隔絶した世界の小さな箱の中で2
「訊いてみればいいじゃないか。瀬那が訊けば答えてくれるよ」
「そう言われて、教えてもらえなかったらショックじゃないか」
瀬那が口をとがらせる。
「繊細だなあ」と峰倉が小さく笑い、「瀬那は、ハルキシが好き? 僕たちは結構持て余すこともあるんだけど」
「おれは、持て余すどころか振り回されまくってますよ。ただ、あいつ……」
「あいつ?」
「……最近、どんどんきれいになってないですか?」
峰倉が大笑いした。
「それこそ、ぜひハルキシに言ってやってくれ。老いは、僕たちの一番の恐怖なんだ。顔はいじれるけど歳は戻らないからね。小じわ見つけたなんて、間違っても言っちゃだめだからね」
「わざわざそんなこと、……」
ベル代わりの、ドアの軋み音が響く。
入ってきたのは、ハルキシだった。
「あー疲れた。ねっむ。泊まりでも六時間は寝かせろって言ってんのに、あいつら日本語分かんないのかね」
瀬那は、隅の小さな冷蔵庫から缶のソーダを出して――瀬那が入れておいたものだ――、ハルキシに渡した。
「缶ならビールだろ?」とハルキシが軽く瀬那を睨みながら、合成皮革の赤いソファに座る。
「未成年じゃ買えないよ」
「噛み合わない野郎だな。ビールは特別なんだよ。朝から飲んでも最高にうまい酒って、ほかにあるか? ソーダって辛いよな。柿の種くれ」
「ハルキシだって会話にならないじゃないか。すでに飲んでるんだろ。それにもう昼過ぎてるし」
峰倉が静かにドアを出ていくのが、瀬那の横目に見えた。気を利かされた、と思うと気恥ずかしくなる。
「瀬那、お前まだ童貞?」
「なんで毎週訊くんだよ!?」
「いつまでとっといてんだ。その気になれば、今日にでも捨てられるだろうに」
「大きなお世話だ。おれは好きな人とって決めてるんだから」
「同級生で気になるやつくらいいるんだろ? 生徒の半分男子なんだから。それとも先輩や後輩か? あとは教師とか?」
瀬那は、一瞬考え込んだ。そういえば自分は、学校の男子には特に恋愛感情を抱きそうな気配がない。そういうものなんだろうか。
同じクラスの男どもは、毎月気になる女子が変わっていたりするのでひどく移り気に思えたが、それが高校生男子の「普通」ではないかとも漠然と考えていた。
自分は、人一倍一途なたちなんだろうか? 仲のいい人間で人と交際をしている者がいないので、参考になる話を聞いたこともない。
瀬那の耳に入ってくるのは、夜の世界の男たちの、ずいぶんと極端かつ奔放な、下半身の情報ばかりだった。
「お、なんだ黙りやがって。さては、好きなやつのことが思い浮かんだな?」
「いや、マジで学校にはいないんだよ」
「学校には? じゃあどこにいるんだ?」
「どこって」
しまった、と思った時には、瀬那はハルキシに無防備な視線を送ってしまっていた。
真正面から二人の目が合う。唇に当てたソーダを傾けるハルキシの動きが止まった。
悟られた、と思った。なぜか負けた気がして、悔しかった。
ハルキシが缶を口から離し、テーブルに置いて、立ち上がった。
逃げなくはならない。そう思うのに、瀬那の腰には力が入らなかった。
唇が重なった。
ソーダに冷やされていたハルキシの唇はひやりと冷たかったが、それがまるで氷が溶けだすようにとろりと温もると、瀬那はもう抵抗できなかった。
横にあったテーブルの上に寝かされ、ハルキシが覆いかぶさってくる。
「待って、待ってハルキシ」
「待っていいことなんてこの世にない」
「そうじゃねえよ! こんなところじゃ嫌だって言ってんだよ! 普通シャワーとか浴びるんじゃないのか!? こっちは純正処女だぞこの野郎、大事にしろ!」
ハルキシがくるりと辺りを見回した。
「ち。貧弱な水回りだな。キッチンとトイレしかねえじゃねえか」
「そりゃ、こんなこと想定してないだろ……」
瀬那は起き上がって衣服を整えたが、インナーシャツまでまくり上げられていたどころか、既にズボンのジッパーが下ろされかけていたのに気づいて舌を巻いた。
さすがに、好意を寄せている相手に、一番快感に脆い部分まで触れられてしまったら、場所がどこだろうと抗える自信がない。
「ホテル行くか。ちょっといい部屋取ってやろう」
「……行く」
自慢げに口角を上げているハルキシの様子には腹が立ったが、そういう表情が一番似合うとも思う。
二人はプールバーを出た。
まだ日は高く、往来は仕事や買い物の人出で溢れている。
