ハルキシ7
このまま帰りたくない。
私は、ハルキシさんが上がっていった階段を駆け上がり、地上に出た。
一言言ってやりたい。
夜の街を突っ切り、再び歌舞伎町に入る。
沖田くんが指定していたファストフード店はすぐに見つかった。
でもそのすぐ外で、沖田くんがハルキシさんに詰め寄っていた。
意気をくじかれて、私はつい傍らのビルに隠れた。今日、こんなことばかりしてるけど。
「ハルキシ、あれだけ言ってなんで無視できるんだお前」
「無視したんじゃねえよ。ちょっと遅れただけだろう」
どうやら、時間通りに来なかったハルキシさんを沖田くんがとがめているようだった。
「じゃ、それはいい。本題だ。しらふで答えろよ。なんでおれの学校のやつに、仕事の噂なんて流した? 好意的に受け取りようがないんだがな」
「ああ、あの女な。こんなところまできて売りやってる男子高校生探してるとかいうから、お前のことかと思ったら当たりだったな。……お前の仕事のことを教えた理由? 分からねえか?」
「全く分からん」
「瀬那、お前が足洗おうとしてるからだよ。この界隈から。だからあの下品な女に、本当のことを教えてやっただけだ」
沖田くんが、顔に疑問符を浮かべる。そして、
「……つまり? おれに、仕事を続けさせたいってことか?」
「そう」
「……なんでだよ? ハルキシ、なんでお前にそんな筋合いがある?」
「いいじゃないか。稼ぎもいいし、知り合いも増えただろう。瀬那は、一見の客が多い割りにリピーターは少ないが、人当たりいいからな。後輩たちにもずいぶん慕われてるようだしよ」
「おれは、この仕事におれたちの年代のやつらが増えるのが、いいことだとは思ってない」
「ほお。そんな仕事を、どうしてお前はやるんだ?」
沖田くんが言いよどんだ。遠目にも分かるくらい狼狽しているし、急に赤面している。
「……いいだろ、そんなのなんでも」
「言うんだ。瀬那。言えよ」
数歩踏み出したハルキシさんの胸が、沖田くんのそれに重なった。
「よせ、ハルキシ。お前なんのつも」
「こっちにこい」
ハルキシさんが沖田くんの腕を強く引き、どこかへ歩き出す。
私は慌てて体の角度を変えて隠れた。
沖田くんは、さっきハルキシさんの勤め先だといったお店の中に連れていかれた。
閉められたドアに近づいてみると、クローズドの看板がかかっている。
私はそのお店――店名のロゴは英文字が崩されていて、よく読めなかった――の壁づたいの路地に入り込んだ。
暗く、狭く、見通しの悪い奥の方から人が来そうで怖かったけど、そうせずにいられない。
給湯室があるのか、壁に小さな窓と換気扇がついていたので、そこに耳を寄せる。
沖田くんの声が聞こえてきた。
「ハルキシ、お前店開けなくていいのかよ」
「店なんて。瀬那、いい?」
いい? ってなにが?
「いきなりだな。だめに決まってんだろ。言っとくけどおれ、そんな気一ミリもないからな」
「でも、男なんてすぐその気になるよ。ほら」
衣擦れの音。
「瀬那、久し振りなんだ、こういうの? 分かるよ。ね……」
ハルキシさんの声の調子が、私と話していた時とは全然違う。上ずって、甘くなっている。
「なにが分かるよだ。おれがここのところ仕事してなかったの、知ってるだけだろ」
「ううん。射精自体、ここのところしてないよね。見れば分かるんだってば」
しゃ、……と声に出しそうになって、懸命に耐える。
沖田くんは否定しない。本当なんだろうか。
え、そういうのって分かるものなの?
男の人同士なら分かるの? 女子同士で、あの子調子悪そうかなって思っても、男子が全然分かってくれないみたいに? 同性だったら? そういうもの?
