第1話
暑いばかりで何もない夏だ。
海や歓楽街に行く約束もなく、激務と貧困で実家にすら帰れず、たまに外食すれば「レバニラ炒めのニラを切らしている」などと言われて食欲を削がれ、「そんな時こそ真摯に作品と向き合うのだ」と原稿用紙の前に対峙してみても、筆は遅遅として進まず、貴重な休日が惰性のうちに終わってしまう。ちっとも休息にならないくらいだったら、「たっちゃんねる」でも観ながらサンガリアの安いチューハイでも飲んで、午睡でもしていればよかったのだ。全く時間の使い方が絶望的に下手すぎる。
まぁ、歯車が噛み合わないのも運命がいつも皮肉屋であることにも慣れている。
僕は、不運に涙し、嘆きながらも平気で唐揚げ定食を小鉢におひたしと塩辛を付けてごはん特盛で平らげられる類の人間だ。これでも思春期の頃は一応、繊細さや脆弱さや豊かな感受性を持ち合わせていたものだが、怜悧な諦観とふてぶてしさを身につけなければ、自裁しかねないような風雨と闇からの剣と望まないさよならばかりが主役であり続けた人生だった。運がない、ツキがないで一々、べそをかいて下を向いていたらブスリとやられてしまう。
冒頭の詩が何かって?
要は、職業と居住地は違っても、二十年前も僕はくだらない人間だったというだけのことだ。二十年前にくだらなかった奴が突然変異で善人や偉人や哲人になれるわけもない。博奕やトレーディングの才能が開花するわけでもない。僕の武器と言えば、相も変わらず、ささやかなる文才だけだ。
それすらちっとも生活の足しになりはしない。
偶に書かされる不本意なエッセーで得た原稿料などは売血をしたような惨めな気分になり、有難いとすら思えず、それを貯蓄であるとか、起業や資格を取るための元手にしようなどとは思えず、蒲田の「信濃路」で正体がなくなるまでどて焼きをつまみにウーロンハイを呷り、報われない一切の残骸を呪詛に込め、千鳥足でよろよろと本蒲田公園の植え込みに胃液の混じった黄色い反吐をぶちまける。
運とタイミングだけでのし上がった同年代の港区民から見たら、僕は「人生の落伍者」であり、「負け犬」だろう。そういう不機嫌で態度の悪い連中に下に見られ、触ることも拒否されながらながら、卑屈な笑顔を浮かべて働くのは不快極まりないし、僕は前世で人をものとして扱い、搾取し、気に入らなければ死に追いやったのか、というくらいに非人道的な扱いを受けている。「業火」から逃れる為の死なんてとっくの昔に考えたが、僕の死を悼んでくれる人間の少なさに絶望して、それも取りやめた。何を言われても何をされても薄笑いを浮かべて生きていれば「こいつまだ生きていたのか」と件の連中に気持ち悪がられ、厭な想いをさせるくらいのことはできる。
生きる価値なんてその程度のものだ。
人を救うにも金と智慧と多少の極論を言っても恨まれない人徳が必要だ。僕にはそのいずれもがない。年老いた両親に安心や喜びを齎せる器量もない。嘘で笑ったり、頭を下げることもできないのだから、「誰もわかってくれない」と涙を流すのは筋違いだ。そもそもが愛される要素が何一つないのだから、孤独のうちに死んでいくのが筋であることは頭では理解している。
だからこそ、理不尽や試練は少ないほうが望ましい。幸福の絶対量が少ないのなら、不幸の絶対量も少なくあるべきだ。
だけど、世の中、口が巧く、ビジネスセンスと自己アピールに長けた軽薄な人間ばかりが我が世の春で、信じた道を真っ直ぐに歩けば歩くほど厭な目に遭わされる。頭のいい人間ならば、早い段階で日和見の風と空気を読みスイスイと世間を泳ぐ一山いくらの人間に抵抗なくなっているだろう。僕は相変わらず、莫迦だし、そんなものにはなりたくないのだから仕方がない。
「はぁ。売れたいなぁ」
変わる気もなければ、運命を変えてしまうほどの文才もない。仮に変えてしまうことができるのだとしても、きっと、立ち振る舞いもルールも理解できず、気まずい思いをして、目を泳がせ、助けを求めながら立ち尽くすことしかできないだろう。
だからこそ、その淋しい言葉は壁にぶち当たり、血を流している。
まるで僕の分身であるかのように血を流している。
そして、何もできずに、やっとの思いでたどり着けた休日が遠回りと手違いと無為で終わってゆく。
きっと人生もそんなふうに落日を迎えるのだろう。
暑い国でのあの愛しき日々もまるでなかったかのように。
だからと言って、あの暑い国での日々が幸せだったのか?と言えば、それは違う。
幸せならば今でもその暑い国に住み続けているはずだ。
渇望無限。
それは永遠に死ぬまで満たされることはない。
暑い国で生まれた歌 野田詠月 @boggie999
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