第37話 ふたりきり
「おまたせ」
たっぷりと言って差し支えないほどに時間が経って、南瀬がお風呂から戻ってくる。
「お、おう」
中央の小テーブルの近くでクッションに座る俺は、未だにドキドキがおさまらない鼓動をさらに早くしながらも軽く手を挙げて迎える。
「どうしたの?」
「え?」
南瀬は床に膝をつくと、上体を倒してこちらへ身体を寄せる。透き通るような瞳が覗き込んできた。
「緊張してる?」
風呂上がりでほのかに色づいた肌。ラフな部屋着の隙間から零れる胸の谷間や肉付きのいい太ももにはつぅと汗が伝う。塗れた黒髪からは甘いシャンプーの香りがした。艶かしい女性の魅力が溢れている。
「大丈夫よ、安心して」
綺麗に整った顔が近づいてくる。
「責任……取ってもらうだけだもの」
「……っ」
ニコッと穏やかな微笑み。
瞳が捉えるのは、俺の唇だ。そこへゆっくりと南瀬の唇が近づいてくる。
他に物音一つない静かな部屋の中では、ザーザーと雨音だけが響いていた。
「――――拓真」
雰囲気に呑まれてしまったかのように俺の身体は動かない。ただ受け身で、受け入れる態勢だけが整っていた。拒もうとも抵抗しようとも思えなかった。
(本当にそれでいいのか?)
心の中でそう唱えたのは、誰だったのだろう。わからない。
「んむっ!?」
次の瞬間、俺の唇は塞がれる。
甘く濃厚に口内を満たしていく。
脳が急激に活性化して、目が覚めていくかのようだった。
「……どう? おいしい」
「……ああ、美味い」
南瀬によって口に頬り込まれたチョコレートを飲み込んで答える。
本当に甘い。甘くて、ちょっぴり苦いような気もした。
「それじゃあお勉強しましょうか」
「え?」
「なにお口をあんぐりさせているの? 初めからそのつもりでしょう?」
「あ、お、おう。え? いや、そうなんだけどさ……?」
おかしい。俺は最初からずっとそのつもりだったはずなのに……?
南瀬の家に招待されたそのときから、別の何かを期待してしまっていたのかもしれない。
「私をあーんなに嬉しくさせてくれた責任、とってもらうんだから。今夜は寝かせないんだからね……♪」
そう言って素直な笑顔を浮かべる彼女は俺のような精神的童貞が勘違いしても仕方ないくらいには魅力的で、可愛かった。
「雨、止まないな……」
「そうね」
集中して勉強しているとあっという間に数時間が経過して、陽はとっくに沈んでいた。
雨は依然として降り続き、風も強くなってきて嵐の様相を呈している。
とてもじゃないが帰れる状況じゃない。
「ごめんな、ほんとに」
「いいわよべつに。どうせ私は一人だし」
南瀬からの提案もあって、今夜は泊めてもらうことになっていた。
すでに南瀬お手製の夕飯まで頂いている。以前もらったサンドウィッチの時も思ったが、料理はお手の物のようで非常に美味しかった。
「ご両親は帰らないんだよな?」
「ふたりとも仕事が大事なのよ。今日は元から帰らないようだったけど、この嵐なら喜んで泊まりこみね」
「そうなのか……」
月城家も両親はいつも仕事で忙しくしているような人たちだ。しかしその中でも子どもたちをしっかりと愛してくれているのがわかる。
前世で親不孝だった俺には勿体ないような良い人たちだ。
「冷たい人たちなのよ。私と、同じで」
そう語る南瀬の表情はひどく悲しそうに見えた。
「そんなことないだろ」
俺は思わず強い口調で口を挟む。
南瀬ははっと驚くように瞳を見開いた。
「いや、ご両親のことは知らないけど。南瀬は冷たくない。温かくて、優しいよ。すごく優しい。そりゃあまあ風紀委員長として学生に煙たがられてるところはあるだろうけれど、そんなふうに人が嫌がるような仕事を進んでできるのは南瀬が本当に優しい人だからだ」
ボランティアだってそう。
義務感で続けられることじゃない。
それをする人たちの心には必ず、温かくて優しいものが宿っているはずなのだ。
「俺はそんな南瀬のことが好きだ」
「なっ」
南瀬はぶわっと顔を赤くする。
「あ、なたは……また……!!」
だんとテーブルを叩いてこちらを睨みつける。その瞳は大粒の涙が溜まって潤んでいた。
「どうしてそんなに、私を嬉しくさせることばなり言うの……!? どれだけナンパなの!? あなたがそんなだから私はいつもいつも勘違いして……!! 〜〜〜〜〜〜っ。バカ! バカバカバカ!」
「え? ちょ、南瀬!? どこ行くんだ!?」
「ト・イ・レ・よ! ヘンタイ!」
南瀬は逃げるように部屋を出て行った。
「……ぜんぶ本心なんだがなぁ」
どうにも彼女には上手く気持ちが伝わらない。結局、怒らせてばかりなのだった。
「ねぇあなた、いい加減に進路は決めたの?」
トイレから戻って来てからというもの勉強を再開しても紅潮したまま黙りこくっていた南瀬がやっと口を開いてくれる。
「進路? まだ決めてないよ。そっちは大学だよな?」
「ええ。もちろん」
せっかくだから話を広めたいと思ったのだが、俺は大学に詳しくないので話題が見つからない。
不機嫌な南瀬もまた、黙ってしまうかに思われた。
「…………私と一緒のところに来なさいよ」
しかし小さく呟く。顔を背けて、素っ気なく、指でシャーペンを転がしながら。
「え……それって、大学か?」
「そう」
「……相当偏差値高いだろ。南瀬が受けるとこ」
「そうだけど……でも、大丈夫よ」
「いやいや、大丈夫ってそんな他人事な……」
俺は平均を大きく下回る低スペック学生だぞ?
努力なんてろくにしたこともない。
そんな俺が南瀬と同じ大学に行くなんて……。
「私が勉強教えてあげる」
「え……」
「私が教えてあげるから、これからも一緒に勉強しましょう?」
「でも、それは南瀬の負担に……」
言いかけた俺の手を南瀬は包み込むように握る。
「私と勉強するの、好きなんでしょう。私も、その……拓真と勉強するのはス、……ス、嫌いじゃない、から。だから、最後までお世話してあげてもいいわよ……」
たとたどしく紡がれていく言葉は、それが偽りのないものであることをありありと教えてくれる。
「どう……? 拓真はもう私と勉強したくない……?」
「南瀬……」
俺は包まれた手の上から、その手を片手で包み返す。
「ありがとう。俺も南瀬ともっと勉強したいと思う。だけど、進路についてはもう少し考える時間がほしい」
「……わかった」
南瀬はしぶしぶと頷いてくれる。
大学受験は、大きな人生の岐路のひとつだ。簡単に決められることじゃない。
生半可な気持ちで返事をしても、南瀬に迷惑をかけてしまうかもしれない。
そして、俺がどこまでやれるのか。
それを試すチャンスはすぐそこにあった。
「頭をこっちに寄越しなさい」
「え?」
「いいから」
「お、おう……」
仕方なく上体を傾ける。
すると、頂点に南瀬の掌が乗った。ゆっくり、優しく撫でてくれる。
「私と勉強するなら、また、何回でも撫でてあげる。褒めてあげる。温かく、優しく。だから、ね……?」
南瀬は自身をアピールするかのように、控えめに囁いた。
そしていよいよ、期末テストが始まる。
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