわいくて明るい朝比奈さんの隣で、いつも彼女に嫉妬していた。朝比奈さんに好きな人ができたのをいいことに、私がその男子に色目を使った。普通なら、私なんかが、朝比奈さんを出し抜けるはずがない。それなのに男の子の目をこちらに向けさせたのは、なにかはしたない手を使ったからだ。
朝比奈さんはそう信じてしまっていたらしいし、ほとんどのクラスメイトも――こんな話に、真相を究明するほどの手間をかける人はいなかったので――同じように思っていた。
どうしてそうなってしまうのか、説明してみろと言われても、私にも、クラスメイトたちにもできないのではないかと思う。
急速に一人になった私は、なにか気のまぎれることはないかとうろついていたネット上で、たまたまBLの小説を見つけた。
初めて読んだBLは、文章がきれいで、挿絵の水彩調のイラストがきれいで、主役二人が互いを思い合う気持ちが丁寧で、それらは私の胸に空いたうつろな空間に柔らかく染み込んできた。
穏やかな恋愛物語に癒されて、その時初めて、私は深く傷ついていたんだということを自覚した。
「……衿ノ宮。それは、全然、大したことなくないな」
「もっと、うまい立ち回り方があったんだと思う。……でも私が、……なにかを失敗して」
「おれの中でのBLのイメージは、今かなり上がったけどな」
それとこれとは、と私は苦笑した。その小さな振動で、目元に熱を持った水分が集まっているのを感じる。
「衿ノ宮のことだから、つらい思いをしたんだとしたら、ほかの誰かのためだったんだろうなってなんとなく思ってたよ」
私は、情けなさにまた笑って、かぶりを振る。
男子の告白を断った時、私は自分のことしか考えていなかった。
「そんなんじゃないよ。今言った通り、私が全然だめで……私が、私のことしか考えずにものを言ったり、その後もなにもできなかったり、だったから」
「なら、それくらい、譲れないもののためだったんだな」
静かに告げられた沖田くんのその言葉は、あれ以来向き合いたくもなかった私の思い出に寄り添って、分厚い埃を振り払うように、胸の奥に抱き続けていた痛みの正体を教えてくれた。
そうだ。譲れなかった。
絶対に誤解だけはされたくなかった。あの時、私が朝比奈さんの初恋のために力になりたかったこと、彼女の恋を邪魔しようなんて全く思っていなかったこと、あの男子に特別な気持ちなんて全然抱いていなかったこと。
それなのに、絶対に避けたかった道だけが、結果として私には与えられた。
「どうして……」
「ん?」
「どうして、これだけは守りたいと思ったものがあると、それだけは守れなくなるんだろう。どうして――」
沖田君が口を開くより早く、私が先を続けた。
「――どうして、今まで誰も、私だって自分で分からなかったことが、沖田くんには分かるの」
自分から誰かに過去の話をして、理解してもらえる気がしなかった。誰にも分かってもらえないことを抱えて生きるなんて当たり前のことなんだろうと、割り切ろうとしていた。
誰かが見てくれて、分かってくれるということが、こんなにも嬉しいことだとは思わなかった。
「おれには衿ノ宮のことが分かるなんて、偉そうなことを言うつもりはないよ。同じ目に遭っている人がほかにいるとしても、そのつらさを救ってやれるとも思わない。でも、衿ノ宮はさ――」
鼻の奥が痛い。
目の熱がさらに増していく。
「衿ノ宮は、歌舞伎町で、おれのために勇気出してくれたんだろ。立場が逆なら、おれなら放っておいたかもしれない。それが普通だとさえ思っただろう。でも世の中には、ただのクラスメイトのために、事情が分からなくても見知らぬ男に対して踏み込んでいける人がいて、……おれもそうなりたいと思った。おれ、学校からはちょっと浮いてるというか、高校に在籍はしてるけどつながりは薄いっていうか、そういう生徒だろ」
「神くんがいるのに……」
「あいつはあいつで、生徒会長になるとか言ってるけど、どうも浮世離れしてるしなあ。とにかくおれは、教室にいてもいなくても、そんなに皆が困るような存在じゃない。生活の重心が学校の外にしかないのは、悪いことではないんだろうけど、ある意味で寂しいことだなとは思ってたよ。それが、衿ノ宮のお陰で、……大袈裟かもだけど、世の中とおれって地続きなんだなって感じがした。だからおれも、衿ノ宮のためになにかできたらなって思ってたよ」
「そんなこと……充分してくれてるよ。沖田くんといるの、楽しいもん」
息を細かく止めながら、なんとかそう言葉にする。
「衿ノ宮。さっきも言ったように、おれには君のことが分かるわけじゃない。だからこれは、なんとなくそう思っただけで、君が答える必要のない質問だ。でも、聞いてほしい」
「いいよ。なに?」
「衿ノ宮は、その女友達のことが、好きだったんじゃないか」
沖田くんは、早いうちから、その可能性に気づいていたのかもしれない。
私なんかが下手に隠していた沖田くんへの好意は、当の沖田くんなら察してしまっていたんじゃないかと思う。それでも沖田くんが、私が彼を好きにはならないだろうと言っていたのは、私のそうした部分を感じ取っていたからかもしれない。
自分は女子しか好きにならない人間なのではないかと、小学生のころからぼんやりと思っていた。
中学に上がって朝比奈さんへの気持ちを自覚した時、これはもう決まりだと思った。
そして、このことは隠し通さなくてはいけないと思った。どうしてかと訊かれれば、どうしてもとしか言えない。
彼女の役に立ちたかった。私なんかの気持ちが報われるよりもずっと、朝比奈さんに幸せになってもらいたかった。
だから頑張ろうと思った。でも、だめだった。
せめて伝えたかった真実は、決して口にしてはいけない――口にすればもっと悪いことが巻き起こる――という恐怖と一体だった。
それから、人を好きになることが怖かった。
だから高校生になって、男子である沖田くんに抱いた気持ちを見つめ直した時、自分がひどくいい加減で、節操のない生き物のように思えた。
けれど、私が人生で二番目に好きになった人は――
「おれ、衿ノ宮のことを泣かせるようなことだけはしたくないって思ってたんだ。本当、衿ノ宮の言う通りだ、うまくいかないもんだな」
――この人を好きになってよかった、と思わせてくれる人だった。
私が首を横に振ると、とうとう、温かい雫が頬を伝ってほろほろと落ちた。
朝比奈さんの時と、沖田くんとで、同じ想いなのかどうかは私には分からない。
でも、もう一人で内緒で抱え込むには、この気持ちは大きくなり過ぎてしまった。
「沖田くん」
沖田くんが、ハンカチを取り出しかけて動きを止める。
「ん?」
「好き」
「衿ノ宮」
正面の表情は、にじんでぼやけて、よく見えない。
おれのことを好きになったりしないだろう?
衿ノ宮はそんなんじゃない。
ごめんなさい。
嘘でした。
ずっと嘘でした。
「好き。沖田くんのことが、好き」
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