第2章 ビースト・マスト・ダイ

第16話 人外魔境

 灰色に染まった街は、獣とすえたごみの臭いで煮詰まっていた。階段状に並んだ砂壁の住居が所狭しと立ち並び、その陰に野風やふうたちがうずくまったままこちらを生気の無い目で睨む。酒に酔ったような陰気な叫び声が数軒先から聞こえてくる他は、森閑として空気が重く濁っている。城下大貧民街……、またの名を人外魔境スラム・フライデー

「……馬もそろそろ限界だな」

 蔵の後ろに座るアテネとボアに確認した。焼き討ちされた森から逃げだして来た「馬」——カミラタが監獄からの移動に使った騎馬だ——を偶然捕まえ、数時間走らせてきたが……、負傷した馬の体力は底をつきかけていた。

「もう少し……、ここはまだスラムの東部です。我らの本拠地は中央教区……」

 ボアはそのまま意識を失った。アテネも返事をしない。電撃を浴びてなお気力だけで持たせてきたが、彼らもとっくに精魂尽き果てている。それは俺も同様だった。

 「馬」は四つの眼をしばたたかせ、弱々しく嘶いた。黒蜥蜴のような鱗の上を、俺は滑り落ちた。




「お客さん、宅はどちら?」

 揺すぶられる感覚があって、俺は目を覚ました。顎には鱗ではなく毛皮の感触がある。絞られた肉体をその下に感じた。

 俺は身を起こす。赤毛の野風の横顔が目の前にある。……アテネとボアを軽々と両脇に抱えたまま、その猿は俺を背におぶっていた。

「おっ、やっと目ェ覚ましたな」

 赤毛の野風は声を高くして反応した。多分俺と同年代くらいだろう、顔つきは若々しく、額に抹茶色の手拭いを巻いている。

「何回か呼びかけたんだけどよぉ。泥みたいに眠ってるから、運ぶのも一苦労だったぜ」

「……すまないな。あんたは、御者か何かか?」

「御者?」

「ああ、客って言ってたから……」

 手拭いは快活に笑う。「そりゃただの冗談よ。金はとらねえから安心しな」

「そいつは有難い。でも、何かお礼はするよ」

「良いってことよ」

 手拭いは平然と答える。

「しかし貧民窟スラムのど真ん中でお昼寝たぁ、大した度胸だな。追剥にでも遭ったか?」

「……少し警備隊と、喧嘩してな」

「そいつは豪気だ」

 手拭いが愉快そうに笑みを浮かべる。「だがこの街で無防備は感心しねぇぜ。この東面は比較的穏やかな土地だが……、最近は疫病とゴブリン騒ぎでどうも不穏当だ。最初に見つけたのが俺でツイてたな」

ゴブリン?」

「緑衣のグリーン・ゴブリン。巷を賑わすヒト攫いだ。あんたも通り名くらい聞いたことあるだろ?」

「……ああ」そういえば、幾度か耳にした名だった。

「このごろ、城下中の町という町、家という家じゃ、ふたり以上の人が顔をあわせさえすりゃあ、まるでお天気の挨拶でもするみてぇに緑衣のグリーン・ゴブリンの噂をしてやがる」

「そいつは大した怪人だ」

怪猿えんかもしれねえぜ」

 手拭いが肩をすくめる。

「ところであんた、この辺じゃ見ない顔だが、ねぐらはどこにある?」

「新入りなもんでね。中央教区のとある番地に向かってほしい」

「……中央?」

 手拭いの醸す空気が僅かに変わった。

「ああ。行き方は聞いてあるんだが……、まずかったかな」

 そう言えば俺たちが行き倒れたのは東部だ。ということはこの手拭いの男も、東面の住人かもしれなかった。

「……いいや。各面の横断は自由だ。通りすがったくらいで因縁はつけられねぇ」

 彼は立ち止まってボアソナードを一旦降ろすと、空いた手で額の手拭いを口元まで下げた。

「が、念のため顔は隠していくぜ」

 手拭いは俺の案内に従って、入り組んだ路地の奥へ奥へと進んでいった。

「案内しておいてなんだが、ずいぶん込み入った地形だな」

「他宗派の連中から隠してんだろ。どこも考えるこたァ同じだ」

 景色はどんどん緑色になっていき、家並みもまばらになってきた。

 やがて手拭いは、一軒のみすぼらしいあばらの前に立ち止まった。

「本当にここであってんのか?」

「地図ではここのはずだったが……」

 俺は手拭いの肩から降りながら、獄中でリリがくれた地図を頭に思い浮かべた。なんとか暗記して、紙は見つからないように処分してあった。

「そいつは信頼できる筋の情報か?」

 手拭いはアテネとボアを丁重に降ろしながら問うた。

「ああ。ドクター・リリパットと言って、俺の……」

 ことばを区切る。どういう関係と表現すればいいか迷った。

「お前の?」

「俺の……、そうだな、恩人だ」

「今や俺も、お前の恩人だぜ」

「じゃあ、彼女は大切な恩人といったところだ」

「ヘッ、こいつめ」

 手拭いは肘で俺を小突いた。ボアソナードが呻く。

「ちょうど相方もお目覚めのようだな。後は何とかしてくれるだろ」

「世話を掛けたな……。近いうち、お礼をさせてくれ」

「いや、いい」断りつつ、彼は踵を返した。「礼ならもう受け取った」

 手拭いの言葉に、俺は首を傾げる。彼はこちらに背を向けたままひらひらと手を振った。

「ま、そのうち分かるぜ。多分そう先の話じゃねェ」

 彼はこちらを振り向いて、意味あり気に笑った。「また会おうじゃねえか」


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