歩き出して間もなく、ハルキシは「瀬那」と呼びかけてきた。
「なに」
「お前、おれのこと好きだろう」
瀬那には、怖くて答えられなかった。なにが怖いのかと言われれば、答えることで起こりうる全てが怖かった。
「そんなお前に、言っておかないといけないことがある」
「おれまだ返事してないんだが」
「今お前、おれ相手に興奮してるよな?」
「……ドキドキはしてる」
「男相手にか?」
「別にいいだろ。おれは同性愛者なんだから」
「……なんでいちいち同性愛者だ? ゲイでいいだろ」
「字面が明確な方がいい」
「あっそ。でも、瀬那が男が好きだっていうのは錯覚かもしれないな」
「そんなこと言いだしたら、誰だってそうじゃないか」
ハルキシが立ち止まる。つられて止まった瀬那の顔を見下ろして、言った。
「瀬那。おれは体は男だが、頭の中は女だ」
それからハルキシは瀬那を建物の陰に立たせ、静かに、よどみなく告げ始めた。まるで、なにをどう話すか、全て準備していたように。
おれは女だ。生まれてから一度も、自分を男だと思ったことはない。女とも寝ることはできるが、恋愛対象は、今まで例外なく男だった。性別適合手術を受けるつもりでいる。一日でも早く、細胞が若くて活力があるうちに。バーで働いていても目標金額にはそうそう届かない。ばあさんになってからじゃ遅い。だから売りをやっている。……瀬那、お前はたった今も同性愛者だと言ったな。「私」の性別が女でも、私のことを好きか?
瀬那は、答えられなかった。
好きだ。好きではない。分からない。どれが正解だ?
好きだ、と即答すれば、今のハルキシの告白を深く考えていないと言っているようなものだと思えた。
好きではない、と言えば、これは嘘になる。売り専の知人たちは、嘘をよくつく者もいたが、人からつかれるのは大嫌いな連中だった。ハルキシもそうだろう。
分からない、とは言えない。それだけは言いたくない。
ハルキシは、瀬那の耳元に唇を寄せ、
「やりそこなったな」
と言うと去っていった。
瀬那は、日が暮れだすまで、ただそこに立ち尽くしていた。
■
「……それからすぐ、峰倉さんに頼んで、『仕事』の紹介をしてもらった」
沖田くんは無表情でそう言って、ようやく言葉を切った。
私の部屋はさっきまでとなにも変わらないのに、どこかよそよそしくなったように感じる。私と、沖田くんに対して。
「我ながら、あんまりかいつまんでなかったな」
「……どうして? 沖田くんが、そんな」
「本当、なんでって感じだよな。おれも混乱したまま決めたことだったから、人に納得してもらえるような論理的な説明は難しいんだけど。ただ、金は稼げると思った。実際そうだった。高校生じゃ考えられないほどの金を、親の目が届かないのをいいことに。そうして、生まれて初めて好きになった人の役に立てると思った。例のバスケ部の先輩の時とは比べ物にならないほど激しくて、生っぽい感情で、これが本当の初恋なんだって思った。だからどうしてもそうしたかった。……誤算は、いやってほどあったけど」
「……誤算?」
沖田くんが、かくりと首を折った。目元も、口元も隠れてしまう。でも、今どんな顔をしているのかは分かる。怒っているような、涙を流していないだけの泣き顔だと思う。
「心のどこかで、ハルキシはおれを止めると思ってたんだ。そんなことはするなって言ってくれるって期待してた。そういう甘えが確かにあった。おれの方を見てほしかったんだ。でもハルキシは、おれが売りを始めてすぐにそのことを知ったはずなのに、まるで知らない振りだった。だから、おれは余計に止まれなくなった。そこで止めたら、本当にただ構ってほしかっただけだって証明になる気がして」
自分の気持ちはもっと純粋なものなんだって信じたかったんだ、とひときわ小さい声を沖田くんが漏らした。
「それにおれの――男の体なんて、女と違って、売り物にしたって大したことないと思った。男なんておれと同類なわけだし、そもそもおれは男が好きな男だから、なんの問題もない。罪悪感も後悔も生じるはずがない。でも金だけは手に入る。こんなにおれに都合のいい『仕事』はないって、その時は本当に、そう……」
「沖田くん」
沖田くんは、がばりと首を上げた。
涙はない。でも、泣いている。