「……ほっとけよ。これはちょっと、思うところあってのことっていうか」
「……あの女?」
ややあって、衣擦れの音が止まった。
「ハルキシ。おれは中学くらいから、みんなが通う学校は、おれのいるところじゃないんだろうって思うようになってた。だからもっと広いところに行きたかったし、二丁目や歌舞伎町に来たら、そこではおれを受け入れてくれる人がたくさんいた。世間の目はともかく、凄く出会いに恵まれていたと思う。……でも今は、学校におれの居場所があるんだ」
「学校。……冗談でしょ?」
「居心地がいいんだよ。衿ノ宮もそうだし、ミーもそうだ。隣にいると楽しい。おれは別に、今まで仕事でつき合いのあったやつらと縁を切りたいわけじゃない。ただ、いてもいいと思えるところが増えただけなんだ。それを守るために、やめるべきことをやめようとしてる。……だから信じられないよ、ハルキシが、おれの新しい居場所を……」
ぽつりぽつりと続く沖田くんの言葉を、ハルキシさんの、強い口調が遮った。
「なら、早く質問に答えろよ。元々はどうしてあの仕事を始めた? なんのために?」
今までどこか甘えるような響きのあったのとはがらりと変わって、低く唸るような声。
さっきの犬歯を思い出して、私は思わず首筋を抑えた。
「……意地悪だな」
「今更だね」
そして沖田くんの声は、観念したように、低くなった。
「ああ、分かった。そうだよ。ハルキシ、お前の手術代を、おれが払おうって思ったんだよ。普通のバイトじゃ何年かかるか分からないし、受けることが決まってるなら、一年でも若い方がいいんだろ? 全額じゃなくても、何割かだけでもよかった。それでも、おれが払いたいくらいだってただ思ってるのと、本当に相応の額を差し出すのとでずいぶん違うだろう。……ハルキシのためならって、決めたんだよ」
……手術代?
「あっはっはあ。いやあ、嬉しくって泣けちゃうな。それで、瀬那は自分の体を犠牲にしたんだ、病気でもない体に、穴開けるために手術のために」
「そんな風には思ってない、そんな言い方はやめろ。……病気じゃなくたって、自分に必要なら、手術でも受ければいいし薬も飲めばいいだろ」
これは――
「飲むよ。飲むだけじゃなく、注射も打つよ。おかげで年中体調不良だよ。それで店休めばサボってるだの気まぐれだの、お前らもやってみろってんだ、くそ……」
――これはもしかして、私が勝手に盗み聞きしちゃいけない話なんじゃ……
「ハルキシ」
「触るな! ……でも、そっか。そんなに
ハルキシさんの声から、どんどん険がとれていく。
まるで、小さい女の子のような甘えまで混じってきた。
「言っただろ。衿ノ宮はそんなんじゃない」
粘ついた、くぐもった声が断続的に聞こえた。ややあってから、それがハルキシさんの含み笑いだと気づく。
「結局瀬那はノンケなんだろ? 悪かったなあ、つき合わせて。しんどかったよね、あんな仕事。お客おっさんばっかだもんな。色恋は使ったか? 使ったんだろうなあ。でも瀬那がやりたいって言うからさあ」
「ハルキシ、おれは必要なもののために必要なことを」
「理屈言うなら死ね! 利口なことしゃべんじゃねえ!」
バン、と音がした。
ハルキシさんが、壁かテーブルでも叩いたんだろう。
戻ろう。そう思って、身じろぎした。でも、緊張で体を強張らせていたせいで、うまく手足が動かない。
静かに、静かに……
「おい? なんだハルキシ、どこ行く?」
「ちょっと待ってて。渡したいものがあるから」
そう言ったハルキシさんの気配が遠ざかっていく。
チャンスだ。
静かに歩を進めて、あと少しで通りに出そうになった時。
「ほらいたあ」
と後ろから聞こえた。
「ひっ!?」
そこには、ハルキシさんが立っていた。
「そこに裏口があってね。ここ、瓶の破片やらゴミやらで、足音が響くんだよ。なんか人の気配がするなあ、まあお前かなあと思ってたら、案の定だ」
「ご、……ごめんなさ……」
「ああ、ムカつく、本当に腹立つなお前。なにをどうしたらこんなにムカつく人間が出来上がるんだ。……こっち来い」
言われるがままに、私は裏口から、お店の中に入っていった。
やっぱり、沖田くんたちが話していたのは給湯室だった。三人も入れば窮屈になってしまう程度の広さで、申し訳程度のガス台と流しの横に、古いポットが置かれていた。
「衿ノ宮!? 帰ってなかったのか!」
「ご、ごめんなさい……」
「いやあ、全部聞かれちゃったねえ。じゃあ分かったろ、
ハルキシさんが、後ろから私の両肩に手を置いた。
私たちの正面に沖田くんがいる。
肩を包む指は細長いのに、私よりもずっと力が強そうで、今にも首を絞められてしまうような気がして、ぞくりとした。
「そんな、……こと」
