§016 スノー・ドロップ

 ――サマルトリアの艦隊が沈む1時間ほど前のこと。


 私とウィズはマリングラードの西方に位置するレイムヤブルム山の中腹にいた。


 レイムヤブルム山は標高約1500メートルの岩山で麓付近は多少なだらかではあるが、中腹付近まで来るとあるのは、人の立ち入りを拒むかのように切り立った岩壁と視界を遮る鬱蒼とした木。

 頂上付近はもはや断崖絶壁で、この世界の科学技術では、この山を越えようという者はまず現れないだろう。


 そんな私達がなぜレイムヤブルム山の中腹にいるかというと……。


『ウィズ~。ちょっと単眼境であっちを見たいんだけど』


「こうでしょうか?」


 私の指示を聞いたウィズが私の目のところに単眼境を翳してくれる。

 道具を持つことができない私でも、このようにウィズにお願いすれば使える方法もあるのだ。


『そうそう。うん。バッチリ見えるね。やっぱり単眼境を前もって作っておいて正解だった。これならが近付いてきてもバッチリわかるよ』


 私はウィズに向けて親指をグッと立ててウインクしてみせる。


「クルミのいた世界の科学技術はすごいのですね。光の屈折と反射を利用して遠くを見るなんてこの世界の常識では考えられないことでした」


『別に私が考えたわけじゃないよ。それに、それを言うなら、原理を説明しただけでそれを再現できちゃうウィズの方がすごいと思うけどね。っと……そうこうしているうちに敵さんがお出ましみたいだよ』


 私が雄大に広がるアゼル―湾に目を向けると、ウィズも自身の目に単眼境を押し当てて水平線を見つめる。


「巨大ガレオン船が1、2、3……10隻。クルミの予想通りですね」


『当然。むしろこれは予想ではなく必然なんだから外れてもらっちゃ困るよね。でも、これなら予定どおりウィズの私兵だけで対応できそうだね。それじゃ、こっちも予定通りに行こうか』


「はい」


 ウィズはそうして静かに頷くと、居住まいを正して、瞑目する。

 そして、短い詠唱とともに、魔法名を唱える。


「――静謐なる雪の涙スノー・ドロップ――」


 同時に、ウィズの周りを魔力が包み込み、白く染まった冷気が、地を這うように流れ出す。

 気温はみるみるうちに低下し、草木にも霜が積もり出す。


 予行練習は何回もしていた。

 しかし、練習は練習。

 私もフル出力のウィズの魔法を見るのは、このときが初めてだった。


 そして、私は思わず呟いてしまった。


『……どこが生活魔法なのよ。この力があれば鬼に金棒じゃない』


 しかし、ウィズは集中モードに入っているためか、私の声は聞こえていないようだ。

 祈るように手を組んだウィズから魔法が放たれること数分。


 ウィズがゆっくりと瞳を開けた。


「クルミ。これで本当にを起こせるのでしょうか?」


 私は頑張ったウィズを讃えるように満面の笑みを浮かべると、大いに頷いてみせる。


『完璧だよ。私もウィズも計算したんだから絶対風は起こせる。だから、あとは見守ろう。戦場の行く末を』


 サマルトリアは艦隊を率いて陸との挟撃を謀ってくる。

 この対処法として、私が真っ先に思い付いたのは――かの有名な「赤壁の戦い」だった。


 赤壁の戦いでは、諸葛孔明が奇跡ともいわれる「東南の風」を起こして、火攻めに成功したことにより、約五万の孫劉連合軍が、約八万の曹操軍を打ち破ったという歴史的な一戦だ。


 ただ、この伝説とも呼べる「東南の風」は、史実によると、吹いたものであるらしい。

 もちろん諸葛孔明は、戦場となった地域の冬至の時期には、一時的にそのような風が吹くことは理解していたようであるが、それが人為的でない限りは偶然であることに変わりはない。


 そこで私は考えた。

 風が吹く確証がないのであれば、のだと。


 幸いにもウィズは氷魔法を使うことができた。

 私はそこに目を付けたのだ。


 ここからはちょっと難しい話なので、興味が無い人は聞き流してもらってOKなのだが、風というものは、気圧の高い方から気圧の低い方に流れる性質を持っている。

 つまり、冷たい空気から温かい空気の方に流れる性質を持っているということだ。

 そして、陸は熱しやすく冷めやすい性質を持ち、水は熱しにくくさめにくい性質を持つ。


 今、季節は夏。

 ということは、陸は熱くなっているが、相対的に海は冷たくなっていることになる。

 このような状態の時には、海から陸への「海風」が吹くことになるのだ。


 では、その熱せられた陸を急激に冷やしたらどうなるか?


 ここまで話せば、もう説明は不要だろう。


 つまり、ウィズの氷魔法により急激に冷やされた山から、気圧の変化によって、陸から海へと流れる強烈な「陸風」が発生するのだ。


 この風は、サマルトリアに取っては向かい風、我々エディンビアラにとっては追い風となる。


 そう。私は人為的に『赤壁の戦い』と同じ状況を作り出すことにしたのだ。

 これは魔法のあるこの世界だからこそ実現できたと言えるものだった。


 そんな小難しいことを考えている頃合い――ドォーっと激しい風がレイムヤブルム山を吹き抜けた。




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