「知らなかったんだよ。なにも失くさないのに金だけはもらえる、そんな仕事をしてると、どんどん生きづらくなっていくだけだなんてことは。それでも見ない振りしてればよかった。気づかずにいればよかった。ミーはよかった、あいつは大事な友達だけど、おれを尊重して、必要以上にはおれの生活に踏み込んでこないから。でも、衿ノ宮は」
いきなり名前が出て、心臓が跳ねる。
「は、はいっ!?」
「衿ノ宮は、まっすぐにおれに付き合ってくれてる……仕事のことを知っても、おれがどんなやつでも。……思い出すんだ、衿ノ宮といると。ハルキシには一日でも早く目標を叶えてもらって、幸せになってほしい。それは今でも変わらない。でも、おれはあんなことをして金がほしいわけじゃないって、ずっと向き合わずにいた本当のことを、衿ノ宮といると……」
十数秒か、もう少し。
私と沖田くんは見つめ合った。
窓の外から、車の音が響いたり、近所の誰かの笑い声が聞こえる。
でも、それらはないのと同じだった。私たちが大切にしなくてはいけないものは、この部屋の中、私と沖田くんの間だけにあった。
「あの……今の沖田くんの話が、本当のことなんだよね?」
「ん? というと?」
「ハルキシさんが、沖田くんの家に誘われたって言ってたけど……」
私がかいつまんでハルキシさんから聞いた話を伝えると、沖田くんの目が次第に吊り上がっていった。
「んっだそれ! 嘘だ嘘嘘、信じないでくれよ! あの野郎、わざとなのか、虚言癖まであるんじゃねえだろなアル中! ……それはともかく、こんなことまで話すつもりじゃなかったんだけどな。おれ、衿ノ宮に気を許し過ぎだな。衿ノ宮も、言いたいことなんでも言ってくれよ。おれは、君のことは困らせたくないんだ。なんて、今さら、虫がいいんだけど」
私は赤面しながら首を横に振る。
「困ってなんて。でも、神くんはやっぱり偉大だよね」
沖田くんが小さく吹き出した。
「偉大ってのはどうだろうな。でも、なにくれと助けてくれてるのは本当だ。少しハルキシのことを冷静に見られるようになったのはミーのお陰だしな」
「なにかあったの?」
「あいつら、前に一度会ったことがあるんだよ。で、ミーには、『売りやってまで貢ごうとしてるのはあいつか。知っててお前を止めないんじゃろくでもないな』っていきなり看破されて」
凄い。
「それでおれも思わず、『もともと相手にはされてない。少しでも大事に思ってくれてたら、自分のための売りなんてやめさせるだろ』ってスネちゃってさ。そうしたらミーのやつ、『それは向こうもお前に依存してるんだ、そこまでして尽くそうとしてくれるガキに』って言ってきて。形としては相互依存なんだろう、と。それ聞いたら、ちょっと自分とハルキシのこと客観的に見られるようになって、しゃにむに仕事を入れようとは思わなくなったってのはある。前は、気持ちと立場の不安定さを払拭したくて仕事を入れまくってた時期もあったからな」
「凄いね、神くん……」と今度は口に出して呟く。
沖田くんが少し、体の重心を後ろへ傾けて言った。
「いや、衿ノ宮もかなり凄いぞ。おれ、女子にこんなに心許したの初めてだから。ミーだって驚いてたくらいだ。衿ノ宮の人柄なんだと思う」
「えっ? ひ、人柄?」
「親切っていうか、善人ていうか。八方美人とかとは違うぞ。見習いたいよ。おれが売りをやめようかって考え始めた直接のきっかけは、あの日、衿ノ宮に止められたからだからな。あれ、おれ、学校のクラスメイトとのつながりあったんだなって、はっきり意識したんだ」
いえ、そんな大層なものでは、全然ないんですが。
なんと答えていいか分からなくなっていたら、沖田くんが小さくあくびを嚙み殺すのが見えた。
「沖田くん、眠い?」
「ああ、ごめん。なんだろ。安心したからかな。言いたかったことほぼ言えたし」
「疲れた? 私のベッドでよかったら、少し寝る?」
沖田くんが珍しく狼狽した。
「いや、寝ないけど……。女子の部屋に来て、いきなり寝るやつってどうなんだよ……」
「具合悪い?」
「もともとあまり規則正しくない生活送ってるから、昼間にいきなり眠くなることがあるだけだ。ていうかあっさりベッドなんて貸したらだめだって」
「私も実は、沖田くんに話したいことがあって。沖田くんが休んでる間に、考えをまとめたいの」
「……じゃあ、十五分だけ。なんかおれ衿ノ宮と休日に会うと、寝てばかりじゃないか? 本気でおれに愛想つかさない?」
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