「瀬那は心が広いよねえ。ノンケなのに、頭が女なら、体が男のやつにでも貢いでくれるんだってさ。こういうのもフェミニストか?」
「おい、だからおれはノンケだなんて一言も言ってないし、そもそ」
「その上、仕事ならただの男が相手でもいいと。あれ、これノンケか? そうしたら、やれないのは身も心も女のやつだけかあ! クソガキ、お前やってもらえないなあ、あはははは!」
「ハルキシ!」
「女かばってあたしの名前呼ぶなクソが! で、どうだよ、頭は冷えたのか!? こんなあたしのために尽くしてやるのがばかばかしいってやっと気づいたのかよ!」
すぐ耳元で、ハルキシさんの声が弾ける。
狭い空間の中で、空気の震えとは別のものが私の頭蓋骨を揺さぶってくるようで、くらくらする。
「そうじゃない。おれは後悔なんてしてないからな。……ただ、けじめをつけたいんだ。おれは、今までの稼ぎを全部お前に渡したいと思ってる。普通のバイトでよければ、それで稼いだ金も渡す。……それこそ冷静に考えれば、そんな金をはいそうですかって受け取ってもらえるとは限らないのにな」
「あははあ。手切れ金か」
「違うだろ」
「いやあ、そうかあ……ははは……」
力なく漏らした笑い声とともに、肩に置かれたハルキシさんの手から、力がかくんと抜けた。
そして、
「瀬那も――」
「……ハルキシ。衿ノ宮をこっちによこせ」
肩が強く握りしめられた。痛いほどに。
「――瀬那も、あたしのこと、嫌いになっちゃった……?」
言い終わったと同時に、肩から手の感触が消えた。
沖田くんが踏み込んできて、私の手をつかんで引く。
「あっ!?」
「来い、衿ノ宮」
沖田くんの腕の中で、私は体を半回転させて、後ろを見た。
ハルキシさんが、左手を伸ばし、流しの下から包丁を取り出していた。
その時、青白い手首から肘の内側辺りまで、ハルキシさんの素肌が見えて、足がすくんだ。横に十数本、縦にも三本ほど、赤黒く盛り上がった傷跡がひきつれながら走っていた。
「帰れ」
「ハルキシ。それがお前の本音なんだな?」
「こうなるって分かってたから会わなかった」
「それでも、また来る。……お前はおれにとって、特別すぎるからな」
「言っておくよ、瀬那。その女は、今まで周りにいなかった、変わり種の男が珍しくて舞い上がってるだけだよ。ほかにもっと構いがいのあるやつが出てくればそっちに行く。お前は女とは合わない。傷つくのはお前だ」
「な……」
反論しようとした私を、沖田くんが手で制す。
「今おれをおもちゃにしてるのはお前だろ、ハルキシ。おれたちが消えるまで、もうしゃべるな。お互いのために」
そうして私たちは、お店を後にした。
速足で、まっすぐに駅へ向かう。
「衿ノ宮、本気でごめん。怖かったよな」
「ちょっと……いや、最後はかなり……。でも、戻ってきた私が悪いから。でも、知らなかった。そうなんだ、沖田くん、あの人のために……」
ぴた、と沖田くんが足を止めた。
人波が私たちを置いて通り過ぎて行った。なんのお店だか今一つ分からないゴリラの看板が、私たちを見下ろしている。
「そうだな。衿ノ宮には、近いうちにちゃんと話すよ。あいつのことも、おれのことも」
「マジか。そいつは進歩だな」
いきなり声をかけられて、私と沖田くんは飛び上がった。
「じ、神くん!?」
「ミー、お前もまだいたのかよ!」
「戻ってみたらお前らが待ち合わせ場所にしてた店にいないからだろーが! ハルキシがこねえから辺りを見て回って戻ったら、瀬那まで店から消えやがって!」
「ああ。……悪かった。なんていうか、成り行きで」
沖田くんの表情は、きまり悪げだったけど、口元が緩んでいる。
私や神くんの隣は、居心地がいい。楽しい。そう沖田くんは言ってくれた。
「ていうか遅くなったな。衿ノ宮、早く帰ろう。親御さんに連絡したか?」
「う、うん。電話する。……その前に、沖田くん」
私は沖田くんの耳元に寄った。神くんが、内緒話だと察して離れてくれる。
「私が、沖田くんに、その……入れあげてるとか、なんとか」
「ああ。ハルキシの言ってた寝言な。安心してくれ、真に受けやしないから」
……うん。
「衿ノ宮こそ、また聞きたくもないこと聞かされて不愉快だったろ? 本当にデリカシーないんだ、おれたち」
……ハルキシさんがあんな言い方したのは、デリカシーとは別の問題だと思う。
その辺りを、沖田くんとはちゃんと話をすべきなんだろう。
夏休みは、もうすぐ八月に入る。
残り、約一ヶ月。
そう短い時間ではないはずだ。
なにかを、良い方に変えるには。
私にも、なにかができる。今はそう思える。
だって今の沖田くんの横顔は、自分の体を売ってまで尽くそうとした人に会った後とは思えないくらいに、切なそうだった。
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