かくして彼は彼女となる

ハズミネメグル

第1話

「今日で、終わりです」


「縁起でもないな。薫」


 サナトリウムの病室の中で、薫がポツリと呟く。外は霙が煌めいて、妙に明るいのだ。


「分かるんですよ。シロさん。自分の体のことですから」


「そっか。しかし、おかしいよな。あれだけ神秘を明かして、時代をどんどん変えてきたってのに、労咳一つ治すことができやしない」


「四百年近く生きてきたシロさんからすれば、人間ってちょくちょく色んなことできるようになっているように見えますけど、人一人の命って儚いんですよ。


 沢山の人が間に合わなくって泣いて、それを誰かが継いで、間に合わず泣いてを繰り返して果たしてきたものなんですよ」


「四百年も生きてねぇよ。まだ三百六十五年だ。凄い執念だな。だが、誰か意思を引き継いでくれる人ってのは、幸せなのかも知れないな」


「四捨五入して四百年だからそんなに間違っていませんよ。三桁生きている人なら下二桁は誤差でしょう。誤差」


「まぁ、確かに」


 窓枠に座り、俺は外を眺める。


 何年経とうが親しく言葉を交わした人間との別れは胸をつくものがある。特に、ごっこ遊び紛いのものとはいえ、『家族』をしていた人間とは。


「薫」


「何です?」


「俺は、上手くお前の家族をやれていたか? 愛情というものが俺にはよくわからん」


 若くして寺に入れられた俺は、どうも家族というものがわからなかった。


 父は働いて家に金子やら生きていくために必要なものを入れ、母は家で仕事をして子を養うものだと知識にはある。


 だが、それを全て完璧に全うしたとは思えない。


 かと言って、俺は良き兄でもなかっただろうし、夫でもなかっただろう。なんとなく、そう思うのだ。


「……シロさん、変ですね」


「何を笑っている」


「私は、感謝しかないんですよ。母さんが流行り病で亡くなって一人になった私の無茶なお願いを聞いてくれただけでも嬉しいのに――ちゃんとできていたかを気にする。


 テキトーにやっておけばいいや、って思う人からその言葉は出てこないんです。誰かのために、真剣になってくれていたから、ちゃんとできていたかを気にするんでしょ」


 二十年前、一人で俺が屋根を借りていた祠の前でグシャグシャになって、親が欲しい、家族がほしいと請うて泣いていた子供と同一人物とは思えない程、大人びた口調だった。


「人はそれを、愛情と呼ぶんですよ」


「そうか。また一つ賢くなった」


「形見に一つ取っておいてくださいな」


「縁起でもない」


 薫が死を仄めかす発言をする度、縁起でもないと窘めてきたが何となく分かる。


 労咳で死ぬ人間など、薫だけではなかった。沢山、沢山見てきたのだ。その例外に漏れず頭の中では警鐘を鳴らしている。


 薫は、今日、死ぬのだと。


 意を決して、振り返る。薫は痩せ細っていた。


 傍らに座ると鉄錆とアルコールが混じったような匂いがする。


「夜明けまで後何時間くらいです?」


「時計ないからわからないな、月の高さから見て、後六時間くらいだろ」


「明日の夜明けを見れるんですかね。私」


「んなこたぁ、神様しかわかんないだろうよ」


「普通の人からするとシロさんも十分神様みたいなものだから、聞いているんですよ」


「そりゃあ残念ながら、少し長生きでちょっと不思議な力を使えるだけの男なもんでな」


「普通の人の四倍は生きているんじゃないですか」


「違いねぇけどさ」


 二人でそっと窓の外を眺める。


 医者も看護婦も、最期の時間と悟っているのか、邪魔する者は誰もいない。月はまだまだ天高いままで水平線とは離れている。


 夜が明けるまではどうも、持ちそうにないと、俺は唇を噛みしめる。


 こほっと咳き込む音がする。ああ、何でなんだろなぁ。薫はまだまだ若いと言うのに。何で俺ばっかりが遺されて、薫は逝ってしまうのだろうな。


「薫」


「なんです? シロさん」


「眼を閉じろ」


「嫌です」


「何でまた」


「寝たら眼が覚めない気がするんです」


「良いから眼を閉じろ。眠れとは言わねぇ。秒で済ます」


 薫は何かものを言いたげな顔だったが、俺がじーっと見つめると、どこか気恥ずかしくなったのか、眼を閉じる。


 俺は、その薫の口にゆっくりと吸い付いた。


 


 願わくば、薫に飽きるほど長いこの命を与えたいが、俺は神じゃない。どうにもそれは叶いそうにない。


 ならば、薫に巣食うその死を分けてもらおうか。三百六十五年も生きたんだ。此処でその人生を終わりにするのも悪くはない。




 薫の肩がビクッと震えて、そして俺を押し退ける。口と口が離れ、薫が俺に怒鳴りつける。


「な、何を考えているんですかっ! 労咳なんですよ!? シロさんに感染ってしまったら――」


「別に問題なんかねぇよ。お前となら、死んでやってもいいと思ったまでだ。それに三百六十五年くらい生きているんだ。労咳の一つや二つ食いつくせるんじゃないかと思ってな」


「思いつきで実行に移さないでください! シロさん子供ですか!」


「残念ながら成人しているんだな。これが」


 そんな冗談を漏らすと、薫は泣きそうな顔で俺を見ていた。


「シロさん」


「何だ?」


「死にたくないです」


「うん」


「シロさんにも死んでほしくないです」


「そっか」


「二人で、生きてみたかったです」


 月はまだ、高い。夜明けははるか遠くだ。


「奇遇だな。俺もだ」


 それが彼女に送った最期の言葉になった。




 眼が覚めると、薫は眠っていた。


 息もしていなかった。体は少しだけ軽くなり、雪かと思うほど冷たくなっていた。


 そっと、俺はベッドに横たわらせ、彼女の手を合わせてやる。


 時間がくれば、検温のために看護婦がやってくるだろう。後は、全部うまくやってくれる。此処の医者も看護婦も皆いい仕事をする。


 後は、最期の治療費の振り込みを済ませねばとそこを立ち去ろうとした時に、ふと姿見が目に入る。


 そこに写っていたのは真っ白な髪に青い瞳。見慣れた俺の色。だが、そこに移る顔立ちは細い眼ではなく大きなくりっとした硝子玉のように丸い目。どこか子供のような顔の女性だった。


 薫だった。


 俺の色をした薫がそこにいた。


「シロさん」


 薫を真似て、俺はかつて彼女が呼んだ俺の名で鏡像に向かって呼びかける。


 音の出し方は違うが、確かに薫の声だった。


「全く、きっとこうやって一緒になりたくはなかっただろうに……」


 きっとこんな三百以上年とってもガキのような俺とは一体になどなりたくはなかっただろう。


 だが、悪くはない。


 姿見に手を当てる。ひんやりと冷たいが、向こう側に愛しい彼女がいた。


 俺は、いや、私は――薫だ